裁判の公開と傍聴人のメモ権

甲斐素直

[問題]

 企業Aは、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとするBに対し、不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、傍聴を禁止することを、当審理担当の民事部裁判官Cに対して求めた。これに対し、Cは傍聴の禁止は裁判の公開原則に触れるとして認めなかった。しかし、同時にCは、審理においてメモをとることを認めると、営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、傍聴人がメモを取ることを禁止した。

そこで傍聴人Xは、このメモをとることの禁止が、憲法21条及び市民的及び政治的権利に関する国際規約19条、憲法82条に違反するとして、国Yに対して、国家賠償法11項に基づく損害の賠償を求めた。

裁判所の措置について、裁判公開の原則との関係で生ずる憲法上の問題を挙げて論ぜよ。

[はじめに]

 平成5年に、司法試験で次の問題が出ている。

 次の各事例における裁判所の措置について、「裁判公開の原則」との関係で生ずる憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。

(1)映画の上映がわいせつ図画陳列罪に当たるとして、映画製作者が起訴され、当該映画の芸術性・わいせつ性を巡って争われた刑事訴訟において、裁判所が、わいせつ物の疑いのあるものを一般傍聴人の目にさらすのは適当ではない、という理由で、公判手続きの傍聴を禁止した場合

(2)ある企業が、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとする者に対し、右不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、裁判所が、審理を公開すると営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、口頭弁論の傍聴を禁止した場合

(3)右の(2)の訴訟において、裁判所が、口頭弁論の傍聴は禁止しなかったものの、傍聴人がメモを取ることを禁止した場合

 本問は、この小問2と3をつなげ、問いの内容としては小問3だけを聞いたものに過ぎない。さらに言うと、最終的な論点となるのは、レペタ事件の論点と同一である。だから、途中をどのように論じようとも、最終的にはレペタ事件最高裁判決と同じ言い回しが書かれることが好ましい。もちろん、レペタ事件最高裁判決に異論があれば、そう書いて構わないが、とにかく、それにむけてしっかりと理論構成をしていけばよい。

 問題文に、憲法82条と21条が挙げられているが、その意味がよく判っていない人があるようなので、最初に簡単に説明する。

 問題は、裁判の公開が単に裁判の公正性維持の手段に過ぎないのか、それとも国民の知る権利の裁判における現れなのか、ということである。前者とすれば、ひたすら82条だけを論ずればよく、21条はそもそも問題にはならない。それに対し、82条が知る権利、すなわち21条の現れとすれば、裁判所として公開の制限はおいそれとできることではなく、また、知る権利は当然に知った内容を記録する権利を含むから、傍聴人のメモをとる権利も、裁判所として尊重しなければならない、ということになる。

 したがって、本問の最大の論点が、82条と21条の関係と言うことになる。今回論文を出してきた人は、全員が単純に、全く理由を論じることなく、裁判の公正性担保手段だと書いていたが、これではその段階で落第答案となる。

 論文は理由が命と言うことを、心に刻んで、理由は何だろう、といつも考えるようにしてほしい。

一 裁判の公開の限界構築の方法

 裁判の公開はなぜ必要とされるのだろうか。

 大きく二つの把握方法があると考えられる。人権と考えるか、制度的保障と考えるか、である。換言すれば、民主主義的な理念の表れと考えるか、自由主義的な理念の表れと考えるかである。

 前者は、国民の知る権利の、裁判における保障であると考えることになると思われる。主権者たる国民として、国政を監視する権能があるのは当然であり、その重要な手段が国会における会議の公開と並んで、この裁判の公開が存在していると考えることができるはずである。その場合には、人権の一種とされるから、その制限は厳しい例外に服するのは当然である。そのためもあってか、理論的には当然予想できる、この説を唱える学者は、官権の限りでは存在しない。

 それに対し、通説・判例は、制度的保障ととらえる。例えば佐藤幸治は次のようにいう。

「フランス革命前のアンシャン・レジームの下での秘密裁判を克服することを課題とした近代の公開・対審・判決という訴訟原理(公開即公正という発想)は、その当時に比べれば、裁判、特に民事の裁判に期待される役割は大きく拡がってきている現代において、多少修正し、実質的に公正を確保するような裁判原理を模索購求すればよいのだという認識がある」

(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣昭和63年刊434頁より引用)

