「文学横浜の会」
随筆
2003年09月06日
「間違えられた女」 転職をして二ヶ月、慣れない仕事へのストレスなのか数日微熱が続いた。 体がだるいし節々が痛い。今日は公休なので旧友とデパートに行く約束をしていたのに。 ほんとに久しぶりの外出だ。 彼女がI町に越してしまって以来だから会うのは一年ぶりということになる。 お互い仕事をしているのでこうして二人の休みが合うのはめったにない。 ほとんど聞き役に回る私であるが、彼女の話は面白い。というより趣味で小説を書いているらしい。 彼女が書いたという小説を、読んだことはないので良く分からないが、 私の知らない世界を持っているのが羨ましい。 夫は北海道へ出張中なので帰りの時間を気にすることもない。 なんとしても約束の十一時までには平熱に戻さなければ、そう思ってはみるが、 熱は下がるどころかどんどん上昇している。私は置き薬の救急箱を取り出し、解熱剤を探した。 置き薬は高価なのでめったなことでは使わない。一瞬迷いながらも効きそうな名前の箱を開けた。 再度布団を敷いて毛布を掛け横になると睡魔はすぐに私を襲った。 見たこともない二人の男が担架を持って走っている。汗だくになりながら一生懸命走っている。 どこへ行こうとしているのか、尋ねても何も言わない。 私に見えるのは青い空と小父さんが掛けている大きなマスクだけ。運ばれているのはどうも私らしい。 担架が揺れるたびに私の顔に男達の汗が滴り落ちる。マスクに手袋? どこかで見たようなスタイル。 どうしてこんなに汗が降ってくるの? 私をどこに連れて行くのよ? 「夢か」額にたくさん汗をかいている。タオルで拭いているとブザーが鳴った。 もしやと思い時計を見ると、無常にも約束の時間は過ぎていた。 「あっ、彼女だ」 「電話にも出ないから心配して来てみて良かった。どうしてこんなになるまでほっといたの? 四十度もあるよ。市販の薬で済ませようなんてせこいこと考えるからよ。呼ぶの?」
「呼ぶって、今朝出かけたばかりでまだ雲の上だと思う」 横になっているのに頭がくらくらする。彼女のテンポに私の体が付いていけない。 こうなったら彼女だけが頼りであった。 オーバーな音を鳴らしながら救急車がやってきた。 これじゃご近所に筒抜けじゃないの、と思いながら耳を澄ませていると、 玄関のほうでゴソゴソと物音がした。彼女の後を背の高い二人の男が入ってきた。 夢の続きを見ているのか、そこに現れたのはあの小父さんだった。
「あの、どうしてここへ?」 「熱は? 四十度。節々が痛い? ううーん。奥さん最近どこか旅行に行った?」 私が首を横に振ると「隠さないで正直に言いなさいよ。これは貴女だけの問題じゃないから。 家族の中では?旦那さんが出張中。奥さんは本当に行ってないね」 私は二度首を振ったが救急隊員は私を見ようともしないで、 おもむろに手袋をはめると「貴女が通報者? このマスクを付けて、それからここを動かないように」 その時私の頭の中を「S・A・R・S」の四文字が駆け巡った。 まさか!日本人が発症したなんて聞いてないよ。 まして私は旅行など行く暇もないほど慣れない仕事に打ち込んでいたのに。 これから私達(彼女は借りてきた猫みたいに大人しく私の側に座らされていた)はどうなるの? まさか、隔離なんてことないよね。 ストレッチャーに乗せられた私は恨めしそうに小父さんを見上げたが、 彼らは一点を見つめてただひたすら駆ける。 多分何を言っても無駄なようだと思い私は毛布で頭を覆った。 小父さんの汗が顔にかからないためにも。 案の定S大病院のだだっ広い部屋(これを隔離室というのだろうか)に私と彼女はいた。 一日に数百人と訪れる病院とは思えない静けさだ。この静けさがよけいに不気味だった。 これから何が始まるのか検討もつかないが、嫌な予感がする。 数分後現れた医師と看護婦のいでたちはまさしくテレビで何度も見たあの姿だった。 険しい表情でこちらに近づいてくる光景は、 まさしく映画『エイリアン』のラストシーンで彼女が見せた、 不安げなそれでいて悪に立ち向かわなければ人類は救えないというあの情景を思い出させた。 彼らは救急隊員からの報告書を何度も読み返しているようだった。
「奥さん、本当に海外には行ってないですね」 熱が一気に上昇したような気がした。何でもやってくれと私は開き直った。 すでに病院に着いて数時間が経過していた。そして 「検査の結果が出ました。風邪のようですね。 解熱剤を出しておきますから二、三日安静にしていれば良くなるでしょう」 普段の白衣に着替えた医師は穏やかな顔で言った。 数時間前までの緊張感は何だったのか、こんな部屋に通されて聞くような話でもないが、 これで一安心ということなのか。でも私の気持ちは治まらない。 「なにか疑ってらっしゃるようだから普通の風邪じゃないかって、救急隊員の方にお話ししました」 亡くなった祖母が「自分の体は自分が一番よく分かる」と言っていた言葉は私語になってしまったのか、 虚しさがこみ上げてきた。 「まあまあ、検査でなんでもなかったのだからこれで一安心ですよ。 しばらくここで横になってからお帰りなさい。薬は受付で会計を済ませてから貰ってください」 病院で飲んだ解熱剤が効いたのか、 SARS患者に間違えられたことで熱がどこかに飛んでしまったのか分からないが、 病院を出る頃には平熱近くに戻っていた。 私たちは会計を済ませ、堂々と正面玄関から胸を張って帰ってきた。 家に戻った私たちは夕食の支度も忘れるほどおしゃべりをした。 外食するはずだった昼食代が治療費とタクシー代に化けたのだから話が尽きることはなかった。 しかし私はとても疲れていて横になりたかったが、彼女が私を解放してくれなかった。 咳をしただけで嫌がられる現代、しばらくは二人だけの秘密にしようと誓ったが、 あの彼女が神妙に黙っているだろうか。 なにしろあの日、私の行動のすべてを知っているのは彼女だけだから。 興奮したようなそれでいてぎらぎらしたあのときの彼女の瞳は、 「SARS」が囁かれなくなった今でも私の脳裏に蘇ることがある。 にんまりと微笑みながらキーを叩いている彼女の姿がちらつくことさえある。 「間違えられた女」なんてタイトルでこっそりホームページに載せなければいいのだが。 なんだか背筋がぞくぞくしてまた熱が上がってきそうな気分に陥ってきた。 <S・K> |
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