2024年
                         溝手康史



2024年9月7日

登山道シンポジウム・・・・予定
日本山岳サーチ&レスキュー研究機構など
東京








2024年7月12日

メディアの100ゼロ傾向

メディアやネットは、少し前まで、石丸氏を実態以上に持ち上げて虚像を作り上げ、今は、石丸氏をパワハラ人間などとして激しく叩いている。これも虚像である。
100かゼロか、こういうメディアの傾向は、すべて視聴率を稼ぐためだ。得か損かということ。これは利益優先のメディアの体質がもたらしたものだ。ネット民の熱しやすく冷めやすい性格はメディアの格好の餌食になる。
客観的な事実に基づいて判断すること・・・・これが重要だ。

政治家のパワハラ事件は珍しくないが、石丸氏は、安芸高田市長在任中に、名誉棄損、侮辱的な言動はあったが、パワハラ事件は起こしていない。石丸氏は、対立する政治家を一方的に攻撃し、議論が成り立たない。自分を称賛するメディアとは仲良くするが、批判的なメディアは拒絶する。自分の敵か味方かという点に敏感な政治家。これらが客観的な事実だ。
これらの市長時代の石丸氏の傾向が、今、メディアで現れているだけだ。これらは、政治的な経験や性格の問題であり、それらと政治的な主張や政治的な実績は区別すべきだ。
人間的な資質や性格は、好みの問題だ。
維新の政治家に好戦的な人が多いが、石丸氏も好戦的だ。そのような性格を嫌う人もいれば、好む人もいる。人はさまざまま。
政治家は、その実績と主義主張で評価されるべきだ。
しかし、メディアは、「視聴率を稼げるかどうか」で判断する。
ネットは、「痛快」、「カッコいい」というイメージだけで動く人も少なくない。もともとネットやメディアは、事実の一部を一方的に流すという性格があり(そこには情報の相互コミュニケーションはない)、虚像を生みやすい。
政治家は、虚像やイメージではなく、実績、実践、主義、主張で評価すべきである。

登山家の栗城劇場では、当初、ネットとメディアは、栗城氏をヒーローとして熱烈に支持した。しかし、それが、登頂失敗を契機に非難一辺倒に変わった。栗城氏は、多くの8000メートル峰に登頂していたが、「登山に無知な国民を騙すペテン師」、「ニセモノ登山家」などとメディアから非難された。
栗城氏のヒーロー扱いは虚像だが
「ペテン師」、「ニセモノ登山家」も虚像である。メディアやネットは、簡単に虚像を作り上げ、熱しやすく、冷めやすい。
登山に無知なネット民とメディアは、栗城氏の登山家としての能力を客観的に評価できず、虚像に翻弄された。


客観的な事実に基づいて判断すること・・・・・これはある種のphilosophyであり、これがなければ賢明な民主主義が成り立たない。これは万国共通だが、日本や韓国の社会にはphilosophyがない。それが、ネットやメディアの情報をうのみにすれば、人は不幸になる。

ネットやメディアの情報を自分で考え、咀嚼することが必要だ。それには、philosophyが必要だ。


2024年7月11日

富士山山開き・・・・事故が多発
富士山では、山開きしたとたんに事故が多発している。
マスコミは、山開き前の登山は危険だと報道するが、山開き後の方が事故が多い。
山梨県側は1日の登山者を4000人に制限するが、事故は減らないだろう。初心者が1日に4000人も登れば、事故が多発するのは当然だ。山小屋に宿泊しない登山者がいなくなっても、それは事故の件数とは関係がない。事故を起こすのは、ほとんどが山小屋宿泊者だからだ。

静岡県側で入山規制をしないのは、国有地に登山道があるからだと報道されている。国の同意がなければ、山梨県のような入山制限ができない。
国は、山梨県方式に同意しないのだろう。その理由は、おそらく、山梨県のやり方が法律的に稚拙な方法であり、法的トラブルに対処できないからだろう。山梨県の方法は、入山料ではなく、登山道の利用料であり、これは、日本でも、世界でも前例がない。登山道を有料にしないのは、登山道はもともと危険なものであり、安全化できないからである。安全化できないものを製造物と同じように有料化できないからである。
人工的施設の有料化は施設管理責任が伴う。山梨県の登山道を遊歩道にするほかなくなる。遊歩道では、歩道の管理責任が生じやすい。
これに対し、世界で採用されている入山料は、自然エリアへの入域料であり、人工的な施設の利用料ではないので、施設管理責任が生じない。公有地であれば、入域料を徴収できる。

熟練者の弾丸登山は事故にならない。初心者の弾丸登山が危険なのだ。初心者は、山小屋泊りでも危険である。つまり、弾丸登山かどうかではなく、初心者かどうかが重要なのだ。
弾丸登山者の数が公表されてい
ないが、おそらく少ないはずだ。弾丸登山者で事故を起こした者の割合も公表されていない。
短パンの外国人登山者の映像を流して、無謀な登山者のイメージをを伝えるが、遭難者のほんどは短パンではない。つまり、軽装登山だから遭難しやすいという関係がない。初心者は万全の装備でも遭難しやすい。
メディアは軽装の登山者が遭難しやすいというイメージを報道するが、現実は、装備に関係なく、初心者が遭難している。