 すなわち、封建時代における暗黒裁判の否定として、公開という制度が保障されたと考えるのである。この文章の後半は、その論理的な結論として、憲法82条の列挙は単なる例示だ、という考え方を導いている。

 判例も、同様に制度的保障と考えている。レペタ事件最高裁判決は次のように述べた。

「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある」(最大平成元年38日=百選第5160頁)。

 夏休みの合宿の時に一所懸命強調したので、覚えてくれていると期待したのだが、今回も、全員が、判例そのものが根拠となる、という感じの書き方をしていた。これでは答案にならない。わが国は判例法主義を採用しているわけではないので、判例そのものは根拠法ではない。一つの解釈に過ぎないという点で、学者の学説と全く違いはない。。ただ、それが国家機関によって下された有権解釈であるので、尊重される度合いが高い、というだけのことである。大事なのは、その判例の示している理由である。君たちが、判例と同じ理由で論文を書くのは構わないが、理由の代わりに判例があると書くのは落第答案になるのである。

 困ったことに、上記レペタ事件最高裁判決は理由を述べていない。だから、君たちとしては、自分で理由を考えて述べなければならない。国家試験における乏しいスペースを考えれば、上記に紹介した佐藤幸治の説「フランス革命前のアンシャン・レジームの下での秘密裁判を克服することを課題」として公開原則が導入された、という程度の書き方で十分である。

 とにかく、これが制度的保障だという点だけは抑えておいてほしい。そうでないと、傍聴権が人権になってしまい、公開の制限が論じられなくなってしまうのである。

 それに対し、制度的保障と把握した場合には、国民の裁判に対する信頼という制度の中核を侵害しない限り、公開原則を制限することは一般論として可能である。そこで問題は、「国民の裁判に対する信頼」は、より具体的にいえば、どのような概念かということが問題となる。この点についてきちんと論じているものはないが、レペタ事件最高裁判決が述べていることから、ある程度判断できる。すなわち、

「傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であって、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである。傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であって、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがって、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある」

 要するに、公開原則が要求しているのは、文字通り、一般公衆に対して傍聴を許すことに尽きるのであって、それ以上のものではない、という訳である。公正かつ円滑な審理がまず要求されるのであって、それと抵触しない限りで傍聴を許す必要があるのに留まるということである。先に、佐藤孝治の「公開即公正」という見解を紹介した。それと同旨の考えを最高裁判所も示したと評価しることができよう。

 このように考える限り、公正が害される恐れがあれば、公開を制限することは広く認められて良い。しかし、問題は、822項がその例外を非常に厳しく制限する姿勢をとっていることである。すなわち、非公開が許されるのは、文言に依存する限り、「公の秩序又は善良な風俗を害する虞」がある場合に限定される。

 そこで、問題は、ここにいう「公序良俗」という言葉が何を意味しているか、ということになる。かつての通説は次のように説いていた。

「公序良俗違反という観念は、違法性の実質的、社会学的側面を表現するために用いられることもあるが、ここではそのような一般的意味ではなく、より具体的に、人心を刺激して公共の治安を破り、あるいは猥褻等人心に不良の影響を及ぼして風教を傷つけるようなことをいうものと解される。旧憲法の『安寧秩序又は風俗を害する』というのと同義である。」

(『註解日本国憲法』有斐閣1241頁より引用)

 このように公序良俗概念を狭く解する場合には、本問で言われている営業秘密の侵害なんてものは、公序良俗で説明することは不可能という答えが導かれることになる。そう考えた場合には、だから本問の場合、公開の制限は不可能であるという答えが出てきて終わりになる。

 これに対して、近時は次のように述べて、例外を幅広く認めるべきである、という見解が一般的になりつつある。

「憲法82条の定める公開の保障の重要性を承認するとしても、それだけが問題なのではなく、それを包み込むところの、公正な手続き的配慮の要請というものがその基底にあり、今やむしろそこにこそ着眼して裁判の運営を考えるべき時期に来ているのだ、ということも、はっきり自覚すべきところなのであろう。」

(三ヶ月章『民事訴訟法研究(7)』有斐閣、昭和5311頁)

