2020年
溝手康史
2020.12.25
コロナ特措法の改正
特措法を改正して、営業自粛に罰則を設けることなどが提案されている。
今頃になってようやく・・・・という感がある。すべての対策があまりにも遅すぎる。リスクに対してあまりにも鈍感なのだ。
私は、今年の3月にこのブログに以下の点を書いた。
@法律で、営業自粛、行動制限などに強制力を持たせること
A新型コロナを現在の指定感染症からはずすこと
今の法律・政令では新型コロナ感染者は原則として全員入院させなければならない。また、保健所が関与するのは指定感染症だからだ。PCR検査をすべて無料の行政検査とするのは無理である。PCR検査を、行政検査、保険適用のある医療検査、保険適用のない検査に区分して拡大する必要がある。
もっと融通が利くように政令を改正する必要がある。
全員入院は望ましいことではあるが、患者数が増えればそれができない。病院のベッドを重症者に優先する扱いが必要であり、全員入院は不可能だ。そんなことは、今年の2月の時点で予測できたことだ。
来るべき事態を予測し、それに備えること・・・・・それは知恵と呼ばれる。
2020.12.17
菅総理にみるリーダーの資質
GOTOトラベルをめぐる混乱、「ガースー」発言、会食問題、二階に頭が上がらないことなどで、菅総理のリーダーの資質が問われている。
ドイツ、ニュージーランドなどと較べればリーダーの資質の違いがある。
日本では調整的な役割をするリーダーが多いが、これは欧米ではリーダーシップを発揮していないとみられるのではないか。
登山の世界でも、日本には取りまとめ型のリーダーが多いが、UIAA(国際山岳連盟)が考えるリーダーは、リーダーシップを発揮するリーダーであり、リーダーの考え方に違いがあるようだ。
UIAAが考えるリーダー資格は、日本の登山界が考える従来のリーダーよりもレベルが高いものだった。日本スポーツクライミング協会は、UIAAの夏山リーダー資格に対応するリーダー資格を日本でも設けようとしている。
leadは導くという意味であり、リーダーは、先頭に立って人々を導く人でなければならない。日本の取りまとめ型の登山リーダーは欧米ではleaderとはみなされないのだろう。
企業では、従来の日本では取りまとめ型のリーダーが多かったが、最近は、欧米的なリーダーが増えつつある。
欧米の考え方が正しいかどうかはここでは問題ではない。リーダーの考え方に「正しい」、「間違い」は存在せず、どのような考え方がもっとも合理的かということである。グローバル化している社会では、世界のスタンダードに準拠して考える必要がある。
「ホモ・サピエンス全史」を書いたノア・ハラリが言うように、歴史の発展に「正しさ」はない。
調整型のリーダーは、ものごとがうまくいっている時代には、それでよいのだろうが、危機の時代には、調整するだけではうまくいかない。ものごとがうまくいっている時代には、幹部が協議すれば足り、リーダーはいなくてもよいのかもしれない。しかし、 危機の時代には問題を解決する強いリーダーシップが必要になる。
登山でも、順調に進む登山ではリーダーがすることはほとんどない。しかし、パーティーに危険が生じた時に、リーダーの能力が試される。
歴史的にみれば、危機の時代には、英雄的な政治的リーダーもいれば、ヒトラーのようなリーダーもいた。
スターリンや毛沢東は戦争に勝つためには優れたリーダーだったが、平和時には暴君だった。
織田信長は戦争をするにはすぐれたリーダーだったが、日常生活では人格障害者だった。織田信長は平和時には、スターリンや毛沢東と同じ部類の人間だろう。戦争時に英雄となるリーダーは特異な人間が多い。
今、世界では、ポピュリズムが高まり、それを背景にトランプのように自国中心の強権的リーダーが多くの国で出現した。これは国際的に利害対立が激化した状況を反映したものだ。国と国との経済的な戦争状態では、強権的なリーダーに国民の支持が集まりやすい。
しかし 、強権的なリーダーでは、国内では支持を得ても、国際的には対立が深まるだけであり、戦争の危険が高まる。
今の日本に必要なのは、トランプのような強権的リーダーではなく、調整型のリーダーでもなく、問題解決の強いリーダーシップを発揮できる資質と能力のあるリーダーである。
大衆を導くには政治理念が必要である。それがなければ、大衆は、リーダーがどこに導こうとしているのかわからない。人々の意見を調整するだけであれば、進べき方角が定まらず、右往左往するだろう。ものごとを得か損かだけで判断する場合も同じだ。
今の政権には政治理念がない。
2020.12.9
トランプ訴訟が意味するもの・・・・裁判制度の「パンドラの箱」を開けたトランプ
裁判は訴状の形式さえ満たしていれば誰でも起こすことができる。
証拠がなくても裁判を起こすことができる。
しかし、従来、裁判を引き受ける弁護士は、証拠の有無を吟味し、証拠がなければ裁判を引き受けなかった。
しかし、トランプの弁護士たちは、証拠がなくても裁判を起こしている。それは、弁護士が裁判で証拠をほとんど提出していないことを見れば明らかだ。
証拠がなくても裁判を起こすことができる・・・・・・これはパンドラの箱だ。弁護士は、絶対にそれをやってはいけない。それをすれば大変な害悪が社会に巻き散らされる。
それをトランプはやったのだ。と言うよりも、トランプの弁護士たちがそれをやったのだ。
アメリカでは金さえ出せば弁護士がどんな裁判でも引き受けることが、裁判の悪用をもたらしている。アメリカの弁護士の低い質がトランプによる裁判の濫用を支えている。
トランプは、誰でも簡単に裁判を起こせるという制度の盲点をついた。
日本でも、特定の企業、役所、個人を相手に1万件の裁判を起こすことが可能だ。
日本で問題になったのは、特定の弁護士に対する多数の懲戒申立による業務妨害だ。弁護士に対する懲戒申立がタダで簡単にできるという制度の盲点をついたのだ。
2020.11.24
アメリカのトンデモナイ弁護士たち
アメリカ大統領選挙でトランプが選挙無効の裁判を連発している。
引き受ける弁護士がいるから、このような裁判ができる。多くの弁護士がトランプの裁判を支えている。
大衆に対し、陰謀論、共産国家からの選挙資金提供・サーバー攻撃、選挙プログラムの改変、国家的詐欺などを弁護士が主張している。その発言内容はトランプ以上に過激で、狂信的だ。
弁護士は大衆向けに選挙に陰謀があったと主張するが、法廷では一切それを主張せず、簡単に敗訴判決が出るにまかせる。
このような弁護士がいなければ、トランプの戦術は成り立たなかった。
日本でいえば、衆議院総選挙無効ー国会での総裁指名の無効が裁判で争われ、いつまでも総裁が決まらないような事態を考えればよい。各都道府県の選挙管理委員会が、裁判中であることを理由に議員当選の確定をいつまでもしなければ、どうなるだろうか。
日本では考えられない事態だが、それを狙った訴訟戦術をアメリカの弁護士が行ってしている。
欧米では、日本と違って、司法、裁判、弁護士、裁判官の役割が重視されるが、トランプの代理人弁護士は明らかにそれを悪用している。
表現の自由があるので誰でも言いたいことが言えるが、トランプの弁護士が記者会見で虚偽のアジテーションをすれば社会に大きな混乱をもたらす。弁護士が法律を巧妙に利用して、いくらでも国家的混乱を生じさせることが可能である。
弁護士が負ける裁判をできるだけ伸ばして、弁護士費用を得ようとしているとしか考えられない。アメリカには金のために何でもする弁護士が多い。
あるいは、弁護士個人の政治的主張の為にトランプ劇場を利用している。アメリカ社会を混乱させ、攪乱し、国家の転覆を狙っているのかもしれない。
トランプ弁護団の中で裁判に勝てると考えている弁護士は一人もいないだろう。彼らはこの裁判がまともな裁判だとは考えていないが、それでも彼らはトランプの勝利のために何でもする。彼らは、内容のない訴状であっても、徹夜をして数十頁に及ぶ訴状を作成するのだ。
アメリカの弁護士は、とうとうここまで来たかという感がある。
このような弁護士は、野次馬的に眺める分には面白いが、アメリカ社会にまき散らす害悪が大きい。
このような弁護士の実態はアメリカでは誰でも知っていることであり、裁判官もジュリアーニらをまともに扱わないのだと思われる。
裁判官が訴状を提訴の1時間後に却下することは、日本では考えられない。日本では、裁判所が弁護士に釈明や補正を求め、仮に、裁判所が訴状を却下するとしても、数か月も後になる。
日本では、まさか弁護士がまったく根拠もなしに陰謀論を主張し、平気で嘘をつくとは思わない人が多いだろう。しかし、アメリカの弁護士は平気でそれを行う。
アメリカの弁護士がそのようになったのは、アメリカ社会の反映である。アメリカの社会の競争と格差は弁護士にも反映する。弁護士は社会から孤立しては成り立たない。弁護士は、格差社会の中で、金のある者、力のある者、勝ち組に群がる。そこに弁護士の激しい競争がある。それに勝てば、弁護士は勝ち組になれる。ジュリアーノ、パウエル、バイデン、クリントン、オバマはいずれも弁護士であり、勝ち組である。それは彼らの生育環境と能力による。
弁護士の格差については、まず、弁護士になるまでに、大学やロースクールで高額な学費がかかる。そこで富の不平等が関係する。
さらに、弁護士になった後に頭角を現すには、能力と意欲が必要である。その格差が、弁護士の格差をもたらす。
競争社会では、与えられた課題を達成するために努力し、それが評価の対象となるという過程が繰り返される。
学校では成績が評価基準になり、よい成績を獲得するために猛烈にがんばる学生が競争に勝つ。
そのような学生が弁護士になれば、裁判での勝訴や依頼者の利益の実現をめざして猛烈にがんばる弁護士が有能な弁護士として評価される。
企業では企業の利益の実現が評価基準になり、それを達成する社員が有能だと評価される。裁判官は、裁判所の中での評価(最高裁の評価)がすべてになりやすい。
知的エリートは、自分が有能だと評価されるかどうかがすべてである。「無能である」という評価は、知的エリートには死の宣告に等しい。常に、評価されることをめざして、闘い、頑張ることが自己目的になりやすい。
トランプの弁護士達が勝ち目のない裁判に、なぜそこまでこだわり頑張るのか・・・・・それは、金だけがめあてではなく、それが弁護士の習性になっているからだろう。弁護士は受任した以上、成果達成のために馬車馬のように走るほかないのだ。
日本の弁護士も、程度の差はあるが、似たようなものだ。
日本の官僚は政権や組織を守るために偽証でも何でもすることが当たり前になっている。命をかけて組織を守ることすらある。
それはそれが彼らの習性だからであり、それ以外に思考経路がないからだ。小さい頃から、学校という閉鎖社会で評価目標の達成のために頑張るという習性が身についている。組織からの評価以外に自分の人生はないのだろう。
これは、丸山真男が述べる、戦前の日本の政府・軍部の幹部たちの思考経路に似ている。
競争は単線的な評価基準をもたらしやすい。単線的な評価基準で生きる人間は不幸だ。これがダメでもアレがある。アレが競争の対象ではないものであれば、人間は幸福感を持つことができる。
弁護士の場合には、「世間から無能だと言われてもよいではないか。自分には○○がある」という弁護士は、世間の評価に関係なくマイペースで仕事をするだろう。しかし、多くの弁護士は、「有能」、「優秀」、「収入」、「有名」、「肩書」、「地位」などに弱い。
多様で複眼的な価値基準が必要だ。もともと、生物には多様性という性質があり、人間も同じだ。
2020.11.23
観光旅行の分散化がなぜできないのか
旅行者の増加がコロナ感染を「拡大させる。
しかし、これは、休日や連休に観光客が集中することに問題がある。
観光客が平日に分散すれば問題はない。
そのためには、有給休暇をとりやすくすることや、休日を分散させることが必要だ。
休日を土・日ではなく、たとえば水・木にすることを嫌う人がいるが、何か恩典を付ければよい。休日を土・日以外にすることに協力する人は国が報奨金を支給するとか。
土・日以外の日が休日でも有給を自由にとれれば、それほど支障はない。
GO TOキャンペーンではなく、平日の料金を下げる旅行業者・宿泊施設などに国が報奨金を支給すればよい。
観光客の少ない観光地に報奨金を支払う制度もよいのではないか。さびれた観光地で観光客が増えたとしても、密集はしないだろう。さびれた観光地は観光資源がないわけではなく、単にブームから取り残されただけのことが多い。
山小屋は、休日に混雑するが、平日はすいている。平日登山者に恩典を与える国の政策があってもよい。
平日は料金が安いというのが、利用者にとって最大の恩典になるのではないか。平日の値引き分は国が補填すればよい。
有給休暇をとりやすくすること、休日の分散化には、国による指導が必要だ。
日本が得意とする行政指導という名の事実上の強制をすれば、企業は従うだろう。
それをすれば観光地の密集を避けられる。
企業の本社の地方移転についても、国が何等かの恩典を与えなければ、企業はそのようにしないだろう。
人間は得か損かで行動するものだ。GO TOキャンペーンをみれば、その点は歴然としている。
2020.11.22
トランプの裁判・・・・・選挙も裁判も儀式である
アメリカ大統領選挙で、トランプは未だに選挙の不正を訴え、それを支持する日本人もけっこういるようだ。
その前提として、選挙に不正があったかなかったが議論される。
議論することは自由だが、選挙や裁判がルールに基づく儀式であることが忘れられている。
選挙が無効だという証拠がなければ、手続は進行する。裁判も同じだ。裁判官が不正があったかなかったか真相を調べるわけではない。裁判所は選挙が無効だという証拠の有無を調べるだけだ。選挙が有効だという証拠は不要だ。無効だという証拠がなければ選挙は無効にならない。
真相を調べなければものごとが進まないとすれば、社会が動かない。真相を調べている間に関係者が亡くなってしまうだろう。
選挙ですべての投票者が有効投票したかどうかを調べなければならないとすれば、選挙制度は成り立たない。恐らく2016年の大統領選挙でも多少は不正投票があったはずだが、選挙結果に影響しなければそれらを調べることはしない。今回の選挙で、トランプ派の不正投票も少しはあったはずだが、問題にする意味がない。
選挙も裁判も、正しいかどうかに関係なく、社会を円滑に統治(rule)するためのルール(rule)である。したがって、「不正があったかどうか」ではなく、「不正の証拠があったか」どうかを問題にすればよいし、それ以外に方法がない。
裁判でしばしば、真相究明を求める人がいるが、それは無理だ。そういう人はどんな判決が出ても、真相が究明されていないとして、納得しない。請求認容の判決が出ても、「事故の原因が究明されなかった」と落胆する原告が少なくない。その人の中では事故の真相究明の作業が死ぬまで続くことになる。
「選挙の不正があった」と考える人は、裁判で請求棄却になっても、裁判所は疑問に答えていないと感じるだろう。「不正の証拠がない」というだけでは、「不正がなかった」ことの証明にならないからだ。しかし、裁判所は、「不正がなかった」かどうかを調べることはしない。その人は、死ぬまで裁判所の判断に納得しないだろう。
トランプを崇拝する日本のある作家が、「選挙に不正がなかった」ことの証明を要求していたが、裁判の仕組みや「悪魔の証明」を理解していない。
離婚の裁判などでは、双方が自分の正当性を主張するが、たいてい裁判所はそれには答えない。裁判所は、法律と判例が定めるパターンにしたがって裁判を処理する。
子供の親権の取り合いの裁判でも、裁判所はほとんど理由を述べずに、あるいは大した理由もなく親権者を決める。決定した内容について裁判所が責任を負うわけではない。それはほとんど儀式である。
日本では、裁判に真相究明を求める人が多く、そういう人は裁判に失望することが多い。
日本のマスコミも同じであり、判決が出る度に、「裁判で真相が解明されなかった」という記事を書くことが慣例になっている。ほとんどの新聞記者は裁判の仕組みを理解していない。
・この裁判はトランプとバイデンの間の争いではない。トランプ対アメリカ国家という構図である。
トランプの支持者が原告となって市や州を被告にして裁判をしている。トランプの支持者の原告が、選挙制度が違憲だとしてアメリカ政府を被告にすれば、被告の実質的な代表者はトランプだという皮肉な形になる。形式的にはアメリカ政府の代表者は司法長官だろうが。
トランプはアメリカの国家を相手に裁判をしているのである。
トランプはアメリカの選挙制度を相手に裁判をしている。
考えようによっては、2016年の大統領選挙も無効だったのかもしれない。2016年の大統領選挙の有効性は裁判所によって確認されていないので、今からでも選挙無効の裁判を起こすことが可能だ。その前の大統領選挙も無効だったのかもしれない・・・・と考え出せば切りがない。
日米開戦を決定した御前会議の決定が無効だという裁判や、戦前の徴兵制度が無効だという裁判を起こす人はいない。裁判が儀式であり、社会的有用性や効率を考慮して、無駄なことをしても仕方がないからである。
トランプの起こす裁判も、その意味で、法的には無駄なことだが政治的な意味がある。日米開戦を決定した御前会議の決定が無効だという裁判は突拍子もないが、開戦決定の無責任さを世論に訴える政治的意味はあるだろう。
裁判がもたらす政治的効果を考えれば、あらゆる事象を裁判の対象にすることが可能だ。菅総理の総理選任手続が無効だという裁判すら可能だが、トランプ訴訟と同じく、提訴の1時間後に裁判所が訴状を却下するかもしれない。日本ではせいぜい翌日の却下か。アメリカと違って、その類の裁判を引き受ける弁護士は日本にはいないだろうが、マスコミに大うけすること間違いない。
2020.11.20
日本国内のトランプ現象
トランプは選挙無効の裁判をすることで、「選挙に不正があった」と大衆に信じこませ、それを利用して役所や議員に圧力かけ、選挙結果の確定を阻止しようとしている。言葉による威圧だけでなく、時には群衆が役所に押しかけ、武力行使や脅迫行為も使う。郡や市、州の公務員や議員がトランプ支持者の圧力に屈して職務を遂行できなくなれば、裁判所の判決が出なくても、大統領選任を阻止できると考えている。これは、大衆操作による圧力を利用した政権奪取であり、事実上のクーデターである。
アメリカで起きているこの騒動を、
「しょせん、アメリカのことだ」
「おもしろい」
「自分とは関係がない」
「日本は、アメリカでなくてよかった」
などと他人ごととして考えている日本人が多い。
しかし、アメリカで起きることは、いずれ日本でも似たような状況が起きる。
すでにその兆候がある。
・ネット民、評論家、政治家、作家などの中に熱烈なトランプ支持者がいる。ネットには「トランプ、がんばれ」という書き込みがけっこうある。
・インターネットツイートやマスメディアを利用した攻撃、威圧、脅迫が日本でも蔓延している。自分の意見を通すために相手を威圧するということ。ストーカーやDVの増加、人格障害者の増加はこれと関係がある。
・トランプ、プーチン、ベラルーシやブラジルの大統領など権力的な政治家が増えている。日本でも政権の意に沿わない官僚をクビにする。公務員は国民のための奉仕者であって政権への奉仕者ではない。
・日本でも他人への攻撃や実力行使によって利権を得ようとする傾向がある。