富士山での事故のほとんどは初心者の事故である。
富士山は初心者向きの山ではない。また、観光客には無理だ。
事故防止のためには、初心者や観光登山者が登りにくくする工夫が必要だ。

それには、
・許可制
・マイカー規制
・5合目駐車場の規制、5合目駐車場の廃止など
・登山道を初心者が登りにくいものにする。

富士山は初心者が登りやすく整備していることが、事故を多発させている。
登山道を整備すれば事故が増える・・・・これは明治以降の北アルプスで実証されている。
入山料を1万円にしたとしも初心者は登るだろう。
カナダのある国立公園では、入園するには、1万円の入園料と1時間のレクチャー受講を義務づけていた。これは入園者が少ないからできるのだが、公園内に山小屋、橋、標識、整備された道はない。


2024年7月8日

安芸高田市長選と東京都知事選‥‥言葉と実践のギャップ
4年前、安芸高田市民は、当時「無名だった」石丸氏を圧倒的な支持で当選させ、 「石丸劇場」が生まれた。これは、ネットの世界で繰り広げられる政治が多くのネット民を喜ばせる劇場である。
石丸氏は安芸高田市の税金を使って、ネット配信をして自己の政治的知名度を上げ、4年後、 「石丸劇場」の舞台を東京に移した。
石丸氏の関心は、安芸高田市民の方ではなく、自己の政治的野心を実現するための対象としての全国のネット民の方に向いていた。安芸高田市民は、常に、蚊帳の外だった。石丸氏に、「利用された」という感情を持つ安芸高田市民が多いのではないか。

今回の東京都知事選では、石丸氏はもはや無名ではなく、ネットとメディアで「知名度の高い」人だった。
が、石丸氏は大差で小池氏に敗れ、
安芸高田市では、石丸
氏の後継候補者が落選した。
今回、安芸高田市で、石丸氏の後継候補者の獲得票数は、当選者の約3分の2だった。東京都知事選でも、石丸氏の獲得票数は小池氏の約3分の2である。安芸高田市と東京都で状況が似ている。
都会のネット民やマスコミ関係者(たいてい都会に住んでいる)は、「安芸高田市のような保守的な田舎者と一緒にされてたまるか」というプライドがあるようだ。
そのような人たちは安芸高田市で石丸氏の後継者の候補者が落選しても、「それだから田舎はダメなのだ」と考え、東京では、石丸氏が落選しても大健闘したと評価する。マスコミは、「石丸氏が東京都知事選で2位の票を獲得するも、安芸高田市長選では石丸氏の後継候補者が落選した」と報じた。
しかし、安芸高田市の石丸氏の後継者の候補者は、組織的な支援がない中でよく健闘したというべきだ。石丸氏の後継候補者を支持したのは、保守系改革派の浮動票である。

東京でも安芸高田市でも、どちらもほぼ同じ政治状況にある。いずれも、保守本流が政権を維持した。
石丸氏は保守系改革派とみるべきだろう。安芸高田市で落選した石丸氏の後継者の候補者も保守系改革派の人である。政策内容や手法は維新に近い。議論の仕方は橋本氏に似ている。
保守的な市民が保守系の首長を選ぶ構図は、安芸高田市でも東京都でも同じである。

石丸氏が安芸高田市の市長になっても政界は問題視しなかったが、東京都知事選で2位の票を得たことで、政界に激震が走った。これは、田舎の野球の弱い高校で活躍していた選手が、野球の強豪校にレギュラーになり、全国大会では負けたが活躍し、注目されるようなものだ。安芸高田市の市長程度では、政界でバカにされやすいが、東京都知事選は、そうではない。

たとえ僅差で落選したとしても、支持者にとって落選の結果は同じだが、大差で負けた石丸氏は2位の得票数を獲得したことで、政治的成果を得た。今後、維新の影の支援を受けて選挙に出る体制を固め、選挙で「成功した」と言えよう。
石丸支持者は、既存政権、既存政党、与党政権に対する批判票であり、全国のどこでも批判票が増えている。
いつの時代でも政治や社会に対する不満がある。
かつては、そのような不満は、水戸黄門や大岡越前のような英雄像に救済を期待した。
1970年代には、大学紛争や左翼勢力が大きな影響をもたらした。
今の時代は、テレビやネットで半沢直樹的な痛快な批判者に人気が集まる。私は、関心がないので、半沢直樹のドラマを見ていないのだが(朝ドラも見ない)、「痛快」、「カッコイイ」という程度で、ネットでの人気が一気に高まる。
小泉氏の郵政改革や、一時期の維新ブームなどは、「既存勢力をつぶす」というスローガンで人気を博した。小泉氏は、小泉劇場が冷めやすいことを知っていたので、すぐに引退した。
中坊氏は「平成の鬼平」と呼ばれて人気を博したが、その手法はパワハラ的な強引さが目立ち、失脚した。
維新も攻撃的な議論のスタイルで一時期人気を博したが、その勢いは、今は、ない。
石丸氏もそのような手法に似た面がある。

