「文学横浜の会」
随筆
2004年1月18日
「父の訓辞」 「お母さんの三十三忌が来年ですが、どのようにしましょうか?」と父に訊ねて叱られた。 私にしてみれば今年はこういう年にしたいとか、来年こそはこうするぞとか、ついつい先々のことまで思ってしまうが、 父にとっては今日一日を無事過ごせるかが重要だと言う。 城井友治氏もエッセイの中で「朝目覚めた時、ああ、今日も生きていたと思うことがしばしばある」と書いている。 父もまた同じ心境なのだろうと思った。 私が中学生の頃、元旦の朝は決まって父の訓辞で新年が明けた。 前夜、恒例となった「紅白歌合戦」を楽しみながら年越しそばを食べるのが我が家の風習だった。 (この日だけはテレビを観ながらの食事は許された)のんびり蕎麦を口に運んでいると「年が明けてしまう」と母に言われ、 味わうまもなく食べたのを思い出す。部屋に戻り、布団に潜ってはみるが眠気は一向にやってこない。 このまま眠ってしまっては何かもったいないような、年が明けるのを確かめたいなどと、興奮冷めやらぬものがあった。 元旦の朝、冷たい水で夜更かしの腫れたまぶたを洗い、お膳の前に正座して父が上座に着くのを待つ。 母が前日から準備していたおせちは大皿の上で、あまい匂いを奏で私を誘惑する。 煮しめの里芋がいい色に染まっているのを眺め、厚焼き玉子の黄金色を見逃さず、頭の中に食する順番を決めていく。 最後にお雑煮を頂いて満腹の自分を想像するだけでにんまりしてしまう。こういう空想に私は長けていた。 しかしそれは私の贅沢な想像でもあった。現在の自分とは似ても似付かないほど当時の私は病弱であった。 今もって二人の姉から「お母さんを独占できたのは貴女だけね」と言われる。 もう一つ挙げるとすれば、父から頂くお年玉が楽しみであった。 思い起こせば心に残っている訓辞はないに等しい。あるのは正座している辛さぐらいだ。 しかし今の私は神妙な面持ちで父の言葉に耳を傾けている。それは親が高齢になったというだけではない。 父の言葉一つひとつに人生の重みを感じたからだった。父の話はまだ続いている。 「私は八十歳になったので役をすべて降りた。後の人生のんびり好きなことをして暮らす」 そして父は我が家に飾ってある一枚の写真を見ながらこう言った。 「あの写真はとても気に入っている。あれを私の葬儀に使ってくれ」 「正月早々冗談言わないで」と言いかけて私はその言葉を呑みこんだ。 冗談と一言で片付けてはいけない雰囲気がそこにあるような気がした。また私の勝手な想像が始まったと思いながらも、 返す言葉も見つからず、じっと写真を見つめた。「グランド・ゴルフ協会二十周年」の表彰状を手にした父は、 背筋を伸ばして少し緊張しながらも、誇らしげにカメラに収まっていた。この写真が父の集大成なのか。 どこかでそう思い、写真を飾っていた自分に腹を立てながら、当時聞き流していた訓辞を、私は自分への戒めと思い訊いている。 毎年恒例になった父の上京だが、平成十六年の元旦は私達家族にとって心に残る日であった。 <S・K> |
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