日本でも世論を巧妙に利用して圧力を加えれば、役所が職務を遂行できなくなる。芸能人、政治家、大学、企業、マスコミ、飲食店、旅館・ホテルなどは、世論から叩かれたらひとたまりもない。
・情報の偏向。「新聞やテレビニュースは政治的に偏っている」として、インターネットの書き込みしか見ない人がいる。新聞や本を読まない人がいる。偏った情報がもたらす影響は大きい。
アメリカには「コロナウィルスは存在しない。これはデマだ」と信じる人がけっこういるらしい。彼らはコロナに感染しても、「コロナではない」と確信し続けるようだ。彼らは科学を信じない。
トランプ支持者は、インターネットの書き込みしか信じない。彼らは、トランプが裁判で負け続けるのは、弁護士や裁判官への買収、脅迫、圧力によると信じている。戦争中の大本営発表しか信じなかった日本人やオウム信者などと同じだ。戦闘に負けても「勝った」と信じている。ネットを見れば、そんな若者がけっこういる。
・格差社会の影響。格差社会からはじき出された人には、ネットが唯一の居場所になりやすい。ネットの中で初めて自分の言いたいことが言え、支配者的な高揚感を味わえる。ネットは自己の存在確認の場所になりやすい。ネットの中では自分こそが主人公なのだ。
また、他者への攻撃に快感を感じる人間は、自分が社会から受ける抑圧を他者への攻撃に転換しやすい。トランプ支持者の中には、知的エリートである民主党支持者に対する反感を持つ者が少なくない。ある共和党支持者は、「あいつら(民主党支持者のこと)は都会でたくさんの給料をもらっているんだ。我々はバカにされている」と述べていた。トランプ支持者に反学歴、反知性、反学問の傾向がある。「民主党は理想や理屈を言うだけで、我々のために何もしてくれない」という不満が鬱積している。これは日本でも同じだ。もともと共和党支持者は富裕層が多いが、彼らは必ずしも熱烈なトランプ支持者ではない。
ネットで他人を攻撃することで快感を味わう者は、トランプが他者を攻撃するスタイルに似ている。トランプも小さい頃から他者(たぶん親だろう)からの抑圧の中で育ったのだ。彼らは、トランプと自分を同一視し、トランプが他人を攻撃する光景に快感を感じるのだ。
・トランプは既成の制度を破壊する。民主主義や法治主義も破壊する。既存の体制で恵まれなかった人たちがそれを熱烈に支持する。
人間が生きるには希望が必要だ。今の社会に絶望した者は、社会を打ち壊すものに惹かれる。トランプは今の社会をぶち壊してくれそうな期待を持たせる。それが不合理な期待であっても、今の社会の現実よりもマシではないかと考えるのだろう。そのようなトランプ支持者の熱狂は、トランプを失えばどこに向かうのか。
2020.11.18
トランプの裁判は面白いか・・・・・弁護士の日米比較
トランプの弁護団の中心であるジュリアーニ弁護士が1日200万円の弁護料を要求したという報道があった1日というのは、「1回の裁判」の意味だろう。
これがウソかホントかわからないが、トランプに高額な弁護士費用を要求したことは間違いないだろう。アメリカでこのような報道がなされても、アメリカ人はそれほど驚かないだろう。アメリカでは弁護士に金がかかることが当たり前なのだ。それだから、トランプが裁判費用として62億円を集めようとしても不自然ではない。もし、日本でこのようなことをすれば、世論から「弁護士にそんなに払うのはおかしい」という激しい非難を受けるだろう。
裁判では、裁判官の質問に対し、ジュリアーニはわけのわからない答弁に終始した。ジュリアーニは裁判官から、「どの違憲審査基準を主張するのか」と尋ねられ、「フツーのやつです」と答えたらしい。これは傑作だ。笑える。ジュリアーニは弁護士として法廷に出るのは28年ぶりであり、その間に法律を忘れたのか、もともと裁判に勝てるとは思っていないので違憲審査基準など真剣に考えたことがないのだろう。
もちろん、ジュリアーニは裁判に証拠を提出することはしない。証拠は大衆向けのものなので裁判官に見せるつもりがないか、あるいは、証拠はジュリアーニの頭の中にあり、ジュリアーニの頭をかち割らない限り取り出せないのか、証拠を出せば偽装がバレてしまうかのいずれかだろう。トランプのツイート自体が最大の証拠なのだ。
ジュリアーニは、裁判の答弁の苦労、苦痛、恥ずかしさ、法律家の間で笑いものにされる屈辱の代償として1日200万円を要求したのかもしれない。ジュリアーニは高齢で「先がない」ので恐いものはなく、何でもできる。
アメリカの弁護士にとって裁判はビジネスであり、金儲けの対象である。アメリカの弁護士が金のために何でもすること、平気で嘘をつくこと、弁護士が信用できないことは、アメリカ人の常識である。アメリカでは弁護士のイメージは非常に悪い。これは、日本の悪徳不動産業者のイメージに近い。
ある州の裁判では、トランプ弁護団は80頁以上の訴状を出したらしい。勝ち目のない裁判ほど訴状が長くなるのだが、部外者はそれがわからない。量の多い訴状は依頼者向けの弁護士のパフォーマンスだ。裁判がすぐに却下されると弁護士は高額な弁護士費用をもらいにくい。それで書面の分量を水増しするのだ。書面の分量に応じて報酬をもらう弁護士もいる。通常、弁護士は内容のない長文を書くのが得意だ。
ワイドショー的に言えば、裁判にジュリアーニが登場するだけで面白い。ジュリアーニの発言はすべて週刊誌ネタになる。
金のために何でもするアメリカの弁護士は、野次馬的にみれば「面白い」のだが、当のアメリカ人は自国の弁護士にウンザリしているのではないか。
アメリカにもまともな弁護士はいる。大都会以外の地方で庶民の事件を扱う弁護士の平均年収(月収ではない)は500万円といわれている。アメリカの弁護士の格差は大きい。
なぜ、アメリカの弁護士がそのようになってしまったのか。
その理由は、かつて民主主義の模範とされたアメリカが格差社会の象徴となり、選挙で大統領を選ぶことすらスムーズにできなくなったことと関係がある。アメリカでは民主主義がうまく機能していない。
他方、日本では、弁護士は、テレビドラマで正義の担い手として描かれ、日本では、選挙無効の裁判のほとんどが弁護士のボランティア活動で行われている。裁判経費は弁護士の持ち出しだ。
しかし、近年、日本の弁護士制度はアメリカの制度を真似ているので、日本の弁護士がアメリカ的になりつつある。
日本でも、「ビジネス=金儲けの対象」と割り切る弁護士が増えている。日本でも弁護士の格差が拡大している。
日本でも、ジュリアーニのような弁護士がいる。企業や資産家の事件では、1件の裁判で何千万円もの弁護士報酬が生じる。これらの事件をめぐる弁護士の取り合いが激しい。
最近、マスコミに登場する弁護士が増えているが、テレビの出演料だけでかなりの収入になる。今では日本に多くの弁護士がおり、テレビのバラエティ番組やワイドショーに出演する弁護士は、弁護士の憧憬の的だ。マスコミを賑わす「有名弁護士」になりたがる弁護士が多い。マスコミとインターネットを利用する新たな弁護士のビジネスが生まれている。彼らは、安い費用で庶民の事件を処理することがバカらしくなるだろう。
2020.11.16
トランプが起こす「大規模訴訟」・・・・裁判を利用する政治運動
トランプは、近く、選挙が違憲、無効だという裁判を起こすらしい。
日本でも、選挙が違憲、無効だという裁判は多く起こされており、選挙が違憲だと言う判決も少なくない。しかし、いずれも裁判所は選挙は無効ではないとしている。選挙が違憲だが、無効ではないという判決である。日本ではこれが判例の流れになっている。
選挙が無効だという裁判を起こせば、大統領選任手続を阻止できると考える人がいるが、そうではない。裁判所が手続きの中止を命じない限り、手続きは中止されない。トランプの手続中止を求める裁判はすべて却下、棄却されている。
あるいは、裁判の判決が出るまで選挙結果が確定しないと考える人がいるようだが、判決が出るまで行政手続きは進行し、それは有効である。選挙の違憲、無効訴訟が継続していても、州議会の確定ー選挙人の投票ー大統領就任が進行し、それらは有効である。裁判を経なくても、行政行為は有効である。裁判で無効とする判決が出て初めて行政行為が効力を失う。選挙の違憲、無効訴訟の審理は数年続くだろうから、日本的な裁判のやり方であればバイデンの任期が終わる頃に判決が出る。
日本の違憲訴訟では、議員定数の不均衡が争点になり、違憲判決が出ているが、選挙を無効にしない。違憲だが無効ではないということ。ある社会学者は、裁判は社会を円滑に統治するための儀式だと述べている。数年後に選挙を無効とすることの社会的混乱を回避するために選挙を無効にしないのだと思われる。
トランプの違憲訴訟で勝訴の見込みがあるとは思えないが、この訴訟は、裁判で勝つことをめざすのではなく、反バイデンの政治運動に裁判を利用するのだと思われる。ジョージア州での上院議員選挙のための戦術でもあるだろう。
裁判を何年もやっている間、大衆は「裁判に勝てる」、「選挙は不正だ」と考え、裁判をすることが運動の精神的なよりどころになる。これは、従来の日本で反権力側が大衆運動の一環として行っていた方法である。
かりに判決が出ても、「まだ、最高裁がある」と考え、最高裁で負けても、「最高裁は相手方に買収されたのだ」、「真実は神が知っている」と考えれば自分の考えを手正当化できる。確信犯に恐いものはない。
2020.11.5
トランプ現象
トランプには、反知性、反学問、反インテリ、反既成観念、反既成体制、過激な言動、攻撃性などの熱気がある。そこに惹かれる人が少なくないのだろう。日本でも、トランプはネット民や一部の評論家に非常に人気がある。
他国の政治家がこれほどの人気があることは、実に不思議だ。かつての日本でのオバマ人気も不思議だった。政治に関心を持たない人にまで、オバマ人気が広がったのだ。オバマ饅頭まで製造された。まるでダイアナ人気やベッカム人気のような熱気があった。
アメリカに既存体制に対する不満が渦巻いており、それがトランプ人気を支えているのではないか。トランプを支えるのは知性や理屈ではなく、熱狂である。ヒトラーに対する当時のドイツ国民の熱狂とは形態が違うが、似ている。トランプの言葉には、ヒトラーのアジテーションのような魔力がある。
トランプはインターネットを巧妙に使う点で、ヒトラーとは異なる。
トランプはメディアを通して大衆を扇動する方法を熟知している。今の大学生は、丸山真男を読んで考えるよりも、インターネットのフェイクニュースの方を影響しやすい。
熱狂は、それ自体がすぐれたものを生み出すわけではない。熱狂は、中味があってもなくても、可能だ。熱狂自体に中味はない。熱狂は、内容の無さを感情が見えなくする。本当の愛好者は熱狂を必要としない。本当の愛着は、それを外部に表出する必要すらなく、自分の中で静かに愛着を楽しむことが可能だ。
熱狂は、いずれは冷める。宴と同じだ。かつてのオバマ人気も今では冷めている。10年も20年も続く宴は、宴として感じられなくなるものだ。日常化した熱狂は刺激がなく、熱狂とはいえない。冷めたらもとに戻るだけで、何も残らない。宴の後はわびしい。
そのようなトランプ支持者にとって、トランプはいてもいなくてもよい。トランプがいなければ、代わりのカリスマを見つけてくるだろう。彼らにとって自分らの熱狂を体現するリーダーであれば誰でもよい。宗教指導者でもよい。テロの指導者はだいたいこのタイプだ。日本でもこのようなカリスマを求める人が少なくない。ツイートで他人を激しく攻撃し、誹謗中傷する人は、たいていトランプ崇拝者だ。トランプのような暴力的な言動に共感を感じるのだろう。
自分の意に沿わない他人を誹謗中傷し、攻撃することに快感を感じる人がいる。他人への攻撃性はある種の動物的本能である。それが社会に蔓延する状況をトランプ現象と呼ぶことができる。
誰が大統領になるかよりも、このような熱狂を生み出す社会状況の方が、恐い。
2020.11.4
反知性主義の潮流
トランプは、科学者の言うことを無視したコロナ対策をしてきた。
ブラジルの大統領は、身体を鍛えていればコロナにかからないなどと述べた。
トランプもブラジルの大統領も反知性の肉体派、動物派である。
菅政権は、日本学術会議の会員任命を学者にまかせない方針をとっている。
日本のコロナ対策は医学者の意見よりも、経済官僚の意見の方が重視されてきた。
世界中でテロが起きている。テロは知性とは無縁だ。
反知性主義が世界で蔓延している。
日本でも、昔から、実務では、「学者の言うことは役に立たない」、「学者は理屈を言うだけで、融通がきかない」という考えが支配してきた。
会社では、昔から、文系の学問は役に立たないと言われていた。語学力は必要だがシェイクスピアを読んでも仕事に役立たない。
一流大学では、昔から、文系の博士よりも体育会系の学生の方が就職で優遇された。学生時代に勉強をしなくても、頭さえよければ、運動部員は一流企業に就職できた。
法律の知識は仕事に役立つが、憲法や法律学などは勉強しても仕事に役立たない。裁判では、学者の意見よりも裁判所の慣行の方が重視される。法律事務津では、深く考えずに判例や実務に従った方が仕事をしやすい。深く考えることは実務では「禁句」だ。
アメリカでトランプを支持する人たちは、白人の低所得の労働者と富裕層が多い。彼らは知性派ではなく肉体派だ。
インテリは民主党支持者や反トランプ派が多い。在日アメリカ人やアメリカの学生は民主党支持者が多いが、彼らは知性派である。そのため日本のマスコミに登場するアメリカ人は、たいてい反トランプ派である。
アメリカでは、競争の勝者は、資産のある者と、能力・資質・がんばりのある人である。がんばるかどうかは資質の差が大きい。貧困でも能力さえあれば大リーグの選手になる。苦学しても能力さえあれば、大学教授、有名な芸能人、芸術家などになれる。格差は、資産と能力・資質の格差がもたらす。人間の能力のうち、知性がもたらす格差が大きい。ハイテク産業や証券会社では、サラリーマンが頭を使って何億円も稼ぐ。ITの普及はますます人間の知能の有無が格差をもたらす。アメリカでは年収1億円の大学教授や医師がいる。テレビの司会者やコメンテーターも億単位の収入がある。それらは知性の象徴だ。知性の有無が格差を拡大させる。
このような競争社会の敗者は、知性に対する反感を持ちやすい。反知性は、反格差の意味を持つ。知性は、競争社会の敗者を助けてくれず、格差を拡大させるだけだ。知性にめぐまれなくても、筋肉や体力さえあれば、安楽な生活をもたらしてくれる政治家のイメージ、てっとり早く失業している自分に仕事を与えてくれる政治家が歓迎される。
反知性は、理念や理屈を軽視し、「得か損か」を重視する傾向をもたらす。これは目先の利益にとらわれやすい。コロナ対策を無視して経済活動を推進すれば、目先の利益につながるが、コロナが蔓延すれば経済に大きな打撃を与える。
長い目で大局を見極めるためには「考える」ことが大切であり、それは知性を意味する。考えることが知性なのだ。得か損かを考えるのは動物でもできる。人間は、考えることで人間たりうる。考えることで幸福を得ることができる。
北欧やニュージランドなどでは、「考える」ことで試行錯誤し、さまざまな斬新な施策や改革を行ってきた。賢明な国では国民の幸福度が高い。
北欧やニュージランドなどでは、厳しい自然との闘いやアウトドア活動が国民の「考える」能力を養ったのではないか。
圧倒的多数でヒトラーを支持したドイツ国民は、考えることを放棄していた。熱狂は知性の敵である。
戦争を支持した日本人の姿は、戦後のマッカーサーの言によれば、「まるで12歳の子供のよう」に見えたらしい。これは自分で何も考えず、判断できない当時の日本人の姿だったのだろう。
インカ帝国が滅亡した当時のインカ人は、わずか数百人のスペイン人に抵抗することなく、羊のように支配者に従順だった。国王がこけたら何百万人ものインカ人は何もできなかったのだ。指示や命令に従うだけの「考えない」人間は、こうなる。
2020.10.31
弁護士ドットコムの配信記事
これに私のコメントが載っている。
なお、補足すれば、
アメリカでは、私有地に「立入禁止」の看板が立っていれば、立ち入りが違法になる。そのような土地に進入すれば土地所有者から銃で撃たれることがあるらしい・・・・・恐ろしいことだ。
日本では、土地所有者以外の者が「立入禁止」の表示をすることが多く、これは法的効力がない。たとえば、土地所有者ではない森林組合が立入禁止や、山の管理者ではない自治体や警察が登山道の通行禁止の表示をしても法的効力がなく、「お願い」でしかない。森林管理署の「国有林入禁止」の表示は国有地の立入禁止の法的効力がある。ただし、国有林内の登山道は通行可能。
かつて、北海道では、「山に登るには営林署の許可が必要」と言われていた。北海道の山はほとんど国有地にある。
「山に登るには営林署の許可が必要」・・・・これは今でも有効か。この点はあいまいだ。そのような運用が行われるルートもあるが、ほとんどの登山者はこれを無視して登っている。
ヨーロッパでは、私有地であっても、法律でアクセスの権利が認められている国が多い。イギリスでは、もともとフットパスを通行する権利があったが、これが2000年法でアクセスの権利として拡大された(スコットランドでは2003年法)。そこには自然は国民全体の財産だという考え方があるが、日本にはそれがない。
日本は、土地所有者の黙認によってアウトドア活動が可能になる「黙認制」の国である。
狩猟も、登山と同じく、アウトドア活動の1形態である。狩猟は基本的にレジャーに分類される。生業として狩猟を行う人もいるが、それは登山ガイドが登山を生業とするの同じである。山菜取りなどもアウトドア活動、レジャーに分類される。
狩猟者も、本来、山の所有者の許可を得る必要があるが、一部の土地所有者の同意を得ることはあっても、土地所有者全員の許可を得ることなく猟をすることが多いのではないか。法的には、全員の許可を得なければ、土地所有者の許可を得たことにならない。
一般に、山の所有者を把握することは簡単ではない。住民に山の所有者を尋ねるだけでは正確ではない。法務局の公図と登記簿謄本を取り寄せて山の所有者を調べる必要があるが、公図は団子図であり、山の境界がわからない。山の所有者がたくさんいることが多い。共有地などでは、土地の相続人が数百人に及ぶことがある。
区長などの代表者から許可を得る場合には、土地所有者全員から代表者への委任状が必要である。
中には、昭和の初期にブラジルに移民した人などがおり、その子孫の住所をブラジルで調べるのは大変である。これは外務省に対し弁護士会照会という手続で行い、ブラジルの日本領事館で調べてもらう。それでも子孫が不明の場合には、裁判所に不在者財産管理人の選任の申立を行うほかない。
登記簿記載の山の所有者が死亡していることが多く、相続人の調査が必要になる。これは弁護士に依頼するほかない。
境界が不明になっている山があり、誰の山なのかかわからないことが多い。
植林してある山は、所有者が明確なことが多いが、そのような山では猟はできない。銃弾が植林を傷つけることになるので。
「山の所有者の許可を得ればよい」・・・・これは簡単にできることではない。
山の所有者を調べるのに何か月もかかり、何十万円も費用をかけていたのでは、猟や登山どころではない。
日本の社会では、政治、役所、学校、会社、地域などでものごとがあいまいに処理されることが多いが、法律は厳密さを要求する。そのため法律や法律家が嫌われる。
学者も厳密さを要求するので、政治家は学問や学者を嫌う。
2020.10.17
福島原発事故汚染水の海洋投棄・・・・・毒でも薄めれば安全になるか?