石丸氏は、ネットなどで言葉での政治演出が巧みだが、現実政治はうまくない。言葉と実践は違う。実践では、政治的な能力や経験が必要だ。
石丸氏は自分への批判や意見を許さない傾向がある。ネットは一方通行なので、好むのだろう。
泉元明石市長は、マスコミから叩かれても、実践を通して明石市民を自分の味方にした。しかし、石丸氏は、実践を通して安芸高田市民を自分の味方にできなかった。
石丸氏は相手を攻撃する議論は得意だが、生産的な議論ができない。

民主主義は、互いに意見を出して議論をし、よりよい方向を模索する過程のはずだが・・・・・

登山の世界でも、「栗城劇場」でネットを通して言葉が一人歩きをした。メディアでの派手な演出が栗城氏の登山に多くの支持と資金を集めた。
しかし、実際の登山と言葉による演出は異なる。
「栗城劇場」では、現実の登山がうまくいかなかった。ネットは、圧倒的な支持から非難に変わった。ネットに、「騙された、金を返せ」などの書き込みがなされた。
東京都知事選でも、選挙に負けた石丸氏が満足そうなコメントを出したが、石丸氏は、次の選挙のための知名度を上げる戦略だったのかもしれない。
しかし、支持者の中には、本気で、「当選する」と思って支持した人が多いのではないか。落選して笑みうを浮かべる候補者に、支持者が不信感を持つのは当然だ。
選挙後の、石丸氏の高圧的な姿勢に、ネットやメディアで反感を感じた人がいる。ネットの風向きは簡単に変わる。
栗城氏が無酸素単独でエベレストに登れないと、「詐欺だ」、「金を返せ」と言ったネット民。メディアも、栗城氏を登山に無知な視聴者を騙すペテン師などと非難した。それと同じことが、石丸氏にも起こりうる。
石丸氏がネットで叩かれても、「あのやり方では、そうなるだろうな」というのが感想だ。

ネットの流れは、あっという間に反転する。
ネットは凶器であり、狂気だ。


「栗城劇場」は、栗城氏が遭難死した後も、栗城氏の関連本の出版などで続いている。
4年前以降、全国で盛り上がった「石丸劇場」は、安芸高田市では石丸氏の後継者が落選し、東京では石丸氏の落選という結果になった。
「石丸劇場」は、かつての維新ブームや「橋本劇場」に似ているが、それらは、今は、もう、ない。
当初、市民から期待を持って迎えられた「石丸劇場」は、4年間の市政で市民を落胆させた。
劇場は熱しやすく、冷めやすい。

今後、「石丸劇場」は、東京からどこにその場を移すのだろうか。


2024年7月6日

山岳遭難の法律問題・講演
三重県山岳遭難対策協議会

山岳事故の法的責任問題、登山道の管理の問題を扱った。
参加者数は、オンラインを含めて、約250人で関心の高さが感じられた。
その後の懇親会、翌日の伊勢山上(328m)での登山を含め、三重県の関係者にお世話になりました。
その後、伊勢神宮を見て、伊勢ー奈良県ー大阪ー山陽道経由で帰宅した。


 

 伊勢山上のハイキングコース!(安心してください。迂回コースがあります)



2024年7月4日

「登山客」というマスコミ用語

日本のマスコミは、「登山客」という独特の新語を作った。
登山客は山小屋の宿泊客やツアー客とは限らない。マスコミは富士山で弾丸登山をする人や日帰り登山者も登山客と呼ぶ。
これは、事故を起こすような未熟な登山者の意味で使うようだ。
経済的利益の対象となる登山者を登山客と呼ぶのかもしれない。しかし、観光地で買い物をする山岳ガイドを登山客とは呼ばない。ヒマヤで登山をする人や登山家も、国内で金を使うが、これらは登山客とは呼ばないようだ。
マスコミは、登山者を非難する時に、登山客という言葉を使用することが多い。「100名山を登頂した登山客」、「90歳で〇〇山に登頂した登山客」、「〇〇を達成した登山客」とは書かない。マスコミはクライマーを登山客とは書かないようだ。

日本は情緒の国だ。日本語も情緒的だ。登山者よりも登山客と書いた方が、世論の情緒に合うので、マスコミが登山客という新語を使うのだろう。
日本では登山者を非難する時に、非難のニュアンスを込めて、登山客と呼ぶようだ。
あらゆる言葉は定義が必要だが、日本には、定義定義不可能なあいまいな言葉が多い。
英語では、登山者=mountain climberであり、登山客も同じだ。登山客をguestと表現すれば、誤解される。英語では、登山者と登山客を区別できない。
国際的に理解されない言葉を使用しても、世界に通用しない。
外国人に対し、登山客という言葉を使用しても、相手に理解されない。
日本の登山政策が外国人に通用しないことが多い。日本に多い行政指導は外国人に通用しない。日本人が考えるルールは、マナー、倫理、行政指導であることが多く、欧米人はルールとは考えない。ルールでなければ、「ルールを守る」という発想が出てこない。
今後、登山はグローバル化すれば、外国人に通用する用語を使う必要がある。
ある登山道では、「通行禁止」をclosedと表示していたが、これは、閉鎖であって、禁止ではない。閉鎖と通行禁止は異なる。閉鎖ざれても、立入禁止とは限らない。禁止は、prohibitedだが、行政指導による禁止をprohibitedと表示するのは間違いである。
今後、登山では必ず英語表記を併用する必要がある。


