1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

1月1日 辛卯 天晴
  椀飯、武州の御沙汰なり。夜に入りこれを行わる。今日申酉の間蝕有るべきの由、諸
  道これを勘じ申すと雖も、窮冬その沙汰有り。右大将家建久九年正朔日蝕の時の例に
  任せ、御所を裹まれず。随ってまた蝕正現せず。若くは他州の事かと。

[黄葉記]
  日蝕、旧年より御修法三壇を行わる。また四ヶ寺に於いて御読経を行わる(延暦寺・
  薬師寺・興福寺・東大寺)。蝕時過ぎ遂に現れずと。日没の時聊か現れるかの由晴継
  これを申す。然れども他天文等の輩一切蝕せずの由これを申す。日来諸道一同これを
  勘じ申す。但し算道(雅衡)纔に蝕すべきかの由聊か子細を申すと。今遂に以て正現
  せず。希代の事なり。聖運の法力なり。

[百錬抄]
  日蝕有るべきの由、陰陽等これを奏す。算博士雅衡日蝕有るべからざるの由これを申
  す。終日遂に正現せず。雅衡申す所符号す。尤も珍重なり。仍って勧賞に行わる。
 

1月2日 壬辰
  将軍家鶴岡八幡宮に御参と。
 

1月4日 甲午 天晴
  入道並びに将軍御行始め。北條左近大夫将監の亭に入御すと。御台所並びに若君御前
  若狭の前司泰村の亭に渡御す。将軍御母儀及び将軍御台所(武州妹)秋田城の介義景
  の亭に入御す。
 

1月6日 丙申 天晴
  御弓始めなり。
   一番 大井の太郎    平井の七郎
   二番 小笠原の六郎   長井の彌太郎
   三番 波多野の小次郎  工藤の六郎
   四番 佐貫次郎兵衛の尉 眞板の五郎次郎
   五番 佐原の七郎    春日部の次郎
 

1月10日 庚子 天晴
  入道大納言家並びに将軍毛利蔵人大夫入道西阿の第に入御す。これ明夜立春節の御方
  違えたるに依ってなり。今日将軍家始めて御甲冑を着けしめ給う。寝殿西の簾中に於
  いて密々この儀有り。波多野出雲の前司義重・同彌籐次左衛門の尉盛高両人これに祇
  候す。武州の外参候人無し。
 

1月12日 壬寅
  大殿並びに将軍家毛利入道西阿の第より還御す。これ立春の御方違えたりと雖も、十
  一日は東太白方たるの間、一昨日御出で、昨日御逗留と。今朝西阿御引出物を献る。
  各々御劔・砂金・羽・御馬一疋と。
 

1月17日 丁未 今日天晴風静まる [葉黄記]
  春日行幸なり。今月譲国の事密々その議有り。而るに春日に臨幸せざるの例不快の由、
  旧年俄にその沙汰有り。今月遠社の行幸例無しと雖も、猶遂行せらるか。
 

1月19日 己酉 天晴
  入道大納言家鶴岡八幡宮に御参(御車なり)。北條大夫将監・若狭の前司以下供奉す。
 

1月23日 癸丑 晴 [葉黄記]
  霍業の事去年より叡襟を銘す事有り。遂に関東に仰せ遣わされ、事すでに一決す。然
  れども披露に及ばず。而るに一昨日入道殿下御参内の時これを仰せ定めらる。今朝入
  道殿下修理大夫(高階経雅)を以て勅定の趣を関白殿に申せらる。去年の天変に依っ
  て譲国有り。
 

1月28日 戊午
  主税の頭雅衡(算道)京都より状を進す。申して云く、今年朔の蝕の事、蝕せしむべ
  からざるの旨兼ねて申し入れ候処、忽ち符号するの間、その賞として正下四位に叙せ
  しめ候所なり。宿曜道珍覺法眼、同じく此の如きの奏聞に依って、権少僧都に転じ候
  いをはんぬ。同十四日御齋会除目の次いでなりと。師員朝臣彼の書状を披露す。殊に
  感じ思し食すの由御返事を下さると。
 

1月29日 己未 天晴 [葉黄記]
  御譲位なり。予院司に補す。院中の事一事以上これを奉行す。知家の余慶と雖も、太
  だ過分と謂うべし。院中と云い、殿中と云い、両方の管領、殆ど先賢に過ぐ。