これについて、水で薄めれば影響が少ないとして、海洋投棄するようだ。汚染水をこれ以上保管するのは無理なので、海に捨てるらしい。
水で薄めれば影響が少ない・・・・バカげた議論だ。どんな猛毒でも希釈すれば実害が少ないことは当たり前だ。
しかし、問題は、放射線物質の総量である。福島原発事故の汚染水の量が膨大なので、海洋投棄する放射線物質の量の膨大である。
希釈したトリチウムを人が飲んでも実害はないと言われている。しかし、それを毎日、大量に飲み続ければ、その人は死ぬだろう。
大量の水で薄めたヒ素が体内に入っても人体に影響はないだろうが、その水を毎日、大量に飲み続ければその人は死ぬ。体内にヒ素が蓄積されるからだ。体内のヒ素の総量が問題なのだ。
地球環境でも、汚染物質の総量が重要である。福島原発で海洋投棄す汚染水の放射線物質の総量が膨大なことが問題なのだ。
野山に降り注いだ放射線物質は、雨とともに海洋に流れ続けている。その総量は膨大だろう。
原発事故は、地球環境に対し、取り返しがつかない影響をもたらす。
2020.10.10
弁護士ドットコムの配信記事・・・・・・「ガスマスクが入浴マナー!? グーグルアースで探す「史上一番風呂」、道なき道を山奥へ」https://www.bengo4.com/c_18/n_11822/ これに私のコメントが載っている。
2020.10.6
自然との関わりは民主主義の学校である
国民の幸福度の高い国・・・・北欧など・・・・は、国民の自立度が高い。国民の自立度の低い国ほど幸福度が低い。
ドイツはアウトドア大国であり、北欧、スイス、ニュージーランドではアウトドア活動がさかんだ。ノルウェイでは国民の80パーセントが登山(ハイキング)をすると言われている。北欧には万民利用権という自然へのアクセス権がある。スウェーデンでは国民の大半が自然の中にサマーハウス(日本風に言えば別荘)を持っている。デンマークでは多くの年金生活者が自然の中に別荘を持っている(これは土地が安いから可能なのだが)。これらの国では自然との関わりが国民の自立性を養っている。
ドイツ人や北欧人は基本的にケチであり、金を使わずに自然を楽しむ。金を使わずに自然を楽しむには知恵が必要だ。
アウトドア活動や自然との関わりは、人間の自立性を養う格好の場を提供してくれ、民主主義の学校になる。
2020.10.1
日本山岳スポーツクライミング協会、夏山リーダー分科会
zoomでの会議
日本山岳クライミング協会が国際山岳連盟(UIAA)のリーダー資格に準拠した新しい資格を作ろうとしている。
UIAAの夏山リーダー資格は、リーダーにロープワークの技術や一定の判断力を要求している。
従来、日本では、登山の取りまとめをしたり、世話係をする者もリーダーと呼んでいたが、UIAAはもっと高いレベルをリーダーに要求している。 リーダーの概念が、日本と欧米で異なるのではないか。日本では、政治家や企業内で意見の調整役に徹するリーダーが多いが、欧米ではそれはリーダーらしくないとみなされるのではないか。
日本の山岳会のリーダーの多くは、欧米的なリーダーではなく、取りまとめ役が多い。数人でクライミングをする場面では、必ずしもリーダーは必要ではないので、リーダー不在でもよい。
しかし、山岳会でも初心者を連れていく場面では、リーダーのリーダーシップが要求される。そこでは、リーダーが、参加者の取りまとめに徹するのでは困る。リーダーは、初心者の安全に配慮しなければならない。しかし、山岳会などでは、その点はリーダーの法的な安全確保義務にならないのが原則である。日本でも、多数の参加者を統率する場面では、「欧米的なリーダー」が必要になる。
山岳ガイドやツアーガイドなどの商業的な登山のリーダーを除くボランティアリーダーに関して、問題になるのは次の2つの場面である。
@、山岳会、ハイキングクラブなどで、リーダーが参加者を連れて行く場合。問題になるのは、初心者が参加する場合である。熟練者で構成されるパーティーでは行動は参加者が相談して決めるので、リーダーは必要ない。
A、学校で教師が生徒を連れていく場合、ボランティア団体のリーダー、各種講習会など。
@は自主登山であり、原則としてリーダーに法的な安全確保義務は生じない。
Aは引率登山であり、リーダーに法的な安全確保義務が生じる。
UIAAのリーダー資格は@とAを対象とするが、もっぱら山岳会やハイキングクラブなどのリーダーを想定している。欧米では日本ほど学校登山や学校の部活動としての登山はないので(欧米には、登山部のある学校はないのではないか?)、欧米では学校の教師のリーダー資格の需要はそれほど重要視されないのだろう。もともと、UIAAは山岳会や山岳団体から構成される組織であり、学校の活動を統括する団体ではない。
しかし、日本は学校での登山がさかんなので(世界の中で特異なのではないか?)、学校の教師をこのリーダー資格の対象者として想定する必要がある。日本で学校登山がさかんなのは、運動会と同じく、戦前からの訓練思想があるのではないか。
日本でも、山岳会やハイキングクラブのリーダーが初心者を連れて行く場合には、UIAAが想定するレベルのリーダー資格が必要である。従来、日本では、山岳会やハイキングクラブのリーダーは参加者の取りまとめをすることが多く、安全確保の考えが希薄だった。リーダーにロープ技術は不要という考え方は、山岳会やハイキングクラブのリーダーはガイドとは違うという発想によるものだろう。しかし、UIAAは、山岳会やハイキングクラブのリーダーはロープ技術が必要だと考えている。
とはいえ、従来の日本でも、山岳会やハイキングクラブのリーダーが初心者を連れていく場合には、リーダーや他の仲間が初心者の安全面に配慮すべきことを自覚する山岳会も多かった。そのような会では初心者の事故はほとんどなかった。他方で、ハイキングクラブなどでは、リーダーは世話係に過ぎず、初心者を一人前の登山者として扱う場面も多く、その結果起きる初心者の事故が多かった。
山岳ガイドやツアーガイドなどの商業的な登山のリーダーについては、UIAAの資格の対象ではなく、それらは各業界でリーダー資格を設定することになる。
2020.10.1
アメリカの裁判官と日本の裁判官の違い
アメリカでは、リベラル派の連邦最高裁判事がが亡くなり、トランプが保守派の最高裁判事を任命したことが問題になっている。
アメリカでは、最高裁判事の思想、信条が国民にはっきり示され、それを前提に国民が任命の是非を議論する。
これに対し、日本では、最高裁判事の考えは国民に示されず、国民が任命の是非を議論しない。日本では、最高裁判事の氏名すら知らない人が多い。かく言う私も最高裁判事の名前はほとんど覚えていない。聞いても、すぐに名前を忘れる。
日本の最高裁判事に思想、信条がないわけではない。思想、信条はあるのだが、それを隠して無色透明のふりをしているだけだ。そのようにするのは、それが得だからだ。無色透明の人間は何を考えているかわからず、気持ち悪い。無色透明の裁判官は裁判官の国民審査で判断しようがない。現実には、日本の最高裁判事は保守的な人が多いが(内閣が任命するからだが)、それが国民にわからないので、批判されにくい。
ドイツなどでも、裁判官の思想、信条は明確であり、所属政党まで市民に知られている。ドイツの裁判官は政党に所属し、政治活動をしている人が多い。しかし、それが、法令の解釈に悪影響を及ぼすことはない。裁判官の政治活動はプライベートの時間に行うのであって、公私の区別が明確である。ドイツでは、地方議員の多くが公務員である。公務員の仕事が終わった後に議員活動(無報酬)を行う。
自分の思想信条を明らかにして、市民の審判を受ける欧米の裁判官は、市民にわかりやすい。
フランスの裁判官は、かつては「左派」が多いとされ、警察官が裁判官に抗議するデモをしたことがある。ドイツの裁判官も基地反対などのデモに参加するが、ドイツや北欧では大統領も環境破壊反対などのデモに参加することがある。
どこの国の裁判官も自国に有利な判決を下す。中国、香港、韓国、アメリカ、日本の裁判官はそれぞれ自国に有利な判決を出す。これは誰でもナショナリズムお影響を免れないからだ。日本と韓国が対立する問題では、日本の裁判官は日本に有利な判決を出すだろう。北朝鮮の裁判官は簡単に死刑判決を出す。日本の裁判官は戦前はそれと似たようなことをしていた。今はそれを忘れただけだ。
欧米と日本の裁判官の違いは、欧米の裁判官は人間であることを認め、日本ではそれが否定されることである。人間は思想、信条、価値を持つが、日本の裁判官は無色透明であるふりをすることを要求される。つまり、人間的にふるまうことを禁止される。これはロボットに近い。
日本の裁判官は、市民にわかりにくいから市民の関心がないのか、市民の関心がないから裁判官が市民にわかりにくいのか。
人物の素性が何もわからなかえれば、判断のしようがない。
しかし、これが日本の民主主義である。
2020.9.23
信越トレイルを歩く
長野県と新潟県境にある信越トレイルを歩いてみた。歩いたのはトレイルの約半分である。テントで2泊。
その感想
・トレイルは、他の多くのトレイルや車道と交差するので複雑だが、標識に従えば迷うことはない。
・トレイルに既存の登山道、林道、車道、遊歩道などが混在している。登山道は山頂をめざすフツーの登山道であり(単純なピークハントである)、林道は車用に作ってあるので長く単調だ。砂利道の車道歩きもある。遊歩道では観光客に出会う。さまざまな歩道を「繋いだ」という印象が強い。
・キャンプ地が少なく、それ以外はキャンプ禁止である。キャンプは予約制。キャンプできる場所が限られ、トレッカーはテントを背負って事前に決められた行程を消化する。このトレイルは開放感や自由よりも几帳面に管理された窮屈さを感じた。いかにも、日本的と言えようか・・・決められたとおりに行動することが当たり前の社会。
このパターン化された行程は初心者向きではない。キャンプ地は予約制なので行程は決まっている。テントを背負って1日に4、5時間程度しか歩けない人は次のキャンプ指定地にたどり着けない。キャンプ地の多様な選択肢があれば、利用者が増えるのではないか。
4時間程度歩き、どこでも幕営できれば、誰でも歩くことが可能だろう。それは整備されたキャンプ地である必要はなく、事実上、幕営できればそれで足りる。水は、途中で汲んで持参すればよい。ウンコは穴を掘って埋める。これはアメリカのロングトレイルの方法だ。低山では糞尿は地中で分解される。山が混雑しなければ、それは微生物分解式の天然トイレだ。自然に対するアクセス権がある場合やトレイルが公有地にあれば、それができるが、自然に対するアクセス権がなければ、私有地ではどこでも幕営できることは難しい(タテマエとしては)。
トレイルで出会った人のほぼ全員が、「キャンプ指定地以外の場所でもテントを自由に張ることができればよいのに」と言っていた。
アメリカのバックカントリーには整備されたキャンプ地がなく、どこでも自由にテントを張ることができる。
どこでも自由にキャンプできることは、土地所有権の問題と衝突する。土地所有者の許可がなければキャンプできないというのがタテマエだ。
環境保護のためにキャンプが禁止されるが、信越トレイルは、途中に車道、林道、人工的なため池、民家、小屋などがある。ため池では釣り人が車でやって来る。そのような場所でキャンプ禁止というのは、環境保護のためではなく、土地所有者への配慮からである。土地所有者は自分の土地に小屋を建てキャンプができるが、他所者には自分の土地を使わせないということだ。
麓の宿に泊まりながら軽装で歩けば誰でも歩けるが、宿までタクシ―利用すれば、やたらと金がかかり、それはスルーハイクではなく、日帰り登山である。ロングトレイルの醍醐味は、生活用具一式を背負って歩く点にある。自然の中を歩き、生活するという点にある。そこに解放感や自由がある。バックパッカーと同じである。トレイルランニングでは、自然の中で生活することは体験できない。
・キャンプ地はよく整備されているが、車道付近にある。これは山麓の観光キャンプ場と同じロケーションであり、山の中での生活ではなく、フツーの都会近郊のキャンプである。既存の駐車場トイレのある場所をキャンプ地にすれば、こうなるのだろう。
車道近くの土地は土地所有権が現実化しやすい。
・トレイルは、自転車やペットの持ち込み禁止だが、林道、車道で自転車やペットの持ち込みができないのか? 林道で山仕事をする人が犬を連れてきてはいけないのか。山麓で犬を連れて散歩できないのか。同じ歩道で観光客は犬を連れてきてもよいが、登山者はできないということか。観光客の服装をした登山者はどうなのか。法的には犬連れ登山は禁止されていないが、ペット禁止の看板はあくまでお願いということか。「禁止」の「お願い」とは何か。コロナ感染防止のための「営業禁止」という「お願い」と同じか。
トレイルになっている林道は自転車で走ってもよいのではないか。林道の周囲に植林地があり、林業用の車が通るが、車が通る道を自転車が走行できないのはおかしい。林道は民間所有であり、人工物なので土地所権が現実化しやすい。
・連休でも3日間に出会ったスルーハイカーは計9人。これに対し、トレイルランナーは約30人いた。信越トレイルは、歩くトレイルというよりも、トレイルランニングのコースになっている。トレイルが整備され、走りやすいからだ。
信越トレイルは成功したのか? 当初もくろんだような経済効果はないが、自然と関わるアウトドア活動に経済効果を期待してはいけない。アウトドア活動が経済効果をもたらすのは、人工的な施設でのアウトドア活動である。
・既存の登山道、林道、車道、遊歩道などをつなげば全国のどこでもこのような低山のロングトレイルを歩くことができる。ただし一般に低山は日帰り登山の対象であり、低山にキャンプ地がない。あるのは観光用の山麓のキャンプ地だけだ。低山ではキャンプ地やトイレを設置するには土地所有者の同意が必要になる。これが大問題。そのため、既存の歩道や林道をつなぐほかなかったのだろう。
アメリカやニュージーランドではトレイルの整備は雇用されたスタッフが給料をもらって整備している。
日本では、登山道やトレイルの多くをボランティアが整備している。行政がトレイルの整備をしないのは、そのような国の政策がないからだ。日本は、実態は中央集権政治なので、国が動かなければ地方はなかなか動かない。国が動けば地方はそれに従う。
全国に低山のロングトレイルを作っても利用者がどれだけいるか疑問があり、それでこのようなトレイルが少ないのだろう。多くの登山者は、3,4日休日がああれば、高い山や有名な山に向かうのだろう。
・日本にはもともとロングトレイルがたくさんある。山岳の縦走路がそれだ。縦走路は日本特有のロングトレイルの形態である。北アルプスの縦走路、南アルプスの縦走路、大雪山の縦走路などが、日本のロングトレイルの代表だろう。長い縦走路は高山に多い。高山では土地所有権が現実化しにくい。土地所有権の権利行使がされにくい。高山では自然公園のキャンプ規制地域を除き、キャンプが黙認される。雪山での幕営がその典型だ。山麓では雪があっても幕営しにくい。
日本には、低山は日帰り登山の対象であり、何日も縦走するコースがほとんどなかったが、信越トレイルは日本には珍しい低山の長い縦走コースなのだ。低山では土地所有権が現実化しやすい。
・信越トレイルでの登山は、土地所有権との関係を考えさせられる旅だった。
2020.9.14
キャンプのために森林を買うことについて
これに関して否定的なことを述べる評論家がいるが、法的に言えば、森林、原野、雑種地の購入は簡単である。宅地や農地のような制限がない。
森林は価格が安く、固定資産税も安い。森林の価格はそこに植林さされている木の価格である。杉や檜の価格である。雑木林はタダ同然だ。農地と違って、山の管理は不要。放置してもよい。日本の山の大半が放置され、境界も不明だ。
問題は、以下のとおり。
・都会の人間が森林を買おうとすると、持ち主がが、タダ同然の山を高い価格で売る可能性がある。
・進入路のない山がほとんんどであり、歩いて山に行くことが多い。車が入る山はだいたい植林されているので、価格が高く、あるいは持ち主が売らない。便利のよい山は売らない人が多い。不便な山を売りたがる人がいるが、これはキャンプにも不便である。
・日本の山は急傾斜地が多い。
・進入路のある雑木林で、傾斜のない山を探すには時間をかける必要がある。
・山の公図、登記簿を調べ、土地所有者を捜さなければならない。相続人が多数いる山、所有者不明の山が多い。山の境界はだいたい不明であり、境界争いが生じることがある。
・不動産業者は通常、山を販売しないが(金にならないので)、もし、不動産業者が販売するとすれば、別荘用地などであり、価格が高い。あるいは、不動産業者が都会人に価格をふっかけることが多いだろう。
・通常、山には水がないので、キャンプをするには、水を持っていくことが必要
・キャンプ場以外の場所でのキャンプに便利さはない。
・キャンプはいろんな場所で行うから楽しいのであって、いつも同じ場所でキャンプをすれば、すぐに飽きるのではないか。別荘にすぐに飽きるのと同じ。山を買うことなく、山でキャンプした方がよほどよい。山ではどこでもキャンプができるが、山麓では土地所有者のキャンプの黙認が前提。山麓から30分も歩けば、たいていキャンプが可能ではないか。
・自分が亡くなった後に、相続人が森林をいらないという人が多く、処分に困る。通常、買い手はいない。
・私は、キャンプではなく、薪ストーブ用の薪を取るための山を何年も探しているが、見つからない。車道に面した便利のよい雑木林を売る人があまりないのだ。不便なな山は伐採した木木の搬出が大変だ。
2020.9.11
東京都が定める努力義務
東京都が「新型コロナウイルス対策条例」を改正し、宿泊施設や自宅で療養中の感染者に外出しないよう求める努力義務を課す方針を固めたことがわかった。
日本人は努力義務が好きなようだ。
本来、法律や条例は、一定の内容を命じる規範である。しかし、「努力せよ」という命令は、命令を実行したかどうかを判定できないので、命令として無意味である。「がんばりなさい」という命令と同じで、がんばることは命令しても意味がなく、説得や自覚をうながすほかない。がんばることを命令してそれが実現できた試しがない。
がんばるような人間には「がんばれ」と言うことは効果があるが、非行者、犯罪者に「がんばれ」と言っても効果がない。
「努力しなさい」と命令されて、誰でも努力できるとすれば、それは人間ではなくロボットだ。努力義務の根底に機械的な人間観がある。
日本人は、「がんばる」という言葉が好きだと言われている。外国語には、これにぴったりと当てはまる言葉がない。似た言葉であっても、ニュアンスが異なる。work
hard,do one's best,try hard,make an effort,endureなどはすべて日本語の「がんばる」とは意味が異なる。
努力義務は、ひとことで言えば、ナンセンス。倫理と法律は異なるが、日本では、倫理を強制しようとする。それは教育勅語と同じ発想だ。日本では道徳や倫理を義務教育で強制するが、本来、倫理や道徳は強制できない。登山での事故防止は強制できないが、日本ではそれを強制しようとして役所が苦労する。日本では無意味な仕事をするから長時間時間労働になり、生産性が悪い。
欧米では、誰もが努力義務など意味をなさないと考えるだろう。
しかし、日本では、努力義務を課すと非難や説得をしやすくなるというメリットがある。
日本では、努力義務は、行政が行政指導をする際に仕事をしやすくなるというメリットがある。努力義務は国民のためではなく役所のために設けるのである。日本では、法律は国民のためではなく、「お上」のために制定される。
飛行機の中でマスクを着用しない者に、仮に努力義務があるとすれば、関係者がしつこく説得することが可能になる。しかし、しょせん、努力義務に強制力がないのだから、従わなければどうにもならない。
努力義務は、努力する者には効果があるが、それに努力しない者には効果がない。
2020.9.6
猪苗代湖で遊泳中の8歳の男児がホーターボートに巻き込まれ死亡、2人重症・・・・何が問題か
これだけを聞けば、モーターボートの運転手が世論から激しく非難されるだろう。
しかし、遊泳中の場所は湖岸から200〜300メートルの場所であり、湖岸の海水浴場は閉鎖されていた。世論は被害者に同情しつつ、「海水浴場が閉鎖されているのに、泳ぐのはケシカラン」、「危険な場所で泳いでいた」などの世論の非難があるかもしれない。
日本の世論の非難の矛先はその時の気分次第だが、この事故では、世論は、加害者を非難すべきか、それとも被害者を非難すべきか迷うだろう。マスコミ報道も非難の矛先に戸惑いが見られる。
モーターボートの運転手は前方不注視の過失で業務上過失致死罪の責任を問われるが、運手は「事故を予見できなかった」として過失を争うだろう。
運転手とボートの事業主は損害賠償責任を問われる。
海、川、湖で泳ぐことは原則として自由にできる。海水浴場が閉鎖されていても、泳ぐことは禁止されていない。
海水浴場を開く場合は遊泳区域をブイで表示するらしいが、これは法的な拘束力はない。これはあくまで「お願い」でしかない。
遊泳区域を法的に制限するためには条例による規制や湖の管理者である福島県が管理権に基づいて制限するほかない。
海水浴場は民間業者が市から委託を受けて法運営していると思われ、市や民間業者は湖面の管理権を持たない。したがって、法的な遊泳区域の制限はなく、湖岸から200〜300メートルの場所を泳ぐことは違法ではない。
これに対し、モーターボートの運転者は前方を注意して運転すべきであり、これは自動車の場合と同じである。モーターボートの運転手は前方不注視の過失があることは明らかである。
ボートの運転者は損害賠償責任を問われるが、これは民亊裁判になるだろう。
ボートの運転者はそんな場所に遊泳者がいるとは夢にも思わなかったのだろうが、湖は多くの人のレジャーの場所である。今回は遊泳者が被害者だったが、素潜りの漁業者、スクーバダイバー、水上スキー、ヨット、カヤック、海中カメラマン、研究者などとモーターボートが衝突する危険がある。自然を多くの人が利用すれば、当然、利害の衝突が生じる。
湖面の管理者である県が管理権に基づいてアウトドア活動を適切管理することが必要である。これは湖面の利用範囲の調整である。
しばしば、事故防止のための条例が制定されるが、これはボートの運転者に一定の注意義務を課すことはあるが、アウトドア活動者相互間の利用調整ではない。これをするためには、湖面の管理者が管理権を発動する必要がある。自然の利用のための管理・制限と事故防止のための警察的規制は異なる。
また、しばしば、自治体はアウトドア活動のガイドラインを定めるが、これは行政指導あって法的拘束力がない。
日本では、自然の管理者が自然を利用するための調整をしないことが多い。おそらくそれをすると自然の開発や経済活動がしにくくなることを考慮するからではなかろうか。
行政がアウトドア活動を適切に管理することが必要である。それをしなければこの種の事故が今後も起きる。
行政がアウトドア活動を適切に管理しない点は、登山などでも同じである。
2020.9.5
テレビドラマ「半沢直樹」・・・日本ではものごとは法律では動かない
今までこのテレビドラマを見たことはない。まったく興味がないからだが、ドラマのコマーシャルを見ると、「やられたらやり返せ」というドラマのようだ。
ものごとが法律で動いていない日本の社会では「仕返し」が世論に受けるのだろう。年配の人に水戸黄門や大岡越前が受けることに似ている。このような社会では法的手続きにのっとって適切に問題を処理することは世論に受けないのだろう。弁護士が必要とされない所以だ。日本では弁護士に頼むと金がかかるので嫌われる。日本では下手に法律を当てにすると、とんでもないひどい目に遭うことが多い。それよりも自力で悪い奴に天誅を下す爽快さが世論に受けるのだろう。
インド、韓国、タイ、ミャンマー、香港などでもこのテレビドラマが受けるのではないか。
逆に、北欧、ドイツ、スイスなどではこのテレビドラマは絶対にひんしゅくを買うだろう。これでは法治国家とは言えないではないか。そんな野蛮な国は嫌だ。まあ、日本はそんなところだ。
テレビドラマ「おしん」は東南アジアやインドで絶大な人気があるが、欧米では奇妙なドラマと見られている。
2020.9.3
日本山岳・スポーツクライミング協会、夏山リーダー分科会議
zoomによるWEB会議。
日本山岳・スポーツクライミング協会がUIAA(国際山岳連盟)に準拠した新たなリーダー資格を作ろうとしている。これは、ボランティアリーダーにおける世界規格に準拠したリーダー資格である。
一般に日本では資格が濫乱立しており、世界でもっと資格の数が多い。その資格は玉石混淆である。資格が濫立すれば資格の権威と意味がない。日本には「〇〇士」という資格や肩書が溢れている。団体ごとに資格を作れば、そうなる。日本では、教育や資格が金儲けの手段になっている。
資格が乱立するのは国が規制しないからである。日本ではあらゆるものが自由放任され、乱立する。大学も自由放任で増えた結果、日本では大学を卒業するだけではあまり意味がない。
登山の分野でも資格が乱立している。職業ガイドに関しては資格が統合されたが、広範に拡散したガイドの資格をを統合したので、かなりゆるいガイド資格も含まれている。
ボランティアリーダーについては、国際水準に準拠した資格は、日本にはない。今回、これを作ろうというのである。資格さえあれば事故が防げるものではないが、国際水準に準拠しない資格を前提に事故防止を語ることは、国際的に通用しない。事故防止の議論のレベルを国際水準にあげる必要がある。
そのような資格を付与する講習を実施する場合のテキストが必要になる。
UIAAの夏山リーダー講習のテキストとして「Alpine Skills Summer」があり、これが和訳されて、日本山岳・スポーツクライミング協会から出版されている(2200円)。日本版のタイトルは、「総合登山技術ハンドブック 夏季アルパイン 基礎知識」である。しかし、このテキストはヨーロッパアルプスなどでの登山をイメージしたもので、日本の登山講習でそのまま使うと違和感がある。
そこで日本の登山者向きにアレンジする必要がある。
2020.8.30
リスクと責任
リスクと責任に関して日本には以下の傾向がある。
・リスクを意識することを嫌う。
リスクを嫌うことは万国共通だが、日本ではリスクを考えることを嫌う傾向がある。リスクを考えないことで安心を得ようとする。
・リスクについて考えなければ、リスクを最小限に抑えることができない。
・「〇〇のリスクはゼロではない」と誰もがいうが、リスクについて考えないことは、事故、災害が起きない前提で行動することを意味する。
・「〇〇のリスクはゼロではない」がリスクを冒すことを正当化するために使われる。「新型コロナ感染者をゼロにはできないので、感染防止策を徹底しても仕方がない」
・リスクマネジメントよりも利益優先の考え方
・責任を意識することを嫌う。
責任の発生を嫌うことは万国共通だが、日本では責任について考えることを嫌う傾向がある。責任を考えないことで安心を得ようとする。
責任が生じることを想定せずに行動し、事故や事件が起きれば、責任のなすり合いが生じる。多くの場合、関係者全員で責任を負うことになり、全員の責任は誰の責任でもない」という状況になる。「戦争は日本人全体の責任であり、誰にも責任はない」など。
・リスクマネジメントは損害回避のための手段だが、リスクマネジメントが責任回避の手段になる傾向がある。責任を回避できれば、事故や事件が起きてもかまわない?