2024年7月4日
ヒマラヤでの遭難

長野県山岳協会副会長で高校山岳部で長年指導してきた大西浩さん(松本市)が、パキスタンのカラコルム山脈に位置するスパンティーク(7027メートル)を登頂後の下山中に亡くなったことが3日、分かった。
大西浩氏はよく知っている人だ。


2024年6月28日

栗城劇場・・・・デスゾーン
私は栗城氏に関心がなかった。
しかし、「デスゾーン」という本の中古本が非常に安かったので、資料として買って読んでみた。
メディアについて考えさせられた。
栗城氏が、無酸素、単独でエベレストをめざすと言うことは、個人の自由である。どのような登山をすべきか決まったものはなく、どのようなスタイルでもよい。栗城氏のいう単独登山は、登山隊を組織し、スタッフ、ポーターを使用するが、登山行動は1人で行うスタイルであり、テントなどをポーターが荷揚げしたようだ。アルパインスタイルではない。
このような登山スタイルは故人の自由だが、それを単独登山というと誤解をまねきやすい。

これをメディアが、「無酸素、単独登山」と呼んで派手な演出をしたことが問題だった。
メディアはその影響力の大きさから、社会的責任があるからだ。1登山家がエベレストの無酸素単独登山を言っても誰も相手にしないが、メディアが取り上げると社会的な影響が大きい。
また、メディアが栗城氏をヒーロー扱いしたことも問題だ。栗城氏は、多くの8000m峰に登頂しており、力のあるヒマラヤ登山家だったが、ヒーロー扱いをするほどのものではない。また「無酸素、単独登山」の可能性が低かったので、メディアはその点を報道する必要があった。
メディアが派手に演出した結果、登山に失敗すると、多くのネット民から、「騙された」、「金を返せ」、「ニセモノ登山家」などの非難がなされた。メディアの演出が詐欺まがいだった。
メディアは事実を正確に報道するのが、その倫理だが、視聴率を稼ぐために過剰な演出をすることが多い。栗城劇場はそのようなメディアの過剰な演出が生み出した。

「デスゾーン」には、栗城氏の登山家としての能力の客観的な評価がない。これがなければ、栗城氏がニセモノかどうかの評価ができない。栗城氏の登山家としての能力の客観的な評価なしに、栗城氏についてさまざまな証言や問題点を記述しても、すべて「砂上の楼閣」でしかない。

また、「デスゾーン」は、個人と故人のプライバシーを扱っており、名誉棄損、プライバシー侵害の可能性がある問題本だ。
この本は、メディアの商業主義の延長上で書かれている。賢明な登山者は、商業メディアとネット民から距離を置く必要がある。



2024年6月16日
ヒマラヤでの遭難

ネット記事から・・・・・パキスタンで登山中に行方が分からなくなった日本人2人のうち1人の遺体が収容されました。パキスタン北部にある標高およそ7000メートルのスパンティーク峰を登っていた平岡竜石さんと田口篤志さんは、12日に行方が分からなくなっていました。地元当局は15日の捜索で、標高6000メートル付近の地点で「平岡さんの遺体を発見し収容した」と発表しました。一方、田口さんの安否はまだ分かっておらず、捜索活動が続いています。・・・・・・

国際山岳ガイドの平岡竜石氏は、私の事務所に来たことがあり、よく知っている。日本有数の高所登山の山岳ガイドだった。
また、1人、知人が亡くなった。残念だ。


2024年6月15日
広島県北労連・労働法律相談センター事務所開所式
広島県、三次市
出席し、挨拶した。
この相談センターは、20年くらい前からあり、開設当初から協力している。



2024年6月14日

ボランティア活動の功罪

額が低すぎるとして猟友会が熊の駆除活動を拒否した。
町は、狩猟免許保有者にボランティアで無報酬で熊駆除を依頼した。恐らく、ボランティアには町外の人もいるだろう。

一時的にはボランティアで熊の駆除ができるかもしれない。
しかし、ボランティア活動は、するかしないかが自由なので、都合が悪ければ出動しないことが可能だ。今後、継続的にボランティアで熊の駆除ができるかどうかわからない。ボランティアは熊以外の動物の駆除はしないだろう。
ボランティア活動でも、銃の事故の損害賠償責任や刑事責任が生じる。拙著「ボランティア活動の責任」参照
ボランティア活動者が死傷しても、公的な補償はない。
動物の駆除をボランティア活動に依存しても、継続的な駆除は、難しいだろう。

一般に社会的な活動をすべてボランティアでまかなえば、経費がかからないので、都合がよい。
医療、教育、建設、土木、福祉などすべてボランティアでまかなえば都合がよい。しかし、ボランティア活動は、するかしないかが自由なので、継続性がない。
そこで、これらの分野は職業として遂行するシステムになったのだ。また、専門家=職業化という経過が多い。医師や弁護士の仕事が無料のボランティアの国はない。
災害時などはこれらのボランティア活動があるが、それは一時的なものだ。一時的、緊急的なことがボランティア活動の対象になりやすい。

