私の家から、道を下って行くと「桃の御所」であったという見桃寺が有ります。今は家々が
軒を連ね、一帯が桃源郷で有ったような名残はありません。海の傍らの小高い丘は、歌舞島
と呼ばれています。その昔、頼朝が三崎を訪れた折り、ここで宴会を行い、娘達を集め踊り
を踊らせたことに由来しているそうです。その時の踊りが「ちゃっきらこ」として今も踊り
継がれ、正月15日海南神社に奉納されています。

そのような所に子供時代を過ごし、桃、桜、椿の御所、血に染まった油壺の由来、北條と言
う地名の由来、通り矢の由来、小桜姫伝説、城ヶ島、三浦道寸や荒次郎の名前、城山など、
なんとなく聞いて過ごしてきました。三浦氏に対する興味は、その頃からあったのですが、
進学、仕事と故郷を離れるに従って、いつしか忘れていました。再び故郷に戻り、多少余裕
が持てるようにようになったので、忘れていた夢を思い出そうと考えたわけです。

さて、三浦氏を調べるには何をどうしたら? と思っていてぶつかったのが、この「吾妻鏡」
です。吾妻鏡は、治承4年(1180)4月の頼朝挙兵から、文永3年(1266)7月の
前将軍宗尊親王の帰京までの87年間にわたる鎌倉幕府の事跡を編年日記体に記録した史書
です。鎌倉幕府や鎌倉武士団、京都朝廷との関係、天変地異に至るまで當時のことを知る上
で貴重な資料となっています。中でも、三浦氏に対しての記述は多く、三浦氏を解く為には
まず第一に読むべき書物です。三浦氏は、源の頼義に従った前九年の役の功労により確立し、
三度の滅亡によって油壺新井城に亡ぶまで、450年ほど三浦を治めていました。しかし、
「一門の大名・諸国の受領93人、一族百官は500人に達する。」と小田原北條記にある
ように、日本国中に散った三浦氏の一門は各地で活躍することになります。貴方もその一人
かも。。。。。。。。

と言うことで、取り合えず吾妻鏡なのですが、全訳文も面白くないし、かといって全漢文で
はこれまた苦労するし、と考えていて見付けたのが振り仮名付きの原文(?)なのですが、
印刷の関係で縮小されていますので、解読するには結構大変なのです。それでも読み下して
みようかと始めたのが、ここに掲載したものです。三浦氏だとか鎌倉幕府だとかに捕らわれ
ずに、一つの物語として読むのも楽しいものです。是非、眺めて下さい。興味を引いて頂け
れば幸いです。但し、原文の間違いや私の誤訳もあり、漢和辞典にさえ乗っていない文字や
パソコンが持っていない文字もありますので、その点はご容赦下さい。   1998.6.20