・あらゆることにリスクがあり、あらゆることに責任が伴うことが理解されにくい。
・日本では責任=損害賠償責任、刑事責任のイメージが強い。
・日本では、個人の責任と組織の責任が同視されやすい。
・日本では、民亊責任と刑事責任が混同されやすい。悪いことをした者が損害賠償責任を負うと考える人がいる。損害賠償責任は無過失でも生じることがある。悪いことをしなくても損害賠償責任が生じる。
古代社会では民亊責任と刑事責任が分化していなかった。民亊責任と刑事責任の混同は人間の素朴な情緒的感情であり、日本の社会は情緒で動いている。情緒が支配する源氏物語の世界は今でも続いている。
2020.8.28
「絶望を希望に変える経済学」(アビジット・V・バナジー外)
この本の原題は、「Good for Hard Timesであり、この本には絶望とか希望という言葉は出てこない。出版社は、日本では絶望や希望という言葉を使った法が本が売れると考えたのだろうか。
著者は、経済学にはよい経済学と悪い経済学があると言い、従来の経済学を批判する。
従来の経済学は、市場の万能性や合理的な人間像を前提とする傾向があった。しかし、それでは貧困を解消できず、うまくいかない。
新型コロナは市場自体を制限するので、市場によって問題を解決しようという楽観論が成り立たない。
GDPを増やすことや成長を前提とする考え方では、新型コロナが蔓延するこれからの時代に対処できないのではないか。
これからは生産至上主義や輸出して儲ける考え方ではダメなのではないか。生産性を上げ、無駄をなくすことによって生活の豊かさを実現できるはずだ。
新型コロナの感染の恐れは、おそらく数年は続く。ワクチンが普及するには数年はかかるのではないか。その間、経済は、後退ないし、停滞するだろう。もとももと、世界の市場は発展途上国の生産量が増えれば市場が満溢する運命にある。生産を増やす考え方では、世界市場に限界が来る。
地方では人口減に歯止めがかからない。すべての地方が人口を増やそうとしても、日本の人口が減少すれば、すべての地域の人口が増えることはありえない。東京の人口が増えれば、地方の人口は減る。田舎では、人口を増やそうとして税金をつぎ込んでも、成果があがらない。 地方では人口が減ることを前提に、豊かな生活を実現する必要がある。
生産力をあげなくても、生産性が上がれば、少ない労働時間で同じものを生産できる。生産力をあげなくても、格差がなくなれば、国民の生活が豊かになる。
新型コロナのために生産量が増えなくても、現在の生産量で国民に必要なものは供給できる。
新型コロナのために企業が倒産しても、福祉、医療、介護、農業、教育などの分野は人手が足りない。これらの分野の待遇がよければいくらでも雇用が増える。「介護や農業の分野では外国人研修生がいなければ、やっていけない」という企業が多いが、それは賃金が安いからである。介護保険制度が変われば、介護職の賃金が上がる。給料があがり、残業がなければ、人は集まる。需要と供給の関係からすれば、人手不足の介護や保母の賃金が上がるはずだが、そうならないのは、それを政治が制限しているからだ。
生産性を上げ、法律を変えれば、残業がなくなる。教師の残業規制をすれば、教師の大幅増員が必要になる。それをしなければ、すぐれた人間が教師に集まらない。フィンランドで教育の成果があがるのは、フィンランドでは教師がもっとも人気のある職種だからだ。
福祉、医療、介護、農業、教育などの分野の雇用創出は、コロナによる失業ををカバーする。
政府が積極的に動いて新たな雇用を創出すること・・・・・ニューディール政策が必要ではないか。
小さな政府ではコロナを乗り超えることができない。
コロナ危機は自由な市場では対処できない。自由な市場と自由競争にまかせれば資金力のない小さい事業者や店舗は皆つぶれるのではないか。
2020.8.26
新型コロナでハイキング事故が増えるか?
新型コロナのために観光地が敬遠される。飲食店、映画、行楽地、旅行などが敬遠され、キャンプなどのアウトドア活動やハイキングや川、海に行く人が増えているようだ。
高齢者が新型コロナの感染を心配することなく、手軽にできることとして、都会近郊の山でハイキングをすることが増えているようだ。正確な数字はわからないが、マスコミがそのように報道している。ハイキングは金がそれほどかからないので、高齢者向きだ。
初めての単独での登山、ハイキングが可能なコースは多くない。
日本では、ハイキングと登山の区別がはっきりしない。
奥多摩の「ハイキングコース」で「登山」中に「山岳」事故が起きたとすれば、この表現では、ハイキング=登山=山岳である。
日本でハイキングコースとされる山の多くは登山である。日本では、ハイキングの多くは山歩きであり、これは登山である。日本でいうハイキングは、誰でも手軽にできるかというと、必ずしもそうではない。そのため初心者がハイキングコースで事故を起こしやすい。
山岳事故は高山での雪崩やクライミング中の滑落事故であって、ハイキング中の転倒事故とは別だと考える人がいる。
東京の奥多摩は、登山口から稜線まで急登になり、下山時に事故が起きやすい。沢は滝が多い。丹沢も同じだ。
地方では、ハイキングコースの多くが、整備された時はハイキングコースでも、数年経てば、登山道に雑草が生い茂っていたりする。地方の低山のハイキングコースでは道迷いしやすい。穂高などよりも地方の低山の方が迷いやすい。
「初心者でも歩けるハイキングコース」の多くがけっこう危険である。この点を知らないままハイキングする人が多い。
日本では初めての人が単独でハイキングできるコースが少ない。あるとすれば観光地の遊歩道であり、コンクリートなどで固められたコースであり、つまらない。自然性の高い場所を歩けるハイキングコースが少ない。奥多摩や丹沢のコースを一人で歩くには、それなりの登山経験が必要だ。
日本ではハイキングは山が対象になり、山は急傾斜であることが多い。そのため、まず、体力がいる。ハイキングをするにはある程度の登山経験が必要だが、そのような面倒なことは敬遠され、事故が起きやすい。
日本には欧米のような丘陵地のトレイルが少ない。急傾斜のトレイルは下山時に膝を痛めたり、転落の危険性がある。
誰でも歩けるコースは、ハイキングというよりも、ウォーキングと呼んだ方が日本語にふさわしいのではないか。日本には、ウォーキングの文化がなく、ウォーキングコースが少ない。ウォーキングコースは、山頂に向かうことなく、山麓を練り歩くことになるが、もともとそのようなコースが少ない。日本の登山は宗教登山が出発点にあり、宗教登山は必ず山頂に向かう。山頂に、向かう登山道は急登になりやすい。
自治体が「○○の自然の道」などを選定することがあるが、舗装された林道だったりするのでつまらない。舗装された道を歩いて楽しむ人はいない。
日本にはhikingの文化がない。日本ではhikingは、登山、舗装道路のウォーキング、観光地のハイキングになってしまう。hiking用のトレイルは登山道の一部になってしまい、それは山頂に向かう。
日本にはイギリスのフットパスやアメリカの国立公園のトレイルのような歩くことを目的とするコースが少ない。
日本でも、山麓を歩く起伏の少ないトレイルが必要だ。それは意識的に作らなければならない。
2020.8.24
新型コロナで高まるアウトドア活動熱。しかし・・・・・
新型コロナでアウトドア活動の人気が高まっている。しかし、日本はアウトドア活動後進国であり、多くの障害がある。
・アウトドア文化の欠如。自然は危険性に満ちており、アウトドア活動には一定の危険性があるが、日本には危ないことをしてはいけないという考え方が強い。しかし、世の中は危ないことだらけであり、危険性やリスクにいかに対処するかを、子供の頃から学校や家庭で学ぶ必要がある。
日本では、アウトドア活動は金を出して戸外でレジャーをすることだと勘違いする人がいる。これでは街中のレジャーと大差ない。アウトドア活動のアウトドア活動たるゆえんは自然の中での活動である。自然は人工物ではない。自然の中に人工的な施設を作っても、アウトドア活動ではない。
海では、安全管理された海水浴場を利用し、それ以外の海岸では危ないので泳ぐべきではないというのが日本の傾向である。
川では、子供は小さい頃から、「川は危ないので近づくな」と教えられる。川の危険性を学ぶ機会がない。そのため、大人になってから、簡単に川で事故に遭う。
山では、登山道や山小屋など山を人工物で埋め尽くす傾向がある。人工物で整備された登山環境に慣れてしまえば、自然に触れると簡単に遭難する。
たとえば、天候の急変で悪天候になると遭難しやすい。
標識のない登山道で迷う登山者になる。不明瞭な道を歩く経験をしなければ、簡単に道迷いをする。
山小屋以外に泊まった経験がなければ、緊急時にビバークができない。
小さい頃から自然の中で自然の危険性を学ぶ機会が必要であり、それが自然災害に対処できる能力を養う。
・アウトドア活動は自然との関わりに意味がある。自然には危険性がある。自然の中では事故の確率がゼロではない。しかし、日本では、これが受け入れられていない。
日本では、アウトドア活動は安全でなければならないと考え、街中と同様の安全性を要求する。世論も裁判所も同じである。そのため、アウトドア施設で事故が起きれば、裁判所が工作物責任を認めるケースが多い。
確率でいえば自然の中では事故がいつかは必ず起きる。事故の確率を下げようとすれば、自然の人工的な管理が必要になり、自然でなくなる。日本のアウトドア活動は、自然の中に人工的な環境を持ち込む傾向がある。そのようなアウトドア活動はアウトドア活動の魅力に欠ける。
危険性のある自然を危険なものとして受け入れる考え方が必要である。
・裁判所は営利的なアウトドア活動で事故が起きれば、法的責任を認めることが多い。そのため、日本では営利的なアウトドア活動が屋内のレジャーのようになってしまう。最近はやりのグランピアなどは、ホテル並みの安全管理責任が生じるので、ホテルに泊まるのと大差ない。これはホテルの延長であり、アウトドア活動ではない。
・日本では自然を利用する権利がヨーロッパのように確立していない。自然の管理があいまいであり、役所もよくわからない。海岸ではどこでも泳げるのか、山はどこでも歩けるのか、役所もよくわからない。
海水浴場が閉鎖されたら、海では泳げないのか・・・・できないと思っている人が多い。
海で自由にカヌーができるのか。海上保安庁の許可が必要だと思っている人がいる。
公有地や私有地で自由に登山ができるのか。
パラグライダーで私有地の上空を自由に飛んでもよいのか。
富士山では登山が禁止されているのか。
富士山ではドローンが禁止されているのか。富士山でパラグラウダーができないのか。
富士山では自由に走れないのか。富士山ではテントを張れないのか。
海岸や河川敷で自由にキャンプができるのか・・・・できるようなできないような。昼間、海水浴場にテントを張ることはできるようだが、夜間はどうか。河川敷で海岸でバーベキュー、焚き火、花火ができるのか。いずれも火を使う。化石燃料や炭はよいが、薪はダメとか。
2020.8.24
水難事故が多発
川や海での事故が多発している。水難事故の多さは今年に限ったことではないが、今年は例年よりも多いのかどうか?
新型コロナのために、観光地を避け、人の少ない川や海での事故が増えているのか?
川や海は危険だから事故が起きると考えがちだが、そうではない。海で溺れても、サーファーなどが救助することがある。そこは溺れた人には危険だが、サーファーにとってはそうではなかった。
川、海、山で遭難するもいれば、同じ場所で遭難しない人もいる。
危険性の程度は一人一人異なる。自分がコントロールできる危険性のレベルがわからないから、事故が起きるのである。
自分がコントロールできる危険性のレベルを把握し、リスクマネジメントができることが必要だが、そのためにはアウトドア活動の経験を積むほかない。そのような経験がない人は、自重するということになる。
川や海では、熟練者でなければ、自重すること。川でいえば、その川を熟知した人でなければ、川では泳がないこと。
沢登りの熟練者は滝壺に入らない。滝壺の恐さを知っているからだ。入るとすれば、ロープを着用するだろう。
子供を川遊びをさせる場合には子供にロープを着用した方がよい。子供が川に流されないためだ。もし、子供が川で流されたら、よほど運がよい場合を除き、たいてい死ぬ。
以前、島根県にあるカヌー教室に私と7歳の子供と参加したことがある。私が子供が乗ったカヌーにロープをつけようとしたら、インストラクターが、「大丈夫ですよ。我々がそばについていますから」と言ってそれを制止した。
ところが、講習中に子供が乗ったカヌーが流された。インストラクターは想定外の事態にあわててライフジャケット、スカートなどの装着をし、流されるカヌーを追いかけるのにひどく手間取った。その間に子供が乗ったカヌーは100メートルくらい流された。数百メートル下流は川の流れが速くなっている。流されるカヌーにインストラクターが追いつくのに10分くらいかかったのではないか。たぶん、私がカヌーで追いかけた方が早かっただろうが、インストラクターは助けに行こうとする私を制止した。
その間、幸いなことに、子供が乗ったカヌー転覆しなかったが、それは単に運がよかっただけだ。そんな危険な状況を招くインストラクターのノーテンキさは狂っている。そのインストラクターはカヌーでインタハイに出場した経験があるらしいが、そんなことは関係ない。基本的なリスクマネジメントができていない。このようなカヌー教室ではいつ事故が起きてもおかしくない。このようにして事故が起きるのだ。この時事故にならなかったことは運がよかったのだ。私は、山では、こんな恐い経験をしたことは滅多にない。今でも思い出すと冷や汗が出る。
新型コロナ感染予防もリスクマネジメントの問題である。行政が行うリスクマネジメントと国民が行うリスクマネジメントがある。現状では、政府は、「感染者数の状況を注視する」ことしかしないので、国民は、自分の命は自分で守るほかない。
2020.8.20
閉鎖された海水浴場を立入禁止にできないのか
インターネットのヤフーの配信記事に、閉鎖された海水浴場を立ち入り禁止にできないために,遊泳する迷惑者がいて困っているという記事が載っていた。海水浴場を立ち入り禁止にできない理由は、条例や海岸法に立入禁止にできる規定がないからだと書かれている。「ビーチは自由利用ができる」などとも書かれている。
しかし、これは間違いである。海岸は所有権の対象であり、それに基づいて立入禁止にできる。
海岸のほとんどは国が所有しているが、海岸法により、海岸保全区域を除き、都道県知事が管理し、市町村が管理することも可能である。
海岸法によるこの管理権には、立入禁止の権限は含まれていない。海岸法に立入禁止にできる規定がないのは、土地への立入禁止は土地所有権によって決まるのであり、それは民法上の問題だからである。行政法規は土地所有権に触れないことが多い。
海岸に立ち入ることができるかどうかは、土地所有権の問題である。一般の海岸は国が自治体に無償で貸し付けたものとみなされ(国有財産法9条)、自治体には海岸の借主として立入禁止の権限がある。
欧米では、自然の利用を法律で明記する国が多いが、日本では海岸の自由利用の権利が認められていない。これに関して裁判で争われたことがあるが、裁判所は自由利用の権利や入浜権を否定した。しかし、海水浴場を閉鎖しただけで、海岸に立ち入ることができないというのは、国民の自由の過度の制限であり、妥当ではない。
さて、上記のヤフーの記事は、弁護士が管理するインターネットサイトだが・・・・・・・こんないい加減な間違った記事を書いてもよいのか。
役所が、海岸法に海岸の立入禁止規定がないので困っているなどと言うのは、土地所有権を理解していないからだ。山、海岸、河川敷は土地所有権の対象ではないと勘違いしている公務員すらいる。 海岸なども民法上の土地所有権の対象になるというのが日本の判例・学説だが、それを否定して、公共物は私的所有権の対象ではなく、公所有権の対象だと主張したのはドイツのオットー・マイヤーという学者である。海岸などは無主物だという異説もある。まあ、そんな議論は趣味ですればよいだろう。
国有地や市有地という言葉は、国や市に土地所有権があることを意味する。海岸は国有地である。しかし、公務員は通常行政法規と通達を使って仕事をし、民法を扱うことをしない。そのため民法を理解していないのだ。
河川敷へのバイクや自動車の乗り入れの迷惑行為に関して、役所が手を出せず困っているというマスコミ報道がなされるが、河川敷を管理する役所はそれらを禁止すればよい。河川敷を管理する役所が河川敷でのテントや不法占拠者に退去を命じる際は、河川敷は役所のものだと考えているが、迷惑行為を取り締まる場面では河川敷の土地所有権を忘れるようだ。役所が立入を禁止する河川敷やダム湖畔は多い。
海岸の所有者(管理者)は海水浴場を立入禁止にし、それに違反すれば、損害賠償責任や軽犯罪法違反になる。しかし、役所はそれをしない。本当に危険な施設であれば、立入禁止にすべきだが、海岸にそこまでの危険性はない。海水浴場を閉鎖したという理由で海岸を立入禁止にすることは権利の濫用である。海岸を立入禁止にすれば海岸で散歩もできなくなり、それは国民の自由の過度の制限になる。事故が多いちう理由で、山を入山禁止にすることも同じである。
自治体が、閉鎖した海水浴場での事故を気にするのであれば、これは海岸を立入禁止ではなく、遊泳禁止の問題である。自治体は遊泳禁止にしたいのだろう。
海は国が管理している。海は土地と言うよりも海水で構成されるので、所有権の観念はないと言われているが、海の管理権がある。
海を管理する国は遊泳禁止にできるか。サメがが出没するとか、潮流が強い場所などの危険な海域は遊泳禁止にできるだろう。しかし、安易にそれを行えば、それは権利の濫用になる。かつて、国はカヌーでの日本一周や、ヨットでの太平洋横断を禁止したことがあるが、後で、これを撤回した。これは憲法上の自由の過度の制限が問題になる。海水浴場を閉鎖したという理由だけで海での遊泳を禁止にすることはできない。遊泳禁止にすればサーフィンやトライアスロンも練習などもできないことになる。
不思議なことに、海水浴と違って登山は簡単に禁止する。富士山では、新型コロナのために山小屋を閉鎖したので、富士山登山を禁止した。富士山ではもともと冬山登山が禁止されている(禁止に法的効力がないが)。山で事故が起きれば自治体は簡単に登山を制限するが、海で事故が起きても遊泳を制限しない。
富士山登山を禁止したのは県である。富士山はすべて国有地ではないので、富士山登山を国は禁止できないし、県にもそのような権限がなく、登山禁止は無効である。日本では、権限がなくても「禁止」することが多い。そこでは法律の規定の有無は関係がない。法律があろうとなかろうと、役所は、禁止したければ禁止する。これは、「お上が禁止すればできないのだ」という江戸時代と大差ない。これは行政指導による「禁止」であり、「禁止のお願い」である。「営業禁止の要請」と同じく、日本語の使用方法は混乱している。
山と違って、海岸のほとんどは国が所有し、海は国が管理しているので、国は遊泳の禁止が可能だが、禁止しない。
役所は、登山について法的な権限ないにもかかわらず、簡単に登山禁止を宣言するが、海では法的な権限があるにもかかわらず遊泳禁止にしない。
役所は海岸の自由利用を尊重するが、山はそうではない。この違いは何なのか。実に不思議だ。日本には不思議なことが多い。
日本では、法律はタテマエや飾りであって、役所を含めて法律でものごとが動いていないので、役所の対応が恣意的になりやすい。これが不公平をもたらす。新型コロナに対する自粛要請もそのひとつである。自粛するかどうかが恣意的になりやすい。
日本の裁判所は、立入禁止にしただけでは、そこで起きた事故について営造物責任や工作物責任を認めることがある。それが混乱を招く。役所が管理責任を負わないためには、子供が入り込まないように厳重に進入口を封鎖しなければ裁判所が営造物責任を認めることがある。その結果、閉鎖した海水浴場でもライフセーバーを置くという奇妙な現象が起きる。