動物の駆除を継続的に行うには、職業的な業務として遂行するほかないだろう。
動物の駆除が経済的採算がとれれば商業化する。鹿を捕獲し、鹿肉販売の採算が取れれば、商業化できるが、現状はそうなっていない。野生の魚類や海産物はその捕獲、販売が漁業として商業化している。

自治体は、金がかかるので動物駆除に消極的だ。福祉、介護、教育、環境保護、スポーツ、司法などは、経済効果を見込めないので、自治体は消極的だ。
現状では、動物の駆除は自治体の義務的な業務ではない。
国民の安全を守る点で、熊の駆除は警察の業務だが、市街地での発砲が禁止されているので、警察官は街中で発砲できない。自衛隊の射撃隊に任せる方法もあるが、それには法整備が必要だ。
問題は、国が熊対策に本気になっていないことだ。現在は、自治体任せ、ボランティア任せだ。
法律で動物駆除を自治体の業務として位置づけ、国が自治体に補助金を支出する体制が必要ではないか。


2024年6月13日

IT社会

IT化が社会を一変させる。

司法の業界では、
ネット相談では東京の弁護士が全国から相談を受けるので、地方の弁護士が不要になる。
現在、ビデオ会議で裁判が可能だ。弁護士が裁判所に出頭する必要がなくなれば、東京の弁護士が全国の事件を受任可能だ。
いずれ証人尋問もネットでできるようになるのではないか。
調停は遠方にいてもネットで可能だ。家事事件に監視て家裁は東京家裁ひとつで足りるのではないか。
弁護士は自宅で仕事をし、事務所は不要になるのではないか。ネット空間が法律事務所。書籍はネットで閲覧可能。事務員はAI事務員?
簡単な訴状はAIで作成可能だ。
AI裁判所、AI弁護士。
日弁連のいう「弁護士過疎地」は昔話。日弁連は弁護士に依頼者との面談を義務づけ、増えすぎた弁護士を地方に回そうとするが、ネット社会は弁護士の東京集中を加速させる。東京の弁護士が全国の弁護士の仕事をすることも可能だ。
ネット社会では、弁護士はネット環境さえあれば、どこでも仕事ができるはずだが、都会が便利で弁護士は遊興歓楽が好きなので、やはり弁護士は都会に住みたがる。

政治の世界では、
ネットやユーチューブを通して票を集める政治家が出てくる。
ヒトラーは演説で大衆を扇動したが、これからはネットで大衆を扇動可能だ。
ネットの宣伝力はすさまじい。ヘンな候補者が選挙で当選するようになる。
ネットを無視して政治ができなくなる。

日本の社会は法律ではなく世論で動く。
世論=ネットになるのではないか。
ネットで叩かれると日本では生きていけない。
ネット、ISNでのイジメが多い。
学校で規制をしても、学校外のネット社会が子供をむしばむ。

登山関係では、ネット情報に基づく単独登山者の事故が多い。
このような人にはAIによる屋内での疑似登山体験。屋内で傾斜板上を歩き、登山コースと同じ仮想空間を作ればよい。仮想空間で見知らぬ登山者と出会い、会話をする。仮想空間で山小屋泊やテント泊。都会に疑似登山体験施設を作り、それで日本100名山登頂の称号を付与するとか。

恋人、配偶者、友人、子供、ペットの代わりに、AIロボットが代役をするとか。
害獣対策として、AI駆除犬がありうる。
熊が出没する地域では、熊対策AIロボット。黒クマを襲って食べるというグリズリーのような形の大型ロボットがよいのではないか。


2024年6月8日
ネット社会の危うさ

山岳遭難の約4割が単独登山者である。
そのほとんどが初心者、未熟者の事故だ。
登山経験があっても、自分のレベルを超える登山をすれば未熟者である。報道される事故を見ると、「なぜ、こんな場所で事故が起きるのだろう」という、一般ルートでの事故が多い。
明らかに力不足の結果としての事故が多い。
現在、ネット情報をもとに登山をする人が多い。
ガイドブックを買うと金がかかるが、ネット情報はタダだ。
ネットは誰でも発信できるので、ネット情報は玉石混交だ。ネットには、気軽に登山ができるという誘惑が満載されており、それを見て登山を始める人も多いのだろう。
経験者が簡単に登ったというネット情報を読んで、初心者が気軽に登ると簡単に事故が濃きる。
山岳会での登山やツアー登山では事故は起きにくいが、単独登山は拘束がない分、危険な領域に簡単に入り込んでしまう。単独登山者は、自分が危険なことをしているという自覚がないまま危険な行動をする。単独登山では、危険な行動を制限するハードルがない。

便利さや手軽さは、利用者を増やすが、安全化された街中では、何も問題はない。
しかし、自然の中では、便利さや手軽さが事故につながりやすい。富士山登山が便利になればなるほど、事故が増えるのはその例だ。
登山では、不便さが事故の防止につながる。

