「文学横浜の会」
随筆
2005年11月06日
「北条政子」
箱根峠を包んでいた霧が流れ出した。陽光を縫うようにさ迷っていた霧は朝日に吸い込まれていったのか、
突如前方に富士山が現れた。車窓の下方に芦ノ湖が見え、湖面は頭上の青を鏡に映したように輝いていた。
バスの中は一瞬静かになった。私は前方の大きな物体に手を合わせ、これから訪ねる北条政子の生涯に想いを馳せた。
バスは金沢八景を出発して順調に走行し、山中城址を通り昼前に韮山町に入った。
現在の蛭ヶ小島(ひるがこじま)は狩野川に沿った新道にある。
源頼朝が配流されたと言うので島かとばかり思っていたが、川の中州と聞いて驚いた。
当時狩野川は雨が降ると氾濫しやすく、蛭ヶ周辺は孤島のようになったという。
蛭ヶ小島という地名はそこから付いたのか。草蛭が多かったとも云われる。左前方に石標が見えた。
北条氏文書には蛭島屋敷とあるがそれらしきものは残っていない。
唯一平成に立てられた頼朝と政子の銅像がひっそりとあるだけで辺りは閑散としている。
頼朝に寄り添っている政子は激しかった国取り合戦とは無縁の穏やかな表情をしている。
都の方角を向き、平和を願い合掌しているようにも見える。
激動の鎌倉時代を生き抜いているとは思えない、恋する少女のようだ。
願成就院は頼朝の奥州征伐の戦勝を祈り、北条時政が創建したと言われる真言の古寺である。
この寺に政子七回忌追善供養の地蔵菩薩座像が安置されてある。
この像の前に立った私は、政子の穏やかな表情の奥に世を見据えた鋭い視線を感じた。
頼朝亡き後、この地を守り、尼将軍とまで言われた政子を、蛭ヶ小島で頼朝に寄り添うように立っていた彼女から
想像することは出来なかった。
政子を知る旅は、政子に触れる一歩に過ぎなかった。今「北条政子」をあらためて読み返し、
歴史の奥の深さに戸惑っている。だが、平家の傘下にあった北条家の長女が、
平家ではなく源氏の武将と恋に堕ちる運命の皮肉さが面白い。
著書の中に、政子が山木兼隆との婚礼を嫌い、伊豆の山を越えて頼朝のもとに逃げる。
後に子供を連れ、父のいる北条館を訪れる箇所がある。
「・・・・久しぶりに政子は伊豆の山を越えた。のぼりはじめたときは、静かに道をつつんでいた霧が、
峠ちかくになると俄かに渦巻きはじめて、一瞬のうちに、さっと消えた。濃い緑の山の向こうに、
左手には相模の海が光り、右手には、駿河の海の、ゆるやかな弧をえがいた浜辺がひろがっている。
そしてその背後には、群青の空を背に、くっきりと夏富士がそびえ立っていた。
・・ああ、この道を、夢中で私は走ったのだ。・・・・」
歴史は人間が創ってきたことを再認識する旅でもあった。車窓からは何も見えず、
政子が走った山並みは暗い闇の中にある。
<S・K>
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