閉鎖した海水浴場で起きた事故に関して海岸の管理者に法的責任は生じない・・・・・・これが確立されればよいのだが、日本の裁判所はその点があいまいで頼りないのだ。日本では自己責任とパターナリズムの範囲が明確ではない。この点は日本の法律家も同じである。
すべて役所の無理解と裁判所の混乱が原因である。
日本のアウトドア活動をめぐる法的扱いは混乱状態にある。
2020.8.16
久住山 三俣山付近からの遠望
黒岳付近
2020.8.9
上高地のキャンプ場に熊が出没・・・・その法的問題
小梨平キャンプ場に熊が現れ、けが人が出た。このため、キャンプ場が閉鎖された。
アメリカでもキャンプ場に熊が出没する。このため、アメリカではキャンプ場に「熊が出没する」という警告が表示され、熊による被害が出ても、キャンプ場は損害賠償責任を負わない。そのような裁判例もある。
ヨーロッパでも考え方は同じだ。欧米のキャンプ場では、熊がゴミをあさらないようにゴミは箱を頑丈な鉄の箱にするとか、食料を木の上に吊るすなどの方法をとったうえで、利用者に熊の危険性を警告し、キャンプ場を維持する。熊が恐い人は、キャンプをしないことだ。
日本では、キャンプ場での熊被害の裁判例はないが、キャンプ場に損害賠償責任が生じる。たとえ、アメリカのように、キャンプ場に「熊に注意」という警告を表示しても、日本ではキャンプ場の損害賠償責任を免れない。日本の裁判所は、観光地付近にある自然性の高い施設を認めず、街中の人工的な施設と同じ管理を要求する傾向がある。「危険な施設はあってはならない」というのが日本の裁判所の基本的な考え方だ。危険性の表示をしてもしなくても、判決お結論に違いが生じないことが多い。このような裁判所のの傾向を受けて、キャンプ場を閉鎖したのだろう。
キャンプ場の管理者は、熊が捕獲されるまでキャンプ場を閉鎖すると発表したが、それには数年かかるかもしれない。また、北アルプスに生息する熊は1頭ではない。「熊が捕獲されるまでキャンプ場を閉鎖する」というのは、永久に閉鎖することを意味するのではないか。
熊は、去年も上高地で目撃され、先月も上高地に出没している。上高地周辺に熊がいることは周知のことだ。それにもかかわらず、キャンプ場の管理者が、熊がゴミをあさらないようにゴミ箱を頑丈な鉄の箱にするとか、食料を木の上に吊るすなどの対策をとっていなかったことが問題だ。こんな無策では、アメリカでもキャンプ場の管理者に損害賠償責任が生じるだろう。
小梨平のキャンプ場は、上高地という観光地の中で珍しく自然性を維持したキャンプ場だった。その意味では日本的ではない欧米的なキャンプ場である。焚き火もできた。このような自然性のある(その点で危険性のある)キャンプ場が姿を消すことは、日本のアウトドア文化の喪失を意味する。
奥入瀬渓流落木事故判決以降、「登山道を整備すれば管理責任が生じる」と考えて管理が萎縮している。キャンプ場も同じ運命にあるのだろうか。何かをして批判されるよりも、何もしない方がよいという「無策」が日本に多い。
日本の責任回避の無策国家、萎縮国家たる所以だ。これは、新型コロナに対する国の無策と似ている。
日本の裁判所は、キャンプ場で熊被害があってはならないと考えて、キャンプ場に熊に被害が生じないようにさせようとする。裁判所は、「熊被害が生じないようにキャンプ場を管理すればよい」と考えるが、現実には100パーセント確実な方法はキャンプの場の閉鎖しかない。裁判所が考える理屈は机上の空論が多い。裁判は社会的な儀式である。
どんな厳重な管理をしても、熊被害を100パーセント除去するのは無理である。たとえ。キャンプ場の周囲を鉄条網で囲っても、熊はそれを破壊する可能性がある。ヒグマには鉄条網は無力だろう。コンクリートの高い壁を作れば別だが、それでは刑務所と同じだ。日本のキャンプ場が刑務所と同じだとすれば、これは笑える。
熊被害のリスクを受け入れ、その被害を最小限にする対策をとったうえで、キャンプ場を管理することが必要だ。利用者は熊被害のリスクを承認する必要がある。欧米のキャンプ場のように、熊の危険性を表示し、熊がゴミをあさらないようにゴミを頑丈な鉄の箱に入れること食料を木の上に吊るすなどの方法をとり、利用者が熊のリスクを受け入れることを裁判所が認める必要がある。それがない限り、日本のキャンプ場はどこでも熊が出没する危険がゼロではないので、すべてのキャンプ場を閉鎖するほかないだろう。
現在、熊が出没る地域の小学校は閉鎖していない。しかし、小学生が通学路で熊に襲われて亡くなれば、日本では小学校の管理責任が問われる可能性がある。欧米では問題にならないこのような責任が日本で問題になることは、日本特有の現象である。そんなことをしていたら日本の社会はますます萎縮する。あれもダメ、これもダメ・・・・・という禁止と制限だらけの萎縮国家。
熊の行動範囲は数十キロに及ぶ。なぜ、上高地の遊歩道を閉鎖しないのか。それは、熊被害が生じたのがキャンプ場であって遊歩道ではないという理屈による。しかし、キャンプ場に現れる熊は遊歩道や上高地のどこにでも出没するはずだ。
日本の裁判所の傾向からすれば、熊被害の損害賠償責任が生じる可能性は、キャンプ場ではほぼ100パーセント近く、遊歩道では50パーセントくらいか。欧米ではほとんど損害賠償責任は問題にならない。自然の中に熊がいるのは当たり前だ。上高地を人間が開発する前は、上高地は熊の住処だったはずだ。
他方、徹底した管理社会の韓国ではすぐに遊歩道も閉鎖するだろう。
キャンプ場に「熊が出没する」という警告表示をして「キャンプ場使用を認める欧米の考え方と、キャンプ場を閉鎖することで被害を防止する日本のやり方とどちらがよいだろうか。どちらが賢明な方法だろうか。どちらの社会が発展するだろうか。
日本のやり方はリスクのあることを「禁止」する考え方であり、禁止社会になる。リスクのあることに挑戦できない。これは冒険を否定する文化につながる。
自然の中のキャンプ場に多少の危険性があることはやむをえないのであり、それを承認したうえでアウトドア活動をするというのが、世界のスタンダードである。
少しでも危険があれば禁止していたら、アウトドア活動はできない。
しかし、日本は、危険であるという理由でアウトドア活動を禁止する場面が多い。何か問題があれば、それを「しない」方向で考える。この点は韓国、中国も同じだ。東洋的な文化と言えそうだ。
日本の社会が変われば、裁判所も変わる。裁判所は日本の社会の価値観と法律の奴隷と言っても過言ではない。
日本の裁判所の考え方では、アウトドア施設は安全でなければならず、危険な施設は閉鎖ないし禁止するほかない。
日本の裁判所の考え方では、アウトドア活動が発展しない。
日本の裁判官は安全管理された箱の中で生活し、「安全管理された」アウトドア活動しかしないので、何も問題を感じないようだ。
新型コロナの流行はアウトドア活動に対する国民の関心を高める。
すると、日本ではアウトドア活動をめぐって法的にあいまいなことだらけであることが国民にわかりやすくなる。
日本では、駐車場で車中泊ができるのかどうかすら、あいまいなのだ。日本では、最近この禁止を明示する駐車場がある。しかし、仮眠はよいというのだから、わけがわからない。これはスキー客などの仮眠が多いからだが、これは管理者の収入につながる。しかし、キャンパーの車中泊は管理者の収入につながらない。駐車料金をとると、裁判所の管理責任がうるさいので、駐車料金をとらず、夜間は鍵をかけて駐車場を閉鎖することが多い。市役所も裁判所も市民の税金で作った街中の駐車場を休日に市民に利用させない。これも禁止社会の表れだ。
アウトドア活動は問題が少しでもあれば「禁止」だが、GO TOキャンペーンなどの経済活動は問題があっても「禁止」しない。それは経済優先の考え方があるからだ。金になることは禁止しない。キャンプはそれほど金になることではない。だいたいアウトドア活動は金にならない。
川原でキャンプができるのか。これはやってみなければわからない。昼間テントを張ることは黙認される(これもキャンプである)。海水浴場でも昼間のテントは黙認される。夜間はどうか。目立たなければ、大丈夫だが、目立てば注意される。しかし、法的に禁止されているわけではない。
2020.8.9
UIAA登山テキスト
国際山岳連盟の登山テキストが和訳されて、日本山岳・スポーツクライミング協会から出版された(2200円)。日本版のタイトルは、「総合登山技術ハンドブック 夏季アルパイン 基礎知識ー高山ハイキングークライミングーアルピニズム」とやたらと長い。
日本語版のタイトルに「高山ハイキング」に「アルパインハイキング」のふりがながあるので、日本で山歩きをする登山者の多くは、「自分とは関係がない」と考えるかもしれない。日本百名山を登る登山者の多くは、自分の登山は「アルパイン」とは関係がないと考えやすい。アルピニズムは、クライミングや冬山のイメージが強い。
しかし、この本のはしがきに、「このハンドブックは、ハイキング、クライミング、登山などのボランティアリーダーが活動するにあたって必要な基本スキルを身につけるための概論となっています」と述べられている。このはしがきからすれば、この本はハイキングや山歩きのリーダーも対象にしており、日本の山歩きも対象になる。
UIAAのテキストに簡単なロープワークや滑落停止の記述がある。日本の登山者やリーダーの多くが、「日本の夏の登山ではロープワークや滑落停止は必要ない」と考えている。しかし、UIAAはそのように考えない。UIAAは、日本の夏山リーダー資格でも簡単なロープーワークを身につけていることが必要だと考えている。
このように言うと、「ロープワークができなくても日本百名山を登ることができるではないか」という反論がなされる。
ここではあくまでリーダーの資格を問題にしている。一般登山者はともかく、山歩きのリーダーに簡単なロープワーク技術が必要だというのがUIAAの考え方である。それがリーダーの条件である。
さらに、「一般登山道での山歩きでは、リーダーにロープワークは必要ではない」という意見があるだろう。UIAAはそのような者に山歩きの「リーダーの資格」を認めないということだ。UIAAが認定するリーダー資格は、日本で考えられているリーダーよりもレベルが高い。
この本の133頁以下は、「ハイキング」ではなく「アルパインハイキング」の見出しになっている。ここでいうhikingは日本の一般的な登山(山歩き)である。日本百名山を登ることをhikingとか「アルパインハイキング」と言われると、「アルパインではない」と言う人や、「ハイキングではない」という人が多いのではないか。
UIAAのテキストは、リーダーに参加者の安全確保義務が生じる場合とそうではない場合を区別していない。そこには、「リーダーに安全確保義務が生じるかどうかは、リーダーのあり方に影響を与えない。安全確保義務が生じるかどうかに関係なく、リーダーはやるべきことをやればよい。法的責任の内容は裁判所が決定するが、リーダーのあり方は裁判所ではなく登山者が決定する」という考え方があるのではないか。
日本では、「リーダーに安全確保義務が生じるかどうかによって、リーダーのあり方が違う」という考え方が強い。「リーダーに安全確保義務が生じなければ、リーダーはいい加減であってもよい」と言えば、言い過ぎだが、それに近い実態がある。しかし、法的な安全確保義務が生じるかどうかに関係なく、本来、登山リーダーが行うべきことは同じだと考えるべきなのだろう。
リーダーのレベルについて、UIAAと日本の登山者の考え方の違いがある。
UIAAの考え方は世界の「スタンダードだと言ってよい。山歩きでもリーダーに簡単なロープワーク技術が必要だというのが、世界のスタンダードである。しかし、日本では、山歩きにロープワークは不用であり、リーダーも同じだと考える人が多い。
今後、日本でも世界のスタンダードに準拠したリーダー資格をもうけようとしている。それが日本山岳・スポーツクライミング協会のUIAAに準拠した山歩きのボランティアのリーダー資格(名称はまだ決まっていない)である。
これは、日本の登山リーダーのレベルを世界水準に引き上げる意味がある。
山岳遭難の多くは、山の危険性のレベルと登山者のミスマッチによって起きる。リーダーも同じだ。
エラそうな言い方だが、登山者の半分くらいは、このミスマッチのために遭難予備軍に近い人達が占めている。山では、いつ遭難してもおかしくないような人をよく見かける。たとえば、午後の遅い時間に、まだ山頂をめざして歩いている人や、明らかに登るのは無理だと思われる小さな子供を連れた登山者、地図も磁石も持たない登山者、地図の読めない登山者、雨具を持たない登山者、残雪期に迷ってばかりいる単独登山者、残雪期にピッケルを持たない登山者、他の登山者の後をついていく登山者などをよく見かける.
。
2020.7.7
自然災害とリスク回避行動
最近は、避難勧告や避難指示が広範囲で出ることが多い。
〇〇市全域や〇〇区全域に避難指示が出ても、何十万人も避難できる場所はない。何十万人も一斉に避難行動を始めれば道路が大渋滞するだろう。避難先がない。
九州では130万人に避難指示が出ているが、130万人が本当に避難しようとしたら、大変なことになる。
結局、避難指示が出ても、全員が避難することはできないし、それを想定していない。避難指示はタテマエなのだ。
特別警報でも、その対象区域全員が被災するわけではないので、全員が避難する必要はないし、何十万人も避難する場所がない。
垂直避難は、それができる人が限られる。
これは、富士山噴火や原発被害と対比すると、違いがよくわかる。福島原発事故では、東京に死の灰が降りかかる可能性があった。その場合には、東京都民全員が避難しなければならない。死の灰は地域住民全員が被災するので民族大移動が必要だが、大雨の場合には、地域住民全員が被災するわけではない。
避難指示区域の人全員が避難できないし、その必要もない。
避難指示を出すのは警告を発する点に意味がある。
危険な場所に住んでいる人が避難することになる。リスクの状況は世帯ごとに異なる。避難指示は、「危険な場所にいる人は避難しろ」という意味である。全員が避難する必要はない。そのことを誰もがわかっている。避難指示を出す自治体も、全員が避難することは想定していない。そうだとすれば、避難指示の言葉が間違っているのではないか。
もし、一戸ごとに避難指示が出れば、それは本当に避難しなければならないだろう。
〇〇市全域や〇〇区全域に出る避難指示は、注意喚起の意味しかない。
ひとりひとりが考えて行動するほかないが、誰でもそれまで考えたこともないことはできない。小さいころからのリスク学習でそれを身につけるほかないが、日本ではリスクが嫌われ、日本の学校でリスクを教えることをしない。「危ないことをしてはいけません」ではダメだ。
誰でも危ないことをしてリスクを学ぶ。子供のそばにリスクをコントロールできる大人がついていればよい。
小さいころから、リスクとリスク回避について学んでなければ、大人になってそれをしろと言われても難しい。
日本の学校で、もっとリスクについて教えるべきだ。
災害が起きる度に、「ハザードマップが生かされなかった。行政はもっと住民に周知させるべきだ」と言われる。
しかし、リスクは教えてもらうものではなく、自分で考えるべきものだ。そのためには学校での教育が必要だ。小さいころからリスクについて学んでいれば、自然に常にリスクを考えるようになる。あらゆるものにリスクがあるので、それを考えなければ生きていけない。
事故や自然災害だけでなく、社会社会がもたらすリスク、政治のリスクなども中学校や高校で教えるべきだ。高校生は、過労死のリスクや消費社会のリスク、信用制度のリスク、クレジットのリスクなどを学ぶ必要がある。
コロナ感染も、社会がもたらすリスクのひとつだ。社会があるからコロナに感染する。社会がなければコロナ問題は生じない。無人島に1人で住んでいればコロナ感染はない。
社会の在り方が感コロナ染の程度を左右する。ニュージーランドには夜のネオン街がないらしい。東京の夜の街感染はニュージーランドでは起きないだろう。
スウェーデンでは、国民が賢明なリスク回避行動ができる前提で、国民の行動制限をしなかった。しかし、現実には、国民の賢明なリスク回避行動ができず、感染者が増えた。スウェーデン国民は、国が想定したほど賢明ではなかったようだ。
中国では、国民の賢明なリスク回避行動を期待できないと考えて、徹底した行動規制をし、成功した。この方法は中国人向きだった。
トランプの方法・政策はアメリカ人向きではなかった。
日本は、そのような検討をすることなく、得か損かの打算で政策を実施した。そこには、philosophyがない。いや、正確に言えば、ものごとを理念ではなく打算で決めるというphilosophyがあると言うべきか。
たまたま、日本の安全・安心文化がコロナに対する不安をもたらし、それが奏功したようだ。山中教授は、「ファクターX」について述べているが、「ファクターX」は自然科学的な要素ではなく、日本の「安全・安心文化」や「不安文化」ではなかろうか。
2020.7.3
コロナ感染・第二波到来
コロナ感染者が確実に増えている。
広島県でも2か月ぶりに感染者が出た。感染経路は不明だが、おそらく、東京か大阪の感染と関係があるのだろう。
感染者が増えれば、自粛要請がなくても、人々の行動が萎縮し、経済が停滞しやすい。自粛要請がなくても、観光、音楽、芸能、芸術、文化活動は停滞する。夜の歓楽街だけが活発だ。
しかし、東京都も国もほとんど何も手を打たない。まったくの無策。
東京都は、7月5日の都知事選に影響するので無策なのだろう。
国は、コロナ専門家会議を廃止したので、国が何かしようにも専門家会議を責任回避に使えない。今、国が動けば、すべての責任が官邸に降りかかる。国が何かすれば内閣支持率に影響することを懸念するのだろう。コロナ対策よりも、政権維持を優先させている。
このままでは、東京の1日の感染者数が200人を超える日は近いだろう。
今、重症者が少ないのは、高齢者が行動を自重しているからだろう。しかし、若者の感染者が増えれば、いずれ職場や家庭、電車、店舗など内で高齢者に感染するだろう。
東京から感染が全国に広まるのは時間の問題だ。
為政者の無策に国民はもっと怒るべきだ。
このまま何もせずどうにもならなくなってようやく重い腰を上げる・・・・・それは政治とは言えない。
コロナ対策に限ったことではないが、日本の政策には、philosophyがない。そのため政策に一貫性がなく、場当たり的で、得か損かでしか動かない。
今のうちにやれることがいくらでもあるではないか。
経済を動かしながら、あるいは、経済を活性化するには、徹底した検査しかない。徹底した検査が国民に安心感をもたらし、観光業や飲食業が復活する。
新宿の歓楽街の関係者全員のPCR検査をすべきである。
会社で感染者が1人出れば、全社員のPCR検査をすべきだ。
1日の検査数10万人体制を構築すべきだ。1年間で3650万人検査すれば、ほとんどの感染者を隔離できるだろう。
検査を拒否する者がいれば、強制的な検査の立法をすればよい。
補償金を支払って部分的に店を営業停止にすべきだ。強制的な閉店命令を可能とする法律を作ればよい。
法律を作れば、たいていのことは可能だ。問題は、国が本気になるかどうかだ。、philosophyがなければ本気になれない。
食中毒などでは営業停止措置が可能だが、コロナではそれができない。
PCR検査=行政検査を廃止し、医療検査+有償検査にすべきだ。コロナ対策の一部の民営化、事業化し、経済活動の1部門にすべきだ。
今のままでは、観光旅行、混雑するレジャー、混雑する飲食店に入ることは、恐くてできない。
再び、日本の政治家の無能較べが始まるのか・・・・・・
2020.6.30
上高地周辺の歩道の破損
長野県での群発地震のために、上高地周辺の歩道に破損が生じている。しかし、誰がそれを修復するかをめぐって関係者の間で混乱が生じているらしい。
上高地周辺の歩道の管理者があいまいなことがその理由らしい。
