「文学横浜の会」

 随筆

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2004年10月3日


「心は故郷へ」

 皆さんは食べられる山野草を幾つご存知だろうか?恥ずかしながら私は東北出身ではあるが名前をよく知らなかった。二十五年間田舎にいて、記憶にある限り山菜など摘みに行ったことはなかったからである。

 ここ数年夫と野山を歩くようになって、都会育ちの彼にあれこれ教わっている。私が「先生」と呼ぶだけあって彼の山野草の知識は半端ではないようだ。

 そんな彼を喜ばせたのが、娘の選んだ相手が秋田県の人だったからだ。彼の実家から季節ごとに新鮮な薫りが届くようになった。春はフキノトウ、ウド、コゴミ、ゼンマイ、タラの芽、ネマガリダケ、ヤブレガサ、ヨブスマソウ(ボンナ)など。夏はスイカ、秋になると米、きのこなどなど。山菜の中には都会では聞き慣れない物が多く、それを承知しているのか、丁寧にレシピまで添えてある。普段は使わない備前の器など出してきて、てんぷらやら混ぜご飯など盛って季節を味わっている。

 田舎の夕食の仕度はちょっと変わっていてざるを持って「ちょっこさ、そこらを一回り」今日食べる分の山菜を摘んで戻ってくるらしい。秋田と言えば山菜の宝庫だからそれも頷けるが、なんとも羨ましい限りである。フキノトウなど見向きもしないと聞いて、山菜好きの娘は「どうしてこんなに美味しい物を地元の人は食べないのか」と憤慨していた。我が家の周りを歩いてみたところで、落ちているものは空き缶か、タバコの吸殻ぐらい。食用と言えばこの時期いちょう並木の銀杏の実か。それも風に吹かれてアスファルトの上で種が飛び出している。争奪戦の激しい都会では、早起きして車の往来を気にしながら、手にビニールをはめ、こそこそと袋に入れる。自然の恵みだから、人の目を気にしなくともいいのだが、ただのものを頂くときは気がとがめる。

 あれは母の二十七回忌に福島に帰ったときだった。その年は天候もよく秋晴れが広がる午後だった。無事法要を済ませ帰る準備をしていると、庭のほうから笑い声が聞こえる。なんとも楽しげな声に私は窓から外を覗いて見ると、庭のはずれのほうで女の子が三人しゃがんでおしゃべりをしている。よく見ると手に袋を持っていて、クリが数個入っている。子供たちに涼しげな木陰を作っているのは、私たちの成長を見守ってきた栗の木である。この時期、イガの割れ目から実がこぼれ、子供たちの周りには栗の実が転がっている。母が元気だったころ三人姉妹の我が家は、あの場所でよくクリを拾ったものだ。その木も今大木となってご近所にお裾分けするまでに成長した。横浜に嫁ぎ娘が幼稚園のころ父からイガ付の枝が送られてきたときは驚いた。枝が枯れないように牛乳ビンに水を入れ、丁寧にガムテープで括られてあった。「都会の子供は食物の成長過程を知らない」と思ったのか、娘に栗の正体を見せてやりたい父の愛情表現だったのだろう。

 それ以来私は毎年娘を田舎に連れて行った。彼女は父と一緒に畑に行きジャガイモを掘り起こし、とうもろこしを収穫して都会では味わえない体験をさせてもらった。父は野菜だけに留まらず、たらの木を植え、カブトムシの幼虫を育て、帰郷するたびに娘を驚かせた。私は真っ黒に日焼けした娘の顔を頼もしげに見たものだ。

 しかし彼女も成長するにつれ、田舎に帰る機会が減り、父の畑は知り合いに貸すようになっていった。彼女はウインドウに並んでいる流行のバッグやアクセサリーを好み、髪を染めた。はやりの歌を口ずさみ、友達とメールのやり取りをするようになっていった。父と耕した土の匂いや感触はすでに彼女にとって過去のものになってしまったかに見えた。だが、しかしである。結婚を機に忘れかけていた田舎の思い出が彼女の中で蘇ったようだった。第二の人生を故郷でと考えていた私だったが、最近「田舎に住みたい」と娘も言い出した。

「子供が生まれたら、自然の中で伸び伸びと育てたいじゃん」彼女の迫力に私自身戸惑っている。

 いつか栗の木の下でどんな光景が見られるのか、今から胸がわくわくする。ちなみに婿さんの実家へのお返しと思いデパートを数件回ってみたが、ふさわしい品はなかった。自然の恵みに勝るものは、どうやら都会にはないようだ。故郷とは不思議な魅力があるのは間違いない。

<S・K>


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