ネット情報は制限できない。
しかし、登山環境が不便であれば、「〇〇の登山は不便だった」という情報がネットで拡散すれば、初心者、未熟者の登山者は減るだろう。

政治の世界でも、ネットの影響が大きい。日本では選挙活動をひどく制限しているが、ネット情報は自由に拡散するので、それが投票行動を左右しやすい。
ネットでの支持を背景に当選した国会議員がその後逮捕されることがある。ネットでの指示は危うい。
ネット情報を自分で吟味する情報の受け手の判断力が必要だ。


2024年5月31日
那須雪崩事故判決

5月31日、2017年に起きた那須雪崩事故の刑事裁判で、宇都宮地裁は教師3人に禁錮2年の実刑判決を出した。

判決の構造 
被告人3名について、安全区域限定義務違反、安全確保措置設定義務違反、計画内容周知義務違反・・・・・共同過失
被告人3名中2名について、即時退避指示義務違反、適時情報共有措置義務違反・・・・・・個別過失


コメント
・ほとんどの事故に関係者のミスや落度はあるが、ミス・落度=過失ではない。
過失がある場合でも、それに民事責任を科すか、
刑事責任も科すかは、ある種の法的な価値判断である。どの範囲を刑罰の対象とするかは検察官が判断する。近年、起訴された山岳事故はすべて有罪になっている。

・予見可能性を緩やかに考えれば、ほとんどの事故で予見可能性が認められる。
結果を予見できたから責任を負うというよりも、結果を予見すべきだったかどうかが問われる。結果を予見すべきだったとすれば、予見可能だったとされ、注意義務が科される。
 斜度30度以上の斜面に30センチ以上の新雪があったこと、訓練場所があいまいだったことなどから、雪崩事故の予見可能性が認められた。

・事故に対する3人の関与の程度は異なるが、裁判官は、3人の刑に差を設けることをしにくかったのだろう。この点を高裁がどのように判断するかが問題だ。

雪崩を予見可能だったが、注意を怠って予見しなかったというのが、法律家の考え方だが、それはタテマエの理屈である。実態は、雪崩を予見できなかったから事故が起きたのである。もし、雪崩を予見していれば、講習を中止するはずだからだ。教師は、雪崩を予見できなかったが、雪崩を予見すべきだったので、事故に対し責任を負うのである。

・雪崩を予見できなかったのは、注意を怠ったからではなく、雪崩を予見する能力不足が原因である。
3人の教師のうち、2人の教師は登山家と呼べるほどの経験はなかった。注意不足を指摘するだけでは雪崩事故を防ぐことはできない。雪崩対策には相応の能力が必要である。それがなければ、雪崩の可能性のある場所で講習をしてはならない。

・従来、学校関係の山岳事故で実刑になったことがなく、初めての実刑判決である。交通事故では、初犯でも2人が死亡すれば実刑になることが多い。それに較べれば、8人死亡の事故で禁錮2年は軽い。交通事故などに較べて山岳事故の量刑が軽いのは、自然的要因が関係するからだろう。

・近年、裁判所において、過失事故の厳罰化の傾向と、山岳事故の厳罰化の傾向があるが、それにそった判決である。安全であることに対する世論の高まりが背景にある。

・事故に直接関与した者だけでなく、事故現場にいない管理者の刑事責任を課した点が注目される。
自動車事故や原発事故でも、事故現場にいない安全管理者の刑事責任を問う傾向がある。従業員が自動車事故を起こした場合に、事故現場にいない会社社長や課長を安全管理者として起訴するケースが増えている。
「不作為」が刑罰の対象となり、明らかに過失責任を問う範囲が拡大している。検察官の起訴の範囲が拡大している。従来は起訴しなかった者を、近年、起訴するようになっている。起訴されると有罪になることが多い。

・事故現場にいない安全管理者が刑事責任を問われる傾向は、「管理者がもっと注意をする」のではなく、「誰も管理者や責任者にならない」傾向をもたらしやすい。
これは、例えば、
実行委員長不在の実行委員会がイベントを実施する
PTAなどで、会長や副会長、会長代行を置かない。
管理者不在の登山道
などがその例である。
会長、副会長、事務局長不在の協議会で、20人くらいの委員が共同作業を行えば、20名全員が起訴されにくい・・・・それが刑事責任回避の手法になりやすい。現実に、佐賀県で官民共同のサマーキャンプで、結果的に役員全員が無罪になったケースがある。これは集団的無責任の組織事故である。

今後、ツアー登山や山岳団体の講習会などでの事故に関して、起訴されるだけでなく、被害者の数が多ければ、実刑判決になる可能性がある。

・危険を伴う活動は、学校、ツアー登山、講習会以外の形態で行う必要がある。高校生の場合は、学校以外の場所で親の管理下で行うべきである。

・今後、学校の部活動で危険を伴う活動はできない。雪山登山は高校ではできない。夏山でも事故の危険性がゼロではない。柔道やラグビーでも事故が起きると教師が刑事責任を問われる可能性がある。

・部活動は教師のボランティア的な業務であり、教師の義務ではない。ボランティア的活動に刑罰を科すと、活動従事者が減る。今後、学校の登山部の活動範囲の縮小や廃部が増えるだろう。