上高地周辺の歩道は多くの観光客と登山者が利用しているが、それがちゃんと管理されていないことに驚くが、日本の山岳地帯ではそれが当たり前なのだ。管理者不明の登山道が何となく誰かが補修してきた。誰かが事実上の管理はしているが、タテマエとしては管理者不明にしておくのだ。
責任の所在のあいまいな〇〇協議会を作り、そこが歩道を補修していれば、〇〇協議会が歩道の管理者である。上高地周辺の歩道はこの方式で管理しているらしい。法的な管理義務がなくても、事実上、保守、点検、占有をしていれば、工作物責任でいう占有者であり、責任主体になる。〇〇協議会は法的には権利能力なき社団か、民法上の組合として扱われる。占有者が注意義務を尽くした場合には、土地の所有者が工作物責任を負う。上高地付近はほとんど国有地だ。
現状では、国や自治体の「努力」に関係なく、上高地周辺の歩道の営造物責任や工作物責任の発生を免れることはできない。もし、営造物責任や工作物責任を免れようとすれば、上高地から観光客を排除して、明治時代の上高地に戻すほかないだろう。
以前、ヨーロッパアルプスのマッターホルンのノーマルルートで岩が崩壊してルートが危険になったことがある。数時間後にはルートの管理者がヘリコプターでルートを視察し、ルートの閉鎖を決定してインターネットで世界中にその情報を発信した。マッターホルンは世界中から登山者が来るからだ。そして、すぐにルートの管理者が対応方法を検討し、地元山岳ガイドにルートの修復を依頼した。
ルートに関する情報の発信とルートの修復は数時間単位の行動だ。
マッターホルンのノーマルルートの管理者は明確だが、かりにそこで事故が起きても管理者が法的責任を負うことは、まず、考えられない。登山は危険性を承認したうえで行うことが前提だからだ。
スイスは全土に渡ってヘリによる山岳救助体制が整備されている。そこには、日本のような登山者に対する「自己責任論」はない。
このような徹底した合理的な管理方法はいかにもスイスという感じがする。この点はドイツと同じだ。
他方、日本では、「歩道を誰が管理するのか」すら定まっていない状態だ。歩道の修復に何か月も、何年もかかることがある。あるいは、修復されずに放置されることもある。ものごとをあいまいにし、そのうち誰かが何となく修復したり、しなかったりする。
日本では登山道で事故が起きた場合に管理者がどこまで責任を負うかはよくわからない。日本には、危険性を承認したうえで行う行動の考え方が根づいていないからだ。裁判所の判断も混乱している(野球場でのファウルボール事故の裁判例を見よ)。そのため、日本では、危険性を伴うアウトドア活動がしにくい。
ものごとをいまいにして、うやむやのうちに物事を処理し、責任回避をはかる点は、日本の政治状況と同じだ。
2020.7.7
自然災害とリスク回避行動
最近は、避難勧告や避難指示が広範囲で出ることが多い。
〇〇市全域や〇〇区全域に避難指示が出ても、何十万人も避難できる場所はない。何十万人も一斉に避難行動を始めれば道路が大渋滞するだろう。避難先がない。
九州では130万人に避難指示が出ているが、130万人が本当に避難しようとしたら、大変なことになる。
結局、避難指示が出ても、全員が避難することはできないし、それを想定していない。避難指示はタテマエなのだ。
特別警報でも、その対象区域全員が被災するわけではないので、全員が避難する必要はないし、何十万人も避難する場所がない。
垂直避難は、それができる人が限られる。
これは、富士山噴火や原発被害と対比すると、違いがよくわかる。福島原発事故では、東京に死の灰が降りかかる可能性があった。その場合には、東京都民全員が避難しなければならない。死の灰は地域住民全員が被災するので民族大移動が必要だが、大雨の場合には、地域住民全員が被災するわけではない。
避難指示区域の人全員が避難できないし、その必要もない。
避難指示を出すのは警告を発する点に意味がある。
危険な場所に住んでいる人が避難することになる。リスクの状況は世帯ごとに異なる。避難指示は、「危険な場所にいる人は避難しろ」という意味である。全員が避難する必要はない。そのことを誰もがわかっている。避難指示を出す自治体も、全員が避難することは想定していない。そうだとすれば、避難指示の言葉が間違っているのではないか。
もし、一戸ごとに避難指示が出れば、それは本当に避難しなければならないだろう。
〇〇市全域や〇〇区全域に出る避難指示は、注意喚起の意味しかない。
ひとりひとりが考えて行動するほかないが、誰でもそれまで考えたこともないことはできない。小さいころからのリスク学習でそれを身につけるほかないが、日本ではリスクが嫌われ、日本の学校でリスクを教えることをしない。「危ないことをしてはいけません」ではダメだ。
誰でも危ないことをしてリスクを学ぶ。子供のそばにリスクをコントロールできる大人がついていればよい。
小さいころから、リスクとリスク回避について学んでなければ、大人になってそれをしろと言われても難しい。
日本の学校で、もっとリスクについて教えるべきだ。
災害が起きる度に、「ハザードマップが生かされなかった。行政はもっと住民に周知させるべきだ」と言われる。
しかし、リスクは教えてもらうものではなく、自分で考えるべきものだ。そのためには学校での教育が必要だ。小さいころからリスクについて学んでいれば、自然に常にリスクを考えるようになる。あらゆるものにリスクがあるので、それを考えなければ生きていけない。
事故や自然災害だけでなく、社会社会がもたらすリスク、政治のリスクなども中学校や高校で教えるべきだ。高校生は、過労死のリスクや消費社会のリスク、信用制度のリスク、クレジットのリスクなどを学ぶ必要がある。
コロナ感染も、社会がもたらすリスクのひとつだ。社会があるからコロナに感染する。社会がなければコロナ問題は生じない。無人島に1人で住んでいればコロナ感染はない。
社会の在り方が感コロナ染の程度を左右する。ニュージーランドには夜のネオン街がないらしい。東京の夜の街感染はニュージーランドでは起きないだろう。
スウェーデンでは、国民が賢明なリスク回避行動ができる前提で、国民の行動制限をしなかった。しかし、現実には、国民の賢明なリスク回避行動ができず、感染者が増えた。スウェーデン国民は、国が想定したほど賢明ではなかったようだ。
中国では、国民の賢明なリスク回避行動を期待できないと考えて、徹底した行動規制をし、成功した。この方法は中国人向きだった。
トランプの方法・政策はアメリカ人向きではなかった。
日本は、そのような検討をすることなく、得か損かの打算で政策を実施した。そこには、philosophyがない。いや、正確に言えば、ものごとを理念ではなく打算で決めるというphilosophyがあると言うべきか。
たまたま、日本の安全・安心文化がコロナに対する不安をもたらし、それが奏功したようだ。山中教授は、「ファクターX」について述べているが、「ファクターX」は自然科学的な要素ではなく、日本の「安全・安心文化」や「不安文化」ではなかろうか。
2020.6.30
上高地周辺の歩道の破損
長野県での群発地震のために、上高地周辺の歩道に破損が生じている。しかし、誰がそれを修復するかをめぐって関係者の間で混乱が生じているらしい。
上高地周辺の歩道の管理者があいまいなことがその理由らしい。
上高地周辺の歩道は多くの観光客と登山者が利用しているが、それがちゃんと管理されていないことに驚くが、日本の山岳地帯ではそれが当たり前なのだ。管理者不明の登山道が何となく誰かが補修してきた。誰かが事実上の管理はしているが、タテマエとしては管理者不明にしておくのだ。
責任の所在のあいまいな〇〇協議会を作り、そこが歩道を補修していれば、〇〇協議会が歩道の管理者である。上高地周辺の歩道はこの方式で管理しているらしい。法的な管理義務がなくても、事実上、保守、点検、占有をしていれば、工作物責任でいう占有者であり、責任主体になる。〇〇協議会は法的には権利能力なき社団か、民法上の組合として扱われる。占有者が注意義務を尽くした場合には、土地の所有者が工作物責任を負う。上高地付近はほとんど国有地だ。
現状では、国や自治体の「努力」に関係なく、上高地周辺の歩道の営造物責任や工作物責任の発生を免れることはできない。もし、営造物責任や工作物責任を免れようとすれば、上高地から観光客を排除して、明治時代の上高地に戻すほかないだろう。
以前、ヨーロッパアルプスのマッターホルンのノーマルルートで岩が崩壊してルートが危険になったことがある。数時間後にはルートの管理者がヘリコプターでルートを視察し、ルートの閉鎖を決定してインターネットで世界中にその情報を発信した。マッターホルンは世界中から登山者が来るからだ。そして、すぐにルートの管理者が対応方法を検討し、地元山岳ガイドにルートの修復を依頼した。
ルートに関する情報の発信とルートの修復は数時間単位の行動だ。
マッターホルンのノーマルルートの管理者は明確だが、かりにそこで事故が起きても管理者が法的責任を負うことは、まず、考えられない。登山は危険性を承認したうえで行うことが前提だからだ。
スイスは全土に渡ってヘリによる山岳救助体制が整備されている。そこには、日本のような登山者に対する「自己責任論」はない。
このような徹底した合理的な管理方法はいかにもスイスという感じがする。この点はドイツと同じだ。
他方、日本では、「歩道を誰が管理するのか」すら定まっていない状態だ。歩道の修復に何か月も、何年もかかることがある。あるいは、修復されずに放置されることもある。ものごとをあいまいにし、そのうち誰かが何となく修復したり、しなかったりする。
日本では登山道で事故が起きた場合に管理者がどこまで責任を負うかはよくわからない。日本には、危険性を承認したうえで行う行動の考え方が根づいていないからだ。裁判所の判断も混乱している(野球場でのファウルボール事故の裁判例を見よ)。そのため、日本では、危険性を伴うアウトドア活動がしにくい。
ものごとをいまいにして、うやむやのうちに物事を処理し、責任回避をはかる点は、日本の政治状況と同じだ。
2020.6.2
閉鎖した海水浴場で泳ぐことができるか
今年は、コロナのために多くの海水浴場が閉鎖する。
閉鎖の理由はさまざまだが、ライフセーバーを雇用できないので、事故の救助ができないという理由も「あげられている。これは、富士山の登山道の閉鎖の理由と同じだ。
閉鎖の法的意味はさまざまだ。
海の家や脱衣場などの施設を閉鎖するだけであれば、海水浴場で泳ぐことは自由だ。これは公園のトイレが使用禁止になっても、公園を利用できるのと同じだ。
しかし、海岸の所有者が海岸を立ち入り禁止にすれば、海岸への立ち入りは軽犯罪法違反になる。
海岸の所有者は、通常は国だ。都道府県が土地所有者のこともある。
多くの海水浴場の管理者は市町村や民間団体であり、これらの者は当然には海岸への立ち入りを禁止する権限はない。
国や県が立ち入り禁止にすれば海岸に立ち入れない。この場合は、海岸の散歩やジョギングもできない。
しかし、コロナを理由に海岸を立ち入り禁止にすることは、権利の濫用だ。海岸を立ち入り禁止にできる場合は、海岸の崩落、津波の危険、海岸に有毒物質がある場合、海岸の工事の場合などに限られるだろう。これは公有地である山への立ち入り禁止と同じだ。
その場合でも、海水浴場のある海岸から外れた場所から海に入ることは禁止できない。海は国が管理するが、海は誰でも自由に利用できる。海と海岸は管理が別だ。遊泳禁止は、多くの場合、法的な効力がない。
海水浴場のある海岸が立ち入り禁止になれば、それ以外の海岸で泳ぐ者が出てきて、事故が起きやすいのではないか。日本中の海岸への立ち入りを禁止するのは無理だ。
結局、法的には、通常は海で泳ぐことの禁止はできない。サーフィンもできるということだ。
海水浴場が閉鎖されても、海で泳ぐことは可能だ。
また、海水浴場のある海岸を立ち入り禁止にすることはしないのではないか。
しかし、海水浴場を「閉鎖」すれば、海水浴をする人はほとんどいなくなるだろう。登山道と山小屋を「閉鎖」すれば、登山をする人はほとんどいなくなるのと同じだ。
以上の考え方は、山や川でも同じであり、登山や釣りは可能である。ただし、漁業権の設定されている川での釣りは、利用料が必要である。
登山道と山小屋を「閉鎖」されても登山は可能である。
2020.5.25
今後の登山の行方・・・・コロナが日本の登山を変える
コロナ対策のために閉鎖している山小屋が多い。
キャンプ場も閉鎖されているようだ。
登山道も閉鎖されている山がある。
登山の自粛が言われている。
都道府県境を越える旅行はダメだと言われているようだ。
登山に対する世間おバッシングがあるのかもしれない。
しかし、登山はコロナ感染リスクが低く、登山をすることに問題はない。登山よりも、電車内、事務所内、繁華街の方がよほど恐い。
山小屋を利用しなければ、登山はコロナ感染リスクの低いレジャーの代表格だ。
登山道の閉鎖はナンセンスだ。
旅行の危険性を、都道府県境を越えるかどうかで判断するのは、バカげている。電車、バス、ホテルなどを利用すれば、都道府県境を越えなくてもリスクがある。マイカーであれば、都道府県境を越えても感染リスクはない。
今まで登山の自粛を呼びかけてきた人たちは、今後は、沈黙するほかない。
登山者は大いに登山をすればよい。
コロナを理由に登山を禁止できない。登山はコロナ感染リスクが低い行為だからだ。
自然公園の山小屋とキャンプ場が閉鎖されれば、どこでも緊急行為としてキャンプできることになる。キャンプができなければ、「死ね」ということになるからだ。登山を禁止できないことは、キャンプを禁止できないことを意味する。欧米の営造物自然公園では公園の閉鎖が可能だが、日本の自然公園は営造物自然公園ではないので、入園禁止はできない。日本の自然公園は人々の生活圏にあり、観光施設や生活道路があるからだ。日本では、山小屋が閉鎖されれば、自然公園への入山禁止というわけにはいかない。
登山者は、コロナ感染リスクを避け、賢明に登山をすればよい。
管理者は登山の混雑を回避する工夫をする必要がある。尾瀬や富士山では登山者数の制限が必要だ。
山小屋は密集を避ける工夫が必要だ。
一般のホテルや旅館と同じようにすればよい。山小屋でも密集しない方式を採用すれば、営業してもかまわないのではないか。山小屋を予約定員制にし、定員を少なくするなど。その分料金が上がるが、仕方がない。
従来の日本の山小屋が、「安かろう、悪かろう」方式であり、快適さと無縁の山小屋が多かった。従来の日本の混雑する山小屋が異常だったのだ。欧米の快適な山小屋を経験すれば、日本の山小屋に泊まる気がしない。
従来の日本の山小屋は大部屋の密集方式であり、コロナの感染リスクが非常に高い。恐くて利用できない。従来の山小屋の構造を変える必要がある。今後、大部屋スタイルの山小屋は存続できないのではないか。発想の転換が必要だ。
日本の山小屋の形態が変われば、日本での登山形態が大きく変わる。
コロナが日本の登山を変える。
日本の大量登山時代は終わった。
北アルプスや富士山などの大量の登山者の行列登山は、山小屋が大量の登山者を収容することが前提だった。
しかし、今後は、それは無理である。大量の登山者の行列登山は環境破壊につながっていた。今後の山小屋は、個室か、せいぜい少人数の部屋方式にするほかないのではないか(これは旅館やホテルと同じである)。当然、山小屋の収容人員が減るので、登山者数の制限になり、自然環境の保護が可能だ。山小屋はすべて予約制である。
欧米の山小屋はこの方式が多い。避難小屋は宿泊小屋とは別にあるが、避難小屋は緊急時以外は使用できない(違反すれば制裁が課される)。欧米では、避難小屋は宿泊小屋ではない。避難小屋を宿泊小屋にするのは日本特有の現象だ。
その結果、先進国では、日本の北アルプスや富士山、尾瀬のような「行列登山」をしている国はない。
欧米では山小屋の定員が山の混雑を防止している。あるいは、人気のある山では国が入山者を制限している。
「山小屋を利用しなければ登山はできない」という意見があるかもしれない。
しかし、日本の山の多くは日帰り登山が可能である。私は40年間に延べ千数百日の登山をしたが、山小屋に泊まったのは10日くらいしかない。たいてい、日帰り登山か、テント泊である。
北アルプスなどには宿泊しなければ登れない山があるが、当分の間はキャンプ登山が中心になるだろう。テント内は密閉空間だが、不特定多数人の密集はない。山小屋がコロナ感染リスクの低い形態になれば、利用可能である。
山小屋が閉鎖していても自然公園の指定キャンプ場を維持できるスタイルが必要だろう。
2020.5.18
富士山の登山道の閉鎖
山梨県と静岡県は、今年は、富士山の「登山道の閉鎖」を決定した。
1、県は登山道の管理者か?
登山道を閉鎖できるのは、登山道の管理者である。山梨県と静岡県が登山道を閉鎖することは登山道の管理であることを認めることになる。
富士山には私有地があるが、県が私有地の所有者から登山道の敷地部分の管理権を譲り受けなければ、登山道閉鎖はできない。そのような権限を県が得たのだろうか?
登山道の管理者には法的な管理責任が生じる。これは山梨県と静岡県が営造物責任や工作物責任を負うということである。
県が登山道の管理者であれば、県が管理規則を制定し、登山道の閉鎖の要件を明確にするべきである。登山道の閉鎖措置に対し、不服のある利用者は不服申立ができる手続きが必要である。県が管理している施設はすべてそのようにして管理している。
2、登山道閉鎖の理由
新型コロナに感染する恐れがあるという理由で登山道を閉鎖するのは、過剰な制限である。感染リスクを防止するだけであれば、山小屋を閉鎖するだけで足りる。登山道が混雑するのであれば、入山者数の制限をすればよい。コロナ対策の閉鎖は、「自粛」の意味になる。
登山道閉鎖の理由は、山小屋を閉鎖するのでパトロール員を確保できないという理由のようである。しかし、先進国ではそのような理由から登山道を閉鎖することは考えられない。山小屋の閉鎖、パトロール員の確保、登山道の閉鎖は別の問題だ。
先進国では、登山道の閉鎖は、崖崩れ、火山噴火など登山道の通行ができない場合が多い。ハイカー向けのトレイルは大雪などの場合にも閉鎖される。
また、環境保護のために立ち入り禁止にすることは先進国では多いが、日本では環境保護のための登山の制限は少ない。富士山では環境保護のための入山制限はなされていない。
富士山では、山小屋を閉鎖すればトイレを使えないので、登山道を閉鎖するという理由もあげられている。これは環境保護政策のように見えるが、トイレがあってもなくても登山者が多すぎれば、環境を破壊する。富士山の環境破壊の最大の原因は登山者の多さである。トイレの有無に関係なく入山規制は櫃言うであり、登山道を閉鎖するかどうかの問題ではない。
世界中にトイレのないトレイルや観光施設は無数にあり、それらをすべて閉鎖したら、観光やアウトドア活動が成り立たない。
先進国では、トイレがないという理由で登山道を閉鎖することはない。多くの場合、登山者数を制限すれば、環境汚染を防ぐことができる。国によっては携帯トイレの携行を義務づける場合がある。
先進国では、登山道の閉鎖ではなく、別の方法で目的を達成する。しかし、発展途上国では、さしたる理由がなくても、管理が面倒だという理由でも簡単に国民の利用を禁止する。そこには憲法上の自由の尊重という考え方がない。そこには、「お上の物を国民に使わせるかどうかは、お上の自由だ」という発想がある。
富士山の登山道の閉鎖は、「登山者に事故を起こされては困る」という「管理の都合」がその理由だろう。
しかし、登山道を閉鎖しても、5合目付近の観光を禁止できない。
憲法上の自由に基づき、登山自体は禁止できないので、登山者は登山道以外のところを通って登山することができ、かえって事故が起きやすいのではないか。
山小屋が閉鎖されると、5合目から日帰り登山者が無理な登山をする可能性があり、一定の救助体制が必要である。
「登山者に事故を起こされては困る」と考えて「登山をすべて禁止しろ」と考える人がいるが、海水浴や釣り、カヌー、ヨット、サーフィン、クライミング、観光などすべてのアウトドア活動を禁止しなければバランスを欠く。
3、登山道の閉鎖に法的拘束力があるのか?