 この議論の場合にも、公開は、公正な裁判の実現手段に過ぎない、という前提が取られ低ることが判る。こうして、制度的保障説の下では、基本的な方向として、裁判の非公開を、憲法822項の極めて限定的な文言にも関わらず、より拡大する方向に向けて、様々な手法が検討されることになる。以下、簡単に紹介しよう。

(一) 例示説

 先に紹介した佐藤孝治の見解が代表的なものである。憲法822項の公序良俗以外にも、同条の基礎となっている裁判の公正という要求により合致する場合には、公開の制限が可能である、と説く。

(二) 国際人権B規約14条説

 同条1項は原則として公開裁判を保障しつつ、次の通り、例外として822項に比べると幅広い規定をおいている。

「報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序もしくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において、裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」。

 わが国は昭和54年に国際人権規約を批准しており、この条約は自力執行可能な条約に属するから、この規定もまた国内法としての効力を有する。

注:古い憲法教科書及びそれを引き継いでいる予備校本では、条約が基本的に理解できず、凡ての条約が国内法上の効力を持っていると言わんばかりの書き方をしているものがある。もちろんそれは間違いで、ほとんどの条約は国家間の法的約束であるので、約束当事者である国家のみを拘束し、直接には国民に対して効力を有しない。これを自力執行不能Non-selfexecutingな条約という。この場合には国内法化のためには国会による法律の制定が必要である。例えば、日米安全保障条約は、自力執行不能な条約なので、米軍に基地を提供し、その基地内に日本国民が立ち入らないようにするためには、条約に基づく刑事特別法を制定する必要がある(砂川事件参照)。

 これに対し、国連条約を中心に、一部の条約は国内法化の手続きを踏むことなしに、国内法としての効力を有する。これが自力執行可能Self-executingな条約である。国際人権規約の場合、A規約は自力執行不能で、国内法が必要な条約であり、B規約は自力施行可能で、国内法の不要な条約である。

 これを根拠とすれば、先に問題となるとして挙げた領域のほぼすべてについて裁判の非公開を根拠づけることが可能となる。

 問題は、どのようにして憲法82条と国際人権規約の整合性をとるかである。考え方としては次のようなものがあり得る。

 第一は単純に国際人権規約が憲法に優位する、と説明することである。国際人権規約は、条約という形でわが国が批准したものであるが、それを制定した国連の意図は、それを確立された国際法規にすることにあり、我が憲法982項の解釈として確立された国際法規は憲法に優位するから、これは十分に説得力ある説明方法である。

 第二は、憲法優位としつつ、憲法が822項以外の場合にも、非公開の場合を認めていると解する立場である。この場合、学説的には上記例示説と一致し、その根拠を国際人権規約に求めることになる。

 第三は、憲法優位としつつ、憲法21条の表現の自由に、国際人権B規約192項の要求する知る権利を読み込むように、公序良俗という言葉の理解としてこの14条を読み込んでいく、という方法である。この場合、結局、学説的には次の公序良俗概念拡張説と一致することになる(浦部法穂『全訂憲法学教室』310頁はこの立場をとることを明言する)。

 こんにちのわが国で、国際人権規約を無視した議論をすることは不可能だから、これら三説のいずれが良いか、基本書と相談して決定しておいてほしい。一般には第三説を採るのが無難といえよう。

(三) 公序良俗概念拡張説

 憲法の文言解釈という観点から見れば、公序良俗という言葉の意味を戦前の安寧秩序よりも拡大することができれば、それがもっとも簡明な説明であることは疑う余地がない。

「従来の憲法学説が『公の秩序』の内容を公共の安全と狭く解釈してきたこととの関係では問題が残るもののそれを社会的に認められた権利と解し、かつ、非公開にすることに十分な理由が認められる場合に限定したうえで、『公の秩序』を広げることがもっとも異論の少ない解釈であるように思われる。」

(戸波江二「裁判を受ける権利」ジュリスト1089281頁より引用)

 しかし、公序良俗という言葉は様々な場面で使われるだけに、ここでの意味をなぜ社会的に認められた権利と決定できるのかははっきりしない。また、社会的権利というのは具体的に何かもはっきりしない。

