「文学横浜の会」

 随筆

これまでの随筆

2003年05月18日


「コスモスの花の咲くころ」

 昔お世話になった恩師にお会いする機会があった。 玉砂利を敷き詰めた郷里の寺に、母の墓参りをしたときのこと、 コスモスの花が咲き誇る初秋の頃である。

「二十三回忌ですか、早いものですね」
 境内のけやきの木の側に腰を下ろすと、先生がすかさず言った。
「はい、私ももうじき母と同じ年になります」
「そうですか。じゃ、私が歳をとっても可笑しくはないかな」
 そう言って高らかに笑われた。

透き通った声も、ぴんと伸びた背筋も、幼い日に戻ったようで、当時と少しも変わっていない。 こうして側にいるだけでほっとする。 二人並んで座っていると、秋の陽だまりにゆらゆらと線香の煙が漂っている。 私が顔を上げ先生の横顔を見つめると、口を大きく開けて深呼吸をひとつされた。 それから好物のデザートを食べ終えたときのように満足そうな笑みを浮かべた。

「残されたものは、旅立たれた人の分まで強く生きなければなりません」

 すでに職を退いた目の前の老紳士は、この言葉を覚えているだろうか。 母の亡骸に寄り添い、涙していた私に語りかけてくれたことを。 穏やかな顔からは、想像もつかないほど、強い口調で私の肩を叩きながら云ったあのときの言葉が、 どれほど私を慰めてくれたことか。

 先生覚えていますか?そう聞いてみたい心境にかられたが、私は黙って俯いた。

 小学校当時、私の担任であった先生は、やや年配であったが、 休み時間はよく折り紙を折っては遊んでくれた。 低学年用の小さな椅子に大きな体を屈め、紙飛行機が出来上がると、 集まった生徒の頭上に優しく飛ばしてくれた。 私は不慮の事故で手が少し不自由であったが、先生の前では何でもないように振舞った。 先生は母から事情を聞いていたのだろうが、皆の前で私を特別扱いすることはなかった。

 母が教師をしていた時期もあってか、その後何度か先生に会う機会はあったが、 それも私が若い時期であった。午後の列車で横浜に帰るという日に、 こうして再び会えるなんて思ってもみなかった。運命のいたずらなのか。 それとも母の洒落た演出なのだろうか。通りからほんの少し入っただけなのに、 境内は木々のざわめきも、鳥のさえずりさえも日常とはどこか違う。 寺とはなんと不思議な空間なのだろうか。

「横浜は良いところでしょう?」
「はい。でもいまだに都会には馴染めなくて、こうして実家に帰ってくるとほっとします」
「それは、貴女の体を流れているご両親の血が濃いからですよ」
「血ですか?」
「そう、つまり古里への血ですかな」

 人は幾つもの別れを経験しながらも、いつしか心の傷口を少しずつ埋めていく。 それが人との再会であり、故郷という偉大な力なのであろう。 都会で長く暮らせばそれだけ故郷への思慕が募る。 先生がおっしゃるように、古里への思いとは血のように濃いものかもしれない。

「お父さんを大切にしてあげなさい」
「はい。先生もお元気で」

 再会した喜びもつかの間、寂寥がこみ上げてくる。 コスモスの花の咲くころ、またお会いできるだろうか。 後姿を見送りながら先生の突く杖の響きが、心地よく空に吸い込まれていった。

<記憶のページより S・K>


[「文学横浜の会」]

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