・教師の登校指導も、現在、教師のボランティア的な業務として行われているが、登校中に事故が起きると、教師が刑事責任が問われる可能性がある。欧米では、児童、生徒の登校は、学校ではなく、親の管理下で行っている。日本でも、児童、生徒の登校は親の責任において行う必要がある。

・国は、学校の部活動の指導を外部委託することを推進しているが、学校の顧問教師が安全管理することは変わらないので、外部指導者を採用しても法的な扱いは変わらない。外部指導者は顧問教師の補助者の扱いになる。外部指導者のミス=顧問教師の過失=学校の民事責任。教師個人は刑事責任。

・被告人は控訴すると思われる。

・欧米では、このような判決はない。欧米では高校山岳部がない。日本のような高校の部活動のある国は欧米にはない。アメリカのハイスクールの部活動は、学校外の専門家に委ねているが、高校山岳部はないだろう。ヨーロッパでは学校の部活動がない。生徒のスポーツは、学校の管理下ではなく、保護者の管理下で行われる。欧米では、教師は部活動に関与せず、教育に専念する。
 日本でも、教師は部活動に関与せず、教育に専念した方が教育の発展に資するのではないか。
 日本では、部活動=教育と考えているが、運動部の活動はスポーツであって、勉強とは異なる。
 日本は、学校と会社中心社会。危険を伴う活動は、学校の管理を離れて学校外のクラブや保護者の管理下で行う必要がある。また、会社中心社会が仕事中心社会をもたらしている。男性の場合は、飲食、レジャー、冠婚葬祭、交友関係が会社中心であり、「元〇〇社員」の肩書が死ぬまで続く。「元院長」、「元裁判官」、「元〇〇大学教授」なども同じ。
 



2024年5月27日
「登山道を誰が管理するのか」 (デザインエッグ発行)

(目次)
はじめに
登山道が遭難に関係する
登山道の整備のあり方
登山道の管理
今後の課題と展望


  
                 





2024年5月25日
登山道に関する法整備の動き
令和5年  環境省による登山道整備の実態調査・・・・私もヒアリングを受けた。
登山道法研究会などの活動やマスコミの関心が高まる。

令和6年   衆議院・超党派「山の日」議員連盟が法制化に向けて、勉強会を実施・・・・私もヒアリングを受けた。

議員立法がなされることは間違いないが、その内容は未定

登山道整備や山岳地域振興を義務付ける漠然とした法律になるのではないか。法律で具体的なことを義務づけるには、関係法令との調整が大変だ。
イギリスのCountryside and Rights of Way Act 2000は1冊の本になるくらいの分量がある。これは具体的権利、義務、手続、罰則、土地所有権の制限、他の法令との調整規定が多いからだ。



2024年5月15日
衆議院・超党派
「山の日」議員連盟総会でのヒアリング
東京

超党派「山の日」議員連盟
 会長 衛藤征士郎衆議院議員
 事務局長 務台俊介衆議院議員


議題:「登山道の管理不足と利用者の要求水準の変化について」

(ヒアリング)
北海道大学大学院農学研究院 教 授  愛 甲 哲 也
みぞて法律事務所 弁護士 溝 手 康 史
一般社団法人 北杜山守隊 代表理事  花 谷 泰 広
YAMANASHI MTB 山守人 代 表  弭間亮
総務省
林野庁
環境省

私は、登山道に関する法制度の現状と登山道の管理責任について話をした。

関係者の考え方はさまざまだろう。
環境省は環境保護を考え、自治体は地域振興(経済振興)を考え、山岳団体は、経済振興ではなく、登山振興を考える。山小屋や警察などは、事故防止を重視するだろう。
私は、登山に限らず自然へのアクセスの保障や環境保護は国民の幸福追求を実現し、個人の自立と自律を支え、民主主義社会の基礎を形成すること、また、それは人間の生存にとって必要だと考えている。


2024年5月12日

富士山登山通行料

富士山の山梨県側登山道では、7月1日から通行料2000円が必要になる。
また、入山者が1日に4000人に制限されるが、山小屋宿泊者は制限されないようだ。つまり、4000人の制限は、環境保護のためではなく、山小屋に宿泊しない登山者を規制するものだ。トレランや熟練者の日帰り登山、訓練などが規制される。
規制の趣旨があいまいだ。事故防止のためであれば、山小屋宿泊者の事故者も多いので、これが問題になる。富士山では初心者登山者が多いことが、事故の最大の原因だ。山小屋の数が多すぎるのだ。山小屋の数が少なければ、初心者登山者が減り、事故も減る。
弾丸登山の制限は、事故防止ではなく(山小屋宿泊者の事故者も多い)、単に、山小屋が儲からないから制限するということのようだ。

世界の潮流は、事故防止ではなく、環境保護のための登山規制である。
登山者が多すぎることが環境破壊の原因である。弾丸登山者の数は知れており、弾丸登山が環境破壊の原因ではない。
山小屋宿泊者が無制限では、環境保護にならない。
環境保護のために登山を許可制にするのが世界の潮流だが、日本は世界の潮流から孤立している。