 そこで、この立場にある他の説を見てみよう。

 公開原則を排除するための「公序概念の内容は、他の場合よりも厳格に考えられなくてはならないことは、疑いを入れない。単なる産業界の秩序や、営業秘密保有者の個別的利益では、この場合の公序を満たさないのはもちろん、営業秘密保護が社会的妥当性を持つというだけでも、公序を基礎づけるには不十分であろう。〈中略〉それにも関わらず、本論文においては、公序が害されることを理由として営業秘密についての審理を非公開とすることができる、という結論を採る。確かに、営業秘密の保護、具体的には、営業秘密に基づく差し止め請求権を認めること自体は、法律上の秩序である。しかし、営業秘密について、一定範囲の第三者に対しする関係で差し止め請求が認められるに至った背後には、損害賠償による事後的救済のみでは秘密の保護に十分ではなく、非公知性、秘密性を失うと保有者に回復しがたい損害が生ずることなどに鑑みて、その保護を強化したという判断が存在する。このことは、営業秘密が、物権のような絶対権ではないが、一定範囲の第三者に対してその権利自体の承認を求めうる財産権として承認されたことを意味する。いいかえれば、営業秘密は、差し止め請求権をも内包する権利として憲法292項にいう公序の内容となる。」

(伊藤真「営業の秘密と審理の公開原則」ジュリスト103183頁より引用)

 この場合、論文のタイトルにあるとおり、本問の小問2で取り上げられている営業秘密だけをテーマとしているので、財産権だけにしか論及していないが、それを一般的に述べるならば、公序良俗とは人権侵害のことだ、と述べていると考えて良いであろう。戸波江二説でいう社会的権利というのも人権と読み替えて良いと思う。

 この引用部分で「回復しがたい損害」という表現を、非公開のメルクマールとしているのも、注目するべきであろう。すなわち、裁判の非公開は、その審理内容が一般に公表されることを事前に抑制する行為であるという点において、表現の自由の事前抑制と同質の行為である。事前抑制禁止の法理に対する例外としては、その表現行為によって害悪の発生することが異例なほど明白であるか、あるいは回復不可能な損害が発生することが明白であることが要求される。戸波江二のいう「非公開にすることに十分な理由が認められる場合」というのも、この程度の十分さと考えないと、国際人権規約の要求する「裁判所が真に必要と認める限度」という要件にかみ合わないと考えている。

(四) 非公開審理を求める権利

 上記伊藤説は、結局、財産権によって公序概念を拡張しようという試みということができる。そうであれば、別に議論は財産権に限定される必要はない。およそ一般的に人権が審理の公開によって侵害されるような事態が発生すれば、32条の裁判を受ける権利から一般的に、非公開審理を求める権利というものを構成するのはそう突飛な発想とは言えない。すなわち

「本稿は、憲法32条を、裁判所へのアクセスを保障しただけでなく、非公開裁判手続きにおけるデュー・プロセスを保障したものと理解し、その一要素として実効的な救済を求める権利を内包するものと理解する立場に立ち、裁判を公開にすることが実効的な救済を不可能にする場合、原告は非公開審理を求める権利を主張しうるものと考える。従って、政府が国民の秘密を侵害し、その秘密に対して有する基本的人権を侵害している場合には、国民は憲法32条の下でその秘密について有する基本的人権の侵害に対して実効的な救済を求める権利を有しており、そこから非公開審理を求める権利が導かれると考えるべきである。」

(松井茂記「裁判の公開と『秘密』の保護」民商法雑誌106581頁より引用)

 ここだけを見ると、この説は極めて魅力的であるが、諸君としてこの説に依拠しようとするときには注意するべき点が一つある。それは、非公開要求が国民の権利である、ということは、裁判所の裁量権を否定してしまう、という点である。したがって、当事者の非公開要求にも関わらず、裁判所が公開とした場合に、違憲問題が発生する。このことは、制度的保障という理解そのものの限界などと絡んで、論文における理論体系全体に影響を及ぼす、ということである。

(五) イン・カメラ審理と公開原則

 本問で問題になっている傍聴人の排除という点に絡む主要学説は以上の通りであるが、冒頭にも述べたとおり、今後、こうした問題が出題されるとすれば、むしろ情報公開法との関連で出題される可能性が高い。そこで、本問とは関係ないが、その場合における重要な学説を紹介しておきたい。

 この説では、公開審理とは、まさに本問で問題になっているような、傍聴人を排除して訴訟当事者と裁判官だけで行う審理のことをいう、ととらえる。その結果、次のように述べる。