閉鎖が行政指導であれば、閉鎖に法的拘束力はない。
登山道の閉鎖に法的拘束力があるとすれば、パトロール員を確保できないという程度の理由で登山を禁止することは、憲法上の自由の過剰な制限である。
その場合でも、登山道の通行禁止であって、登山道以外の場所を歩くことは禁止できない。例えば、富士山の山麓を歩くことの禁止、5合目付近を歩くことの禁止は過剰な禁止であり、できない。世界では、環境保護のための立入禁止はあるが、登山道のパトロール員を確保できないという理由から山域全体を立ち入り禁止にする国はない。
登山道の閉鎖が行政指導だとすれば、法的拘束力がないので、過剰な「制限」に当たらないことになる。
ただし、日本では行政指導に法的拘束力があると勘違いする人が多いので、それに惑わされないことが必要である。
恐らく、県は、「県が登山道を管理しており、登山道の閉鎖は有効だ。しかし、県は登山道の営造物責任や工作物責任を負うような管理者ではない。県は、登山道の管理者だが、管理責任を負わない」と言うかもしれない。これは、法の無視である。
現実には、山小屋が営業していなければ、富士山に登る人はそれほどいないので、登山道の閉鎖は必要ない。
5合目までの有料道路を閉鎖すれば、登山道を閉鎖しなくても、登山者の99パーセントは減るだろう。5合目までの有料道路を閉鎖しない限り、登山道を閉鎖しても、大量の観光客が富士山に押し寄せて事故が起きるだろう。
富士山の夏期以外の登山は以前から「禁止」されているが、これは法的拘束力のない行政指導である。したがって、従来、夏期以外の登山をすることは違法ではなかった。今後、夏期、および、夏期以外の富士山登山が違法になるわけではない。
もともと、富士山の登山道は、誰でも登れるようになっており、初心者の登山者や観光客が多すぎて事故が起きやすい。パトロール員を確保できなくなれば、事故が起きても対処できないので、登山道を閉鎖することになった。
従来、登山道の「管理者である県」が、管理を山小屋に丸投げしていたために、山小屋が閉鎖すれば登山道の管理ができなくなり、登山道を閉鎖することにしたのだ。
山小屋の閉鎖が登山道の閉鎖につながるのは、従来の管理体制が山小屋まかせだったからだ。
多くの先進国では、山小屋が休止するために登山道を閉鎖する国はない。山小屋の営業と登山道の閉鎖は直接の関係はない。
多くの先進国では、パトロール員を確保できないという理由からトレイルを閉鎖することはない。
カナダでは、「事故が起きても救助できない」ことを前提に、1人1万円の入園料を強制徴収する国立公園がある。入園料は環境対策費用である。
多くの先進国のやり方にならえば、富士山は入山者数を規制して適正に管理すべきである。パトロール員を確保できないという理由では、トレイルを閉鎖できない。富士山で入山者数を制限すれば、遭難者も大幅に減る。アメリカの「富士山」といわれるホイットニー山は、1日の登山者100人くらいが許可の目安だ。
登山道の管理は「管理者である県」が責任をもって管理すべきであって、山小屋に丸投げすべきではない。
そのように管理すれば、山小屋が閉鎖しても、登山道の管理は可能である。
富士山の登山道の管理でもっとも重要な課題は、入山者数の制限である。
新型コロナ対策における感染法との齟齬の放置、「自粛」の法的なあいまいさ、検察官の定年延長問題における法治主義の無視と、富士山の登山道の法的な管理のあいまいさは関連がある。
また、富士山の登山道閉鎖には不公平という問題がある。公平という法の理念が日本で軽視されることは、検察官の定年延長、森友問題、加計学園、桜を見る会の問題、コロナ自粛の不公平さと、登山道の閉鎖の問題で共通する。社会の中で不公平な扱いが当たり前のように通用していることが、富士山の登山道の閉鎖に表れている。なぜ、富士山だけが、登山道が閉鎖されるのか。山梨県や静岡県の他の観光地は閉鎖していないではないか。尾瀬のトレイルは閉鎖していないではないか。
多くの店がコロナで閉店したのに営業を続けるパチンコ店があった。それは「自粛要請」というあいまいな行政指導を用いたことに原因がある。営業したパチンコ店を非難することでは問題は解決しない。もともと「自粛要請」は公平性を欠く政策なのだ。これは、富士山や屋久島の協力金と同じである。不公平であることを可能とする政策を採用して、不公平な店を非難する役所・・・・バカげた政策だ。行政にマトモに店を閉鎖させる気があれば、営業禁止→補償という政策になるはずだ。それが世界の常識だ。
これらは、日本の社会の法の支配の欠如を示す。
法律はイエスかノーの世界だが、日本ではそれが嫌われる。日本ではあいまいであることが好まれる。
形だけ法律のつじつま合わせをしてすませようという安易さがある。日本では、法というものが理解されていない。
2020.5.6
世論の登山者叩きは、今後どうなるか
緊急事態宣言が延長されたが、地域によって段階的に外出規制や営業自粛が緩和される。
今後は、全国一律の外出自粛ではなく、地域で自粛の仕方が異なる。
では、登山やアウトドア活動はどすべきだろうか。
緊急事態宣言が出て以降、登山者に対する世論の非難が強かった。登山団体や一部の登山家は、全国の登山者に、画一的に、感染リスクの有無に関係なく、登山の自粛を呼びかけていた。
今後は、このような登山者に対する非難が変わるだろうか。
今後、登山団体や登山家は、登山者にどのような呼びかけをするだろうか。
登山団体は、「登山は遭難する恐れがあり、遭難者にコロナの疑いがあれば、関係者に迷惑をかけるので登山を自粛するように」とは言わないだろう。それは登山の否定であり、登山団体が登山を否定するのは自殺行為だ。
登山団体は、政府の言いなりになるのではなく、登山者のために何が必要かを考える必要がある。どのような登山行動に感染リスクがあるのかを登山者に示し、自粛すべき登山とそうではない登山を示すべきだ。
連休中は登山を自粛し、連休が終われば登山解禁ということではない。今後も、満員の山小屋を利用することは、自殺行為だ。山小屋は、空いていれば感染リスクは低い。たとえ、今後、緊急事態宣言が解除されても、富士山登山の混雑、山小屋の混雑、登山道の渋滞は感染リスクが高い。
もともと登山自体はコロナの感染リスクが低いので、感染のリスクのない登山は自粛する必要がなかった。今後も同じである。
登山者が賢明なリスク回避行動ができれば、登山の自粛は必要ない。しかし、登山者が賢明なリスク回避行動ができないことを前提に、これまで全国一律の登山の自粛が呼びかけられた。
今後は、国が全国一律の外出自粛を呼びかけていないので、全国一律の登山の自粛を呼びかけることができない。そのため、今後は、登山者が賢明なリスク回避行動をすべきだという当たり前のことになる。
以前は、サーフィンをする人や釣りをする人が世論から叩かれたが、今後の世論の風向きは微妙だ。アウトドア活動をする人を叩いた世論は、今後、どう対応するのだろうか。マスコミは世論の風向き次第だ。国策が変わった今後も、マスコミは、サーフィンや釣りはケシカランと言うだろうか。パチンコとサーフィン、釣りでは感染リスクがまったく違う。
2020.5.4
水上バイクは違法か・・・・・情緒的な日本の文化
テレビで、川で水上バイクを乗り回す「無法者」をとりあげ、非難していた。
テレビのワイドショーでは、
@外出自粛中の水上バイクはケシカラン。
A進入禁止の道路に車が進入していた。
B水上バイク利用者がタバコの吸い殻のポイ捨てをしていた。
C水上バイクの騒音が迷惑である。
という点を問題にしていた。
@は、川での水上バイク使用はコロナの感染リスクはないのではないか。満員電車での通勤者やスーパーや市役所での混雑を非難せずに、水上バイクを非難しても説得力がない。
Aは、水上バイクの問題ではない。進入禁止ではない道路を使用すれば問題ないということか。
Bは、タバコの吸い殻のポイ捨ての問題。水上バイイクとは関係がない。タバコの吸い殻のポイ捨てをするから歩行者の歩道通行を禁止すべきか。
Cは、騒音規制は別の問題である。近隣家屋で騒音測定をしなければ、違法(受忍限度超過)かどうかわからない。たぶん、騒音は違法レベルではないだろう。
日本で水上バイクが販売されており、水上バイクは川、海、湖で使用するほかない。今の時期は、水上バイクをどこで使用しても世論が非難するのだろう。道路を走行するバイクは何故非難されないのか。
法律は、川や海での水上バイクを認めてる。それができないとすれば、水上バイクの販売を禁止するほかないのではないか。
テレビのワイドショーでは、外出自粛中の水上バイクはケシカランというのがもっとも言いたかったのだろう。
それはかなり感情的なもの・・・・ある種の妬みだと思われる。多くの者が我慢している時に、レジャーを楽しむのはケシカラン。情緒的な反発=違法のイメージ化。違法はイメージなのか?
誰もがルールさえ守れば、適当な息抜きやストレス解消をした方がよい。今の時期でも、感染リスクがなければ、さまざまなことを楽しんでよい。
「ルールを守る」ことが大切なのだが、ルールをあいまいにしたまま、すべてダメという場面が日本では多い。ダメかどうかは、世論や情緒次第だ。外出自粛は、ルールのあいまいさの典型である。すなわち、外出自粛は、何がよくて何が悪いのかあいまいなのだ。あいまいなルールは、ルールとは言えない。マスコミの論調は、外出はすべてダメということのようだ。
水上バイクを非難するテレビ局のスタッフも外出している。それは外出自粛に反する。目くそ鼻くそを笑う。彼らは、取材は仕事なのだと言うだろうが、テレビのワイドショーの取材は不用不急の外出ではないか。テレビのワイドショーは社会にとって不可欠のものとは思えない。
2020.5.1
外出自粛中の登山・・・コロナ感染リスクなし
連休中に家の近くにある山に登った。
世の中は画一的な外出自粛ムード一辺倒なので、感染のリスクがない登山をした。
登山口まではマイカーで行った。出会った登山者は4人だった。マイカーで家を出てから帰るまでの間に、出会った人間はこの4人とコンビニの店員1名だけだ。最大の濃厚接触者はコンビニ店員だ。コンビニを出ると、手をアルコールで消毒する。スーパーで買い物をするよりもよほどリスクは低い。もちろん、仕事をするよりも感染リスクが低い。
この山は、例年の5月連休中でも、登山者は多くないのだろう。
登山は、外出自粛要請には反するが、感染リスクはない。登山は、公園の利用と同じく、感染リスクのない形態で実施すべきだ。海岸や河川敷も同じだ。一切禁止は長期戦に向かない。
登山自粛の理由として、遭難した場合に遭難者にコロナ感染の疑いがあれば、救助活動従事者に迷惑をかける点があげられる。しかし、それを言えば、交通事故や労働災害、急病人のすべてに当てはまる。外傷の治療でも咳をすれば、コロナの疑いを受ける。インフルエンザにかかる可能性のある人は、他人への感染リスクがあるから登山ができないということではない。
欧米では閉鎖した国立公園があるが、それは登山者よりも観光客を想定した閉鎖だろう。日本の自然公園は地域制を採用するので、公園閉鎖は不可能だ。地域制は公園内に私有地を含むということ。
なお、この登山は登山道の調査、研究のためでもあり、それをもとに学会誌に論文を書いている。これは仕事の一部である。
山頂のカタクリの花
日本人は、全国一律の扱いを好むが、地域によって感染のリスクが異なる。各人が自分で考えてリスク回避行動をとることが大切だ。
一律の登山自粛ではなく、工夫が必要だ。
たとえば、上高地は観光客が多いので、上高地への車の乗り入れを禁止し、旅館、山小屋を閉鎖すれば、観光客の100パーセント、登山者の95パーセントが減るだろう。歩いて上高地に入る者は少ない。その場合には、登山の自粛は不要だ。
富士山も5合目までの道路を閉鎖するだけで、観光客の100パーセント、登山者の95パーセントが減るだろう。
尾瀬は、バスの運行中止、マイカー規制をすれば、90パーセントは登山者が減るだろう。
立山もアルペンルートを閉鎖すれば、90パーセント以上の登山者、観光客が減る。歩いて立山に入る者は少ない。
これらの措置をすれば、登山の自粛は不要だ。
登山者が多い登山道では、入山する登山者数の制限をすればよい。これは法的拘束力のない自粛ではない。登山道の管理権者が行う規制は法的拘束力がある。
特定の登山道では4人以上の登山を禁止する方法もある。これにより登山道への密集を防止できる。
ただし、日本では登山道の管理者のあいまいな登山道が多い。
日本のコロナ対策は、ダラダラとした長期戦術を採用したので、夏ころまで行動規制が必要だろう。
私は、個人的には、台湾、韓国、中国、ニュージーランド、アイスランド、ベトナムなどのように短期間の徹底したコロナ封じ込めをした方が、結果的に経済へのダメージが少なかったと思っている。これは後の祭りなので、今さらどうしようもないが。
日本の長期戦の政策では、先が見えない。
その間、国民に、外出するなと言うのは無理だ。適宜、外出しながら、賢明に感染リスクを回避することが必要だ。
飲食店などを、1年間、閉店しろというのは無理だ。地域によって開店を認め、入店者数の制限をするなどの方法が必要だ。現在は、そのような賢明な措置ができない前提で、一律自粛がなされているが、長期戦の場合には、それでは経済が持たない。
公園の利用禁止ではなく、人数制限をすればよい。
公園の遊具は、触れば感染リスクがあるので、利用禁止をすべきだろう。それとも毎回遊具を消毒したうえで利用するか。
河川敷、海岸、キャンプ場なども、一律の利用禁止ではなく、人数制限をすればよい。1年間の利用禁止は無理だ。
一切の利用禁止は、管理の手間を省く乱暴な方法だ。それは国民の立場に立った規制ではない。
要は、知恵を使うことが必要だ。
2020.4.29
天然記念物の刈り取り
福岡県八女市にある国指定天然記念物「黒木の大藤」が花の盛りを迎えている28日、新型コロナウイルス感染防止のため刈り取られた。八女市では4月中旬から5月初旬にかけ「八女黒木大藤まつり」が催され、例年約20万人が訪れる。まつりの実行委員会は今月7日、新型コロナの感染拡大を受けて今年の開催中止を決定していた。しかし、その後も県外からの観光客らが訪れ、先週土日の人出は約2000人に上ったため協議の末、泣く泣く刈り取ることを決めた。
天然記念物の原状変更には、文化財保護法で文化庁長官の許可が必要である。これに違反すれば罰則がある。
当然、文化庁長官の許可を得ているんでしょうね? 天然記念物の趣旨からすれば、文化庁長官は、人出が多いという理由では原状変更を許可できないだろう。人出を減らす工夫は別の手段(立ち入り禁止にし、立ち入れば軽犯罪補違反で検挙するなど)によるべきだ。花を刈り取って人出を防ぐ方法は非常に安易な方法だ。管理する側には便利な方法なのだろうが。
というのは、役所が時々、法を無視して天然記念物の現状変更をすることがあるからだ。あとであわてて文化庁長官の許可の申請をしても、許可が簡単に認められる。
しかし、民間人がうっかりと天然記念物であることを知らずに、雑木を伐採したりすると、役所が大騒ぎし、罰金を科される。
天然記念物である岩をクライマーが天然記念物であることを知らずに登ったところ、岩の原状変更をしていなくても、世論からの非難がものすごい。
天然記念物の木が道路に倒れていても、それを除去するには、文化庁長官の許可が必要である。登山道を整備する際、邪魔な木を伐採するには、注意がいる。宮島の登山道整備でこれが問題になったことがある。宮島の木は天然記念物であり、倒木も同じである。
法律の規制は、民間人に厳しく、役所に甘い。法律は役所のためにあると思っているに違いない。
2020年3月31日
YAMA HACKの記事
「ハシゴや鎖は誰がかけたの?知っているようで知らない【登山道整備】の謎」
「自由に山を歩いてもいい?悪い?【登山道】を【法律】と【マナー】から学んでみよう」
登山のウェブマガジン・YMMA HACKの記事。僕のコメントが載っている。https://yamahack.com/4085
混雑する山小屋・登山道、ツアーバスなどを避ければ、山で新型コロナに感染するリスクはほとんどない。
ストレスを解消することも必要だ。
自然の中で人間の免疫力が高まる。
登山は、レジャーの中では、工夫すれば金をかけないで行うことができるので、不況の時代にマッチしている。会社が休業すれば人々の時間があまる。人の少ない近郊の山に行くだけであれば、金はそれほどかからない。裏山登山でもよいのだ。
緊急事態宣言が出ても山に行くことは可能だ。家の中に閉じこもってストレスから紛争が増えるよりも、自然の中で」ストレスを解消させた方がよい。欧米の外出禁止令は、発令が遅すぎたので、散歩、ジョギング、自然の中での行動なども禁止した結果、DV事件などの増加を招いた。
2020年3月30日
感染法が障害になっている・・・・指定感染症のしばり
新型コロナウィルスは感染法で指定感染症に指定されている。その指定は1月のことだが、未知のウィルスを指定感染症に指定したことが間違いだった。指定感染症はその実態がある程度把握できた後に指定すべきだ。新型コロナウィルスはインフルエンザのような感染力があるので、感染法では対処できない。
感染法は、指定感染症患者を指定感染病院に入院させること、感染していないことを確認したうえで退院させることをなどを規定している。この規定は、感染症患者の数が少ない段階では適用可能であるが、インフルエンザのように拡散すれば、患者全員を指定感染病院に入院させることはできない。
この規定があるために、国は新型コロナウィルスの検査対象者を絞ることにしたのである。感染者が多ければすべて入院させれば医療崩壊するので、検査対象を限定したのだ。
これは本末転倒の発想だ。
本来、検査をするかどうかは、医学的な必要性に基づいて検討すべきだ。WHOが述べるように徹底した検査が望ましいことは言うまでもない。
検査によって陽性になった場合に、患者の隔離が問題になる。入院施設の能力を超える入院は無理である。発展途上国では整備された病院の地域もあるだろう。この場合には、病院以外の施設に隔離するほかない。検査が先で、隔離の問題はその後の問題である。
本来、考え方の流れはこのようになるはずだ。しかし、日本では、指定感染病院のベッド数を考慮して検査対象を限定したのだ。本末転倒というのはこの意味だ。医学的判断よりも、医療政策=政治が優先したのである。
これが検査対象者を限定する日本方式である。この日本方式は法律の規定と管理する側の都合でそうなったのであって、それで感染拡大を防止できるという展望があったわけではない。日本方式の「ポリシー」は後で説明のためにくっつけた理屈である。
他方、ドイツでは50万件以上の検査を実施し、症状の軽い者は自宅に隔離し、インターネットなどを通して医師の指示を受けている。
自治体の担当者の意識として、「検査をして、もし感染していれば、指定感染病院のベッドを確保しなければならない」と考え、「入院治療の必要のある症状の重い者を検査する」傾向をもたらしたのだろう。あるいは、「検査を広く実施すれば自分らの仕事が増える」と考えるのかもしれない。検査件数が増えても職員の数が多ければ個人の仕事が増えない。それはシステムの問題である。
しかし、検査対象者を絞る日本方式でも感染者が増加しているので、このままでは指定感染病院のベッドが足りなくなることは明らかである。
感染法では一般病院のベッドも指定感染病院に代替できるが、それでは新型コロナウィルスが一般患者に感染する恐れがある。
軽症の新型コロナウィルス患者は病院以外の施設に隔離することが必要である。公共施設、保養所、廃業寸前の旅館、ホテルなどをこれに転用できる。今は、観光、研修などを自粛しているので、企業の保養所、研修施設などが空いているだろう。廃校になった学校、使われていない寮、作業場、事務所などは、1週間程度の工事で隔離施設に転用できるのではないか。中国が突貫工事で病院を作ったくらいなので、簡易隔離施設はすぐに作れるはずだ。
50歳以下の症状が改善した入院者は、自宅隔離に切り替えればよい。
感染者のトリアージ(優先順位をつけること)が重要である。すべての感染者の入院は無理である。
自宅隔離では家族に感染しやすいが、もともと、感染していることがわかった時点で既に家族に感染している可能性が高いので、家族全員の自宅隔離が必要だろう。その場合には食事などの宅配サービスをするシステムが必要になる。食事以外はインターネットでたいていのものは購入できる。インターネットや電話で病院や保健所と常に連絡をとり、病状が悪化すればすぐに入院させる必要がある。
中国では、「自宅隔離しても感染者が外出するので、感染が広がる」と言われているが、自宅隔離を守るかどうかは、その国の国民の文化レベルによる。中国では自宅隔離は無意味だろうが、日本では、自宅隔離は有効だろう。
このようにな扱いをしようとすると感染法の規定が障害になる。感染法は、感染者を指定感染病院に入院させ、感染していないことを確認したうえで退院させることになっている。現在は、2回の検査で陰性にならなければ退院させていない。現在は未発症の感染者でも長期間入院させており、簡単には退院できない。こんな悠長なことをしていれば医療崩壊するのは当たり前だ。
入院させるのは、重症者や高齢者だけでよいのではないか。
感染者の8割は軽症なので入院させることなく、病院以外の施設に隔離または自宅隔離すればよい。
臨時の隔離施設を感染法上の指定感染病院に指定するという方法もある。これは本来の病院ではないのでおかしいが、できないことはない。戦時野戦病院のようなものだ。所詮、法律は国会で決めればどうにでもなるような代物なのだ。
都道県知事の英断で柔軟な運用をすればよい。感染者を指定感染病院以外の施設に収容すること、軽症の若者を自宅待機させることは、知事の判断で可能だ。国の指示を待っていたのでは間に合わない。緊急事態では多少の法令違反があっても違法性がない扱いが可能だ。
裁判所ですら、必要性があれば、法律の明文を無視することがある。東京地裁が破産事件の管轄に関する破産法の規定を無視したケースや、東京地裁が特定の業者が提起する手形訴訟をすべて受理しない扱いをしたことがある。かつて、総理大臣が意識不明になった場合に総理の代行者の指定を超法規的に行い、それが黙認された(本当は、意識不明状態で代行者の指定ができるだけの判断力がなく代行者の指定は無効だったのだが、当時の日本で誰も異議を唱えなかった)。形式的には違法でも緊急措置として違法性が阻却される。検事長の定年延長に関する法解釈の疑惑に較べれば、感染法の規定の柔軟な運用などどうにでもなる。
あるいは、新型コロナウィルスを指定感染症から外せば、感染症の縛りから解放できる。指定感染症の取消は政令で可能である。この取消の効果は遡及せず、将来に向かって生じるものであれば既存の措置への影響はない。
欧米ではこのようにするだろう。法治国家では法的な扱いを変更する。しかし、日本では、法律は「お上」の権威の象徴であり、政権の体面とメンツのためにそれができない。法律は社会統治のための手段であり、必要があれば改正するのが当たり前だが、日本では法律の改正は情緒的な手続きになる。
さらに、新型コロナウィルスを指定感染症から外すことはせずに、感染法の規定を無視する方法がある。これは、本来、法治国家ではできないことだが、あいまいにものごとを処理する日本では珍しいことではない。これで「お上」は体面や権威を失わないですむ。前記の裁判所の運用や自衛隊の扱いなどがその例だ。憲法9条のもとで軍隊を持てないが、必要性に基づいて自衛隊を保有している。法律はタテマエであり、都合が悪ければ無視することは日本では多い。
この方法であれば、新型ウィルスをインフルエンザと同じく、感染者を指定感染病院に入院させる必要がなく、病院以外の施設や自宅での隔離が可能である。これがもっとも日本的なやり方かもしれない。
今後、なし崩し的に感染法を無視する運用がなされるのではないか。多くの国民は感染法を読んだこともないし、そのような法律の存在すら知らないので、関心を持たない。
今、日本の社会が崩壊するかどうかの瀬戸際だと考えている国民がどれだけいるだろうか。こんな時でも、ライブに行く若者、夜のクラブにいく者、東京で営業を続けるパチンコ店、レストランで宴会や花見をする政治家夫人、会食や宴会をする緊張感のない政治家がいる。
国会では政治家がようやくマスクを着用し始めるというノーテンキさがある。これはまるで2011年の福島原発事故当日に、テレビでお笑い番組を放送していたノーテンキさを彷彿とさせる。あのとき、東京に放射線が降り注ぎ、東京が住めなくなるかどうかの瀬戸際だったのだ。
2020年3月23日
賑わうアウトドア
新型コロナウィルスのために観光、レジャーが大打撃だ。しかし、アウトドア活動はあまり影響を受けない。特に金を使わないアウトドア活動が。
ディズニーランドが感染リスクのあるレジャーの典型だとすれば、冬山登山は感染リスクのないレジャーの典型だ。
新型コロナウィルス対策は長期戦になりそうだ。我慢するだけでは、長期戦に耐えられない。我慢ではなく知恵と工夫が必要だ。
この時期でも賑わうスキー場(岐阜県)。駐車場には1000台くらいの車があり、その多さに驚いた。
スキーゲレンデはウィルス感染の恐れはないが、混雑するゲストハウスは感染のリスクがある。驚いたことに、ゲストハウス内のスキーヤーのほとんどがマスクをしていない。スキーヤーの多くが若者なので、彼らは感染しても軽症ですむと考えているのだろうか。それとも、スキー場は安全だと思い込んでいるのか。スキー場にマスクを持ってくるという発想がないのだろう。とんでもないことだ。
何千人も利用するスキー場では、確率からいえば、1人くらいはウィルス感染者がいるはずだ。
若者ではない私はゲストハウスの混雑に危険を感じてすぐにゲストハウスを出た。こんな場所での長居は自殺行為だ。その後、ゲストハウスに近づくことはなかった。
冬山登山の事故のリスクよりも、混雑するゲストハウスの感染リスクの方が、よほど恐い。
本来、スキー場は営業してもゲストハウスは閉鎖すべきだ。それでスキー場に来ない人はそれでよい。
もちろん、この旅行では、旅館での宿泊はしないし飲食店に入ることもなく、入る店はコンビニくらいだ。移動はマイカーである。
リスク回避は自分で考え自分で判断する必要がある。自分の命は自分で守るということ。感染のリスクを判断し、それを避ける行動が必要だ。それが感染拡大を防ぐことになる。
外出禁止や自粛が問題になるのは、人ゴミの中に出かけるからだ。登山では外出しても感染リスクはない。しかし、山小屋の混雑や渋滞する登山道、ツアーバスなどでは感染リスクが生じる。
都会での外出が感染リスクを高めるのであり、アウトドアでは感染リスクはほとんどない。
アウトドアでのキャンプやバーベキューに感染リスクはほとんどないが、混雑する河川敷でのバーベキューや混雑する花見では感染リスクがある。要するに、感染リスクの有無はやり方次第である。知恵を使えば感染リスクを回避できる。その点は登山のリスク回避と同じである。
学校閉鎖はやり方次第で効果がある。感染リスクのない田舎の学校を閉鎖しても意味がない。東京、愛知、北海道で学校を再開することはリスクを冒すことになる。一律に学校閉鎖したり、一律再開することは、あまりにも能がない。それは無能と呼ばれる。
ひとりひとりのリスク回避行動が必要だ。国民ひとりひとりが自分で考え、判断し、行動できなければ、「お上」に国民の行動を「一律禁止してもらう」ほかない。それがパターナリズムである。全国の学校の一斉休校はその例だ。しかし、リスク回避をすべて「お上」に委ねても限界がある。個々人のひとつひとつのリスク回避行動がなければ、「全部禁止」になってしまう。
自律的なリスク回避行動をとる点では登山のリスク回避行動と同じだ。
新型コロナウィルス問題では、その国の国民のリスク回避の知恵のレベルが試される。
欧米では人々にそれがないことが感染拡大を招いた。
日本では、それほど知恵を使っていないが、日本人の組織的行動になじみやすいことが行動の自粛につながり、感染拡大防止に役立っているのだろ
風雪で大荒れの大日ケ岳(1708m、岐阜県)にスキー場のリフトの終点からスキーで登る。これはコース外滑降ではなく、コース外登山である。登山はすべてスキー場のコース外行動だ。
風速は12〜13mくらいか。コロナウィルスがいるはずもない。山頂付近はまったくのホワイトアウトで迷うリスクがあるので、山頂の少し手前で引き返した。無理をせず、自重した。こんな悪天候でも登山をする物好きが7〜8人いた。
野伏ケ岳(1674m、福井県)で山スキー。
雪の野伏ケ岳は今回が3回目だが、天気がよいせいか今回は登山者が多く、山は30人くらいの登山者で賑わった。そのうち山スキーは5人くらいだ。数千人が訪れるスキー場に較べれば、雪山は人が少ない。しかも、山では常に風が吹いているのでウィルスが吹き飛ばされる。感染者が登山するとは思えないが。
野伏ケ岳では、いつも、67歳で癌で亡くなったK氏を思い出す。
ある年、大阪で山岳ガイドをしているK氏からの年賀状に、「癌の手術を受けた」ことが書いてあった。
翌年、大阪での講演会の後の懇親会で、K氏は、「一時はどうなるかと思ったが、手術がうまくいってよかった」と言っていた。私も癌になったことがあるので、他人ごととは思えなかった。K氏は生ビールのジョッキ5〜6杯をあっという間に飲み干した。
その日、私は大阪市の郊外にあるK氏の家に泊めてもらった。K氏の家には、屋上にテラスがあり、K氏の奥さんが、「ここから星空を眺めるのが好きなんです」と言っていたことが印象に残った。長年、広島で単身赴任をし、山登り三昧の生活で大酒飲みだったK氏だが、家族を大切にしていたことがよくわかった。翌日、K氏に京都を案内をしてもらった。
K氏の年賀状に、「野伏ケ岳で念願の山スキーをしました」と書かれていたことがある。それは、K氏が癌になる前だったのか、後のことだったのか、記憶が定かではない。私はその年賀状の野伏ケ岳の写真に強く惹かれた。
ある年の年賀状の礼状に、K氏が「昨年、妻が癌で亡くなりました」と書いていたので、私はひどく驚いた。健康そうだったK氏の奥さんの方がまさか先に亡くなるとは。年齢はまだ60過ぎくらいだったはずだ。
間もなくして、K氏からの年賀状で癌が再発したことを知った。
65歳で遭難死したN氏の葬儀でK氏に会った時、K氏は袈裟を着ており、ひどく痩せていたので体調について聞くことができなかった。K氏とN氏はほとんど同じ年齢だっただろう。この頃、O氏も67歳で癌で亡くなった。元山岳連盟理事長のKM氏も中国のトレッキング中に心不全で亡くなったのは65歳の退職直後だったような気がする。
その1年後、K氏に年賀状を出したが、K氏から年賀状は来なかった。しばらくして、K氏の長男から、「父は昨年癌で亡くなりました。生前の御厚情に感謝します」という礼状が届いたのだった。
私が初めて野伏ケ岳をスキーで登ったのは、それから間もなくのことである。かつてのK氏の年賀状の野伏ケ岳の写真が強く印象に残っていたからだ。
間もなく65歳になる私は3回目の野伏ケ岳を訪れ、「今、自分が生きている」ことを実感するのだった。
帰りに九頭竜温泉に入った。入浴者は、2、3人しかいない。これはコロナの影響で宿泊者が少ないからだろう。宿泊せず、入浴だけであれば、感染のリスクは低い。湯舟で感染することは、まず、ないと言われている。
サウナは密室だが、100度の乾式サウナで新型コロナウィルスが死ぬのかどうかよくわからない。100度で5分煮沸すれば、新型コロナウィルスを殺菌できるらしいが、サウナ室内の空中のウイルスが数秒程度で人の体表面に付着したとすれば、人の体表面は100度よりもかなり低いはずだ。したがって、100度の乾式サウナが安全とは言い切れないのではないか。そんなことを考えていたら、サウナ室に他人が入ってきたので、念のためにサウナ室から出た。
浴室が混雑していれば、入浴は避けるべきだ。
2020年3月18日
管理優先の日本の社会
新型コロナウィルスの問題で管理優先の日本の社会が浮かび上がる。
・感染者が一人も出ていない県でも一斉休校にしたのは、管理の都合による。休校する自治体とそうではない自治体があれば、休校うすべきかどうか迷う自治体が現れる。このような判断を避けために全国一斉休校にした。これは管理のしやすさを優先させたのである。ぜんこくいちりつの扱いであれば、役所が迷わなくて済むからである。
このような管理のための画一的な扱いは日本では多い。全部同じ扱いであれば、個別的判断をしなくてすむので、管理する側は楽である。しかし、管理される側は不都合が多い。
学校の規則は管理する側の都合で定める。生徒は学校の利用者だという観点はない。
・検査対象を限定したこと。これは検査する医療機関側の都合による。多くの人が検査に訪れると検査機関が混乱する。検査をして陽性者が増えれば医療機関の仕事が増える。それを避けるために症状が軽ければ検査をしないという方法をとった。検査体制を拡大しなかったことは、医療機関側の都合による。
感染防止の拡大防止よりも医療管理体制の維持を優先している。
・国はさまざまなレジャー分野に自粛要請をしたが、パチンコ店には自粛要請をしない。パチンコ店の「自主性を重視する」らしい。これはパチンコ業界が自民党と強いパイプがあるからだろう。
多くの新型コロナウィルス対策が恣意的、思い付き的だが、それらはすべて管理する側の都合を優先させてる。管理の都合を優先させると政策がコロコロ変わりやすい。
・裁判制度でいえば、日本の裁判手続きは、利用者の都合よりも、裁判所の都合を考えて作ってある。地方裁判所では、5分で終わる裁判でも、裁判当事者が出席しなければ、裁判で不利に扱われる。裁判所まで何時間かかるかは関係ない。
役所も同じであり、郵送不可の書類提出のために往復3時間かけて提出することなど、日常茶飯事だ。
以前、郵便局が、「博」の字の点が入っていなかった」という理由から、「郵便局に来て、記入してくれ」という電話がかったことがある。私は、「、」を記入するために郵便局に出向いた。これは笑い話のような本当の話だ。
・登山の関係で言えば、登山者は管理の対象であり、登山が簡単に制限される。ある山で事故が多ければ、簡単に縦走や冬山登山が禁止される。大山、富士山など。岩場では、クライマーが騒がしければ、簡単にクライミングが禁止されることがある。観光地では、観光客からクレームが出れば、クライミングが禁止されやすい。管理者は経済的利益を優先させるからだ。
避難小屋を宿泊小屋にして宿泊料を徴収する。それは管理者の都合次第だ。
・国民は、管理されるだけで自ら主体的に行動しなければ、問題を解決できない。
新型コロナウィルスの感染拡大防止は、国の施策が重要だが、それだけでなく市民の自覚的行動がなければ実現できない。そこには管理ではなく、主体性が必要になる。不必要な行動や集団を避けることは、国による管理だけでは実現できない。
日本人は管理されることに慣れているので、行動やイベントの自粛に向けた組織的行動がなされた。学校閉鎖にしても、国の要請に強制力がないにもかかわらず、おどろくほど多く自治体がこれに応じた。欧米ではこうはいかない。欧米では強制力のある学校閉鎖でなければ、このようにはいかない。日本人の組織的行動が感染拡大防止に役立った。
イタリアでは、市民が管理になじまないことが感染を拡大させたと思われるが、現在、市民の間に感染拡大を防止しようという市民お自覚が強いことがわかる。集団的管理と言うよりも、市民の自覚が感染防止の行動自粛に向けられている。それがなければ暴動が起きてもおかしくない。中国でも同じである。中国では、市民は国家から管理されるだけの存在ではなく、主体的に行動することで感染拡大を抑えた。市民は管理されるだけの存在ではない。管理されるだけでは、困難を解決できない。
日本で今後検査数が増えれば、元気な感染者も増えるだろう。そういう人は入院する必要はなく自宅での隔離になるが、自宅で大人しくするかどうかは自律性に委ねられる。強制だけでは感染拡大は防止できない。
新型コロナウィルスの問題は市民の主体性、自律性が試される問題でもある。
2020年3月13日
ネット・ゲーム依存対策条例
香川県がネット・ゲーム依存対策条例を制定を検討している。
日本人の自律の欠如はここまで落ちたか、情けない、というのが感想。さすが香川県。
ネット・ゲームの利用を1日1時間に制限する内容に「賛成する」意見が多いようだ。
何が問題か。
ネット・ゲームの利用を制限すべきかどうかが問題ではない。
そのような条例を制定することが問題なのだ。国家等(自治体を含む)は個人の行為にどこまで介入できるのかという問題である。
長時間のネット・ゲームはすべきではないが、それは個人的な問題であり、国家等(自治体を含む)の公権力が介入すべきではない。
もし、ネット・ゲームの法的な制限が必要であれば、ネット・ゲームに1時間で中断する機能を入れるほかないが、テレビなどとのバランスが必要になるだろう。テレビ中毒は問題だが、テレビを長時間連続して見れば自動的に画像が遮断されるシステムは導入できない。パチンコを長時間することを法律で禁止できるか。長時間飲酒することも法律で禁止できない。
個人の行動に国家等が介入しても強制できない。それを強制しようとすると、国家等がスマホの使用履歴を閲覧・点検して、使用如何を把握する制度が必要になる。違反すれば処罰するか。香川県の条例は強制できないので、政治家の政治的パフォ−マンスと住民の気休めで終わる。議会での議論自体が税金の無駄遣いである。
世の中には個人の行動に関してして、倫理や道徳、望ましいことはいくらでもあるが、それらに国家等が介入していた窮屈な社会になる。介入に際限がない。
生徒は学校の宿題をすべきだが、それを法律で義務づけるべきだろうか。「宿題をすべきである」が、法律でそれを義務づけるべきではない。
不倫は道徳に違反するが、不倫を処罰したらどうだろうか。不倫禁止法。戦前は姦通罪という刑罰があった。現在は、不倫は損害賠償の対象だが、法律で禁止されていない。
天皇を敬うことを法律で強制すべきか。戦前は不敬罪があった。尊敬するかどうかは法律では強制できない。「学校の教師尊敬条例」などはナンセンス
子供が親を敬うことを法律で義務づけるべきだろうか。
朝の挨拶条例、悪口禁止条例はどうか。
学校の先生を尊敬することを法律で義務づけるべきか。
浪費禁止条例。「借り過ぎないようにしましょう」を条例で義務化するなど。
暴飲暴食防止条例。「飲み過ぎないようにしましょう」を条例で義務化するなど。
健康維持管理条例。「1日に15分は運動をしましょう」をを条例で義務化するなど。
結婚と出産を勧める条例(少子化防止条例)。「できれば結婚をして、女性はできれば2人は子供を産みましょう」を言う努力義務を規定する条例。それは、よけいなお世話だ!
道徳遵守条例。「社会の道徳を守りましょう」を条例で義務化するなど。道徳を守ることは個人的な問題であり、そこまで国家等が介入するべきではない。ネット・ゲームの利用も同じ問題。
法律や条例が個人の行動に介入するのは最小限にとどめる必要がある。日本は介入を最大限にしようとする傾向がある。人間の管理に際限がない。国家の介入は最小限でなければ、窮屈で幸福度の低い国になる。国家の介入を当たり前だと考える国民の幸福度は低い。
個人が自律して行動できない国では国家等の介入する範囲が広くなる。国家等が国民を監視、監督、保護、指示する国家では、個人の自由の範囲が狭く、国家等の介入する範囲が広くなる。国民は子供のように国家から監視され、保護される。そこには人間の自律はない。江戸時代には幕府が人々の生活の細部にまで介入した。イスラム原理国家では法律で人々の生活を規律する。男性は髭を伸ばすことを義務づけ、何故か、たこ揚げの禁止など。
電車内で携帯電話使用が非難されるのは日本特有の現象だが、これを法律で強制できるだろうか。欧米では、人々は電車内での携帯電話使用に関知しない。それは個人の問題である。
電車内での携帯電話使用はマナーの問題である。マナーを守れない者が非難される結果、日本では電車内での携帯電話使用を一律に禁止しようとする。現在は電車内での携帯電話使用は世論の非難によって強制するだけで、法的拘束力はないが、日本ではそのような法律ができかねない。ネット・ゲームの利用の制限はそれと同じ問題である。
法的な義務ではない。これを法律で一律禁止にしたらどうか。
他人に迷惑をかけないことはマナーの問題である。マナーを守ることができない国では、一律禁止になる。日本ではマナー強制法が制定されかねない。
日本では倫理を強制する法令が多い。弁護士は、法律ではないが、倫理規範で倫理を義務づけられている。これは弁護士の不祥事があまりにも多いからだ。倫理規範に違反すれば、弁護士会から処分される。日本も裁判官も、法律ではないが、最高裁の処分を通して、24時間、私生活の細部まで規律される。大企業の社員も24時間、会社の倫理が事実上適用される。勤務時間外でも不祥事を起こせば会社から処分される。
日本や中国、韓国は禁止の多い国である。個人の自由の範囲の狭い国はたいてい幸福度が低い。幸福度の高い国ではマナーの領域に国家等は干渉しない。国民が互いに干渉・非難し合い、監視し合う国。世論から非難されたら日本では生きていけない。
登山の分野でも国家等国家等の介入が広がっている。登山届けの提出の義務化や、火山での登山者の努力義務を法律で規定するなどの国家等の介入が広がっている。登山届けを出すべきだが、それは法律で強制すべきことではない。登山計画は、役所ではなく家族に告知することに意味がある。
最近は、法律で管理されることを当たり前だと考える登山者が多い。そのうち、事故防止条例などができるのではないか。登山では事故を起こさないように気をつけましょうという条例。事故を起こさないことは当たり前のことだが、登山者がそれができないので、国家が事故防止を強制するのである。自損事故を起こした登山者を処罰するようになれば、「禁止国家」が完成する。
小さい頃から管理されて育つとこうなる。管理することは、当たり前のことだが、管理する側には都合がよい。しかし、社会的な管理が増えれば、管理のために時間をとられ、それだけ社会全体の幸福追求に使える時間の総量が減る。
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