「これまで構築されてきた憲法秩序の下では、企業秘密、財産権よりも、知る権利を具体化するための権利である情報公開請求権の方が高い価値を持っているとされているのであるから、いくつかの裁判例で説かれているように、この権利の制限に対しては、裁判所は厳格な司法審査を行わなければならない。すなわち、情報公開請求権の保護のために厳格な司法審査を行う過程で、裁判所は、当該情報・文書を非公開で審理することができるのである。

 ところで、この非公開審理は、傍聴人を法廷から排除して証拠調べを訴訟当事者と裁判官の間で行うという方式ではないことに注意しなければならない。非開示処分の対象となった、あるいは、開示の執行停止の対象となった情報・文書を裁判官のみが直接閲覧するという形の証拠調べである。この方式は、裁判官に与えられた裁量権の範囲内のものであり、その権限行使が公正な裁判を維持し、裁判への信頼を得るためであることは前述したとおりであり、憲法82条が認めるところと解される。」

(戸松秀典「裁判の公開と非公開文書の裁判」ジュリスト増刊『情報公開と著作権法』49頁より引用)

 すなわち、イン・カメラ審理は、裁判官の証拠調べの方法にすぎず、公開原則と直接的には抵触することはない、と把握するわけである。確かに現場検証その他の証拠調べは一般に対審とされていないから、これは非常に説得力がある。

(六) まとめ

 いつも強調するとおり、諸君としては自分のとらない学説を非難する必要はない。自分のとる学説を、なぜそれを採るのか、という根拠とともに説明すれば十分である。だから、ここに紹介した学説の中のどれかを、その論拠とともに理解すれば十分である。

 上記の学説について、それが相互排斥的なものと理解する必要はない。例えば、非公開審理を求める権利説は、当然82条の条文解釈としては、例示説を前提にしていると考える必要がある。それ自体は公序良俗としているわけではないからである。

 また、国際人権規約について国内法上の効力を否定する、というような極端な学説を採らない限り、国際人権規約は、どの説を採る場合にも、その根拠として把握するべきであろう。

二 レペタ事件判例

裁判の公開が、先に述べたように、中世封建時代における密室の裁判のような不明朗さを排除することを目的とするものという理解に立つ限り、裁判の信仰が国民の監視下にある、ということだけが公開原則の要求である。したがって、傍聴人のメモを取る権利それ自体は公開原則そのものの内容ではない。その結果、最高裁判所は先に制度的保障の中核に関連して紹介したように、傍聴メモは裁判所の裁量に服すると述べている。

 その上で、最高裁判所は次のように述べてメモを取る権利を承認したにすぎない。 

「しかしながら、それにもかかわらず、傍聴人のメモを取る行為が公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるに至ることは、通常はあり得ないのであって、特段の事情のない限り、これを傍聴人の自由に任せるべきであり、それが憲法211項の規定の精神に合致するものということができる。」

 要するに、傍聴権は、直接には21条の知る権利の現れではないけれど、現に膨張が認められている場合には、21条の[精神]という正体不明の概念を仲介として、原則的に、メモの禁止は許されない、としているのである。この精神なるものを、どう論じるかは諸君にもう少し考えてもらうことにして、だから、メモの禁止を安易に認めることができない、という結論は揺るがない。

 審理の非公開はあくまでも例外で、「裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」にとどまる。したがって、例えば営業秘密の情報内容がきわめて複雑で、通常の傍聴人ではとうてい記憶にとどめることはできないと思われるような場合には、むしろ公開法廷で審理を行うのが正しい態度というべきだからである。

 しかし、そうしたときに傍聴人にメモを取る行為を認めては、情報の漏洩に対する訴訟当事者からの不安から、非公開が要求されることになって、審理が円滑に進まないおそれというものは当然に考えられるからである。

 すなわち、公開原則を、レペタ事件の前提となっている制度的保障という把握をする限り、そこに裁判所の広範な裁量権の存在を肯定せざるを得ない。

 反対に、傍聴権及びメモを取る権利を国民の知る権利というような角度から構成していく場合には、先に述べた非公開審理そのものがこの知る権利の侵害と構成される結果、非公開の例外を許容できる範囲は極端に狭くなると解さざるを得ない。

 このあたりがしっかり論じられているかどうかが、本問の最後の大きな論点と言うことになる。