2024年5月2日
犬伏山(791m)・・・・・手入されない登山道の典型
広島県安芸高田市にある犬伏山に登った。
これは、ヤマップで見て、笹で登山道が見えにくい山とされていたので、調査のために登った。
登山道は、全体の3分の2が笹で覆われて見えなくなっていた。3分の1は笹に隠れているが、何とか登山道の痕跡を見分けられる。他は、登山道の痕跡が見えない。
看板は倒れて笹の下にあるか、成長した笹に隠されている。
登山道のうち1割くらいは、笹がなく、すっきりとした快適な登山道の箇所がある。笹を刈れば快適な登山道なのかもしれない。
登山道が笹に埋没しているので、地図、コンパス、GPSで確認しながら進む。ところどころに、赤いリボンがあるので、これも参考にする。リボンの数が少ないので、あくまで補助的なものでしかない。
林道は、倒木があり、車は通行できない。その先に駐車場の看板がある。
ネット情報は、令和2年~4年頃の情報でり、現在は笹がさらに成長している。腰~頭くらいの高さの笹の中を泳ぎながら進む。
笹に埋没し、展望はない。山頂も展望ゼロ。

問題は、林道入口や駐車場に、登山道の看板がある点だ。この看板を見れば、登山道があると思って初心者が入り込む可能性がある。初心者は道迷いする確率が高い。
これは登山道の看板に「騙される」のあり、日本ではよくあることだ。これに陥ると遭難する。
犬伏山が藪山として有名になるのはかまわないが、その場合は、「登山道は笹のために見えません。道迷いの危険が高いので、初心者は登らないでください」という危険表示が必要である。初心者に登らせないための管理が必要だ。
笹漕ぎとルートファインディングを楽しみたい人以外は、登らない方がよいだろう。


 
登山道は直進しているが、笹の下にあり、登山道が見えない。こういう箇所が続く。




2024年4月14日
ドーム球場での2塁打
巨人・広島戦で、内野フライがドーム球場の天井に入り、落下しなかった。これが規定上、2塁打の扱いになり、1点が入った。
これによれば、ファウルグラウンドに上がったフライでも、2塁打になる場合がある。内野でも外野でも、フライは落下するまでファウルかどうか判定できない。明らかに内野のファウルグ
ラウンドに上がったフライでも、落下しなければファウルの判定ができない。キャッチャーフライも、ドーム球場の天井に入り、落下しなければ、2塁打になる???

ルールの限定解釈もありえたのではないか。この規定の趣旨は、ホームラン性のあるフライの場合の規定であり、明らかにそれに該当しない場合には、このルールを適用しないという限定解釈をするということである。キャッチャーフライなどにはこのルールを適用しない。ホームラン性のあるフライかどうか判断できないという意見がありうるが、今回の場合は、その判断ができない人はいないだろう。判断が難しい場合は2塁打にすることになるだろう。「明らかな場合」だけの扱いである。
このような限定解釈は、法律の世界では多い。
高校受験の願書出願が中学校のミスで期限を過ぎた場合に救済措置をとったことなどがその例である。「本人のミスによらない徒過」の場合には、期限に関する規定を適用しない扱いをするのである。
東北大震災時に、津波から逃げるために、車でスピード違反や信号無視をしても処罰しない扱いなども、法律の限定解釈である。

このような適正なルールの解釈をすれば、上記のケースでは、2塁打とする規定を適用せず、「規定がない場合」であり、審判の裁量判断でバッターに打ち直しを命じればよい。

あらゆる規定を形式的に適用すると、おかしな場面がいくらでも出てくる。いくらでも笑えるいおうなケースが出てくる。内野フライが2塁打になるのは、十分笑える。
自然公園での幕営禁止・・・キャンプ場のない山域はどうすればよいのか。ビバーク禁止か? 遭難時にどうすればよいのか? チンネや北鎌尾根は登れなくいのか?


ルールについて
日本では、ルールを杓子定規に考える人が多い一方で、行政指導などのあいまいなルールが多用される。
ルールは拘束力があることが前提だが、日本では、拘束力のないルールが多い・・・・・マスク着用、富士山の冬山登山禁止、富士山のドローン禁止など。これを世論の同調圧力で強制しようとする。
あいまいなルールが多い。・・・・努力義務、犬連れ登山禁止、自然公園での幕営禁止などなど
あいまいなルールは、管理する側に都合がよい。どうにでも運用でき、便利なので多用される。しかし、それは利用者に不利益だ。
あいまいなルールをを杓子定規に適用したら、笑い話が増えるが、時には悲劇になる。内野フライが2塁打になるルールは笑えるが、自然公園でのテント禁止で遭難するルールは、悲劇だ。
適切に解釈することの重要性・・・・・野球の審判も同じだ。



2024年4月4日
落雷事故

4月3日に、宮崎県でサッカー中の落雷事故が起きた。
雷鳴や雷雲などの落雷の予兆がある場合には、管理者に損害賠償責任が生じるというのが判例だ。
今回は、その予兆がなかったが、落雷が予見できたかどうかが争点になる。落雷注意報は出ていたようだ。
予見できたかという議論は、禅問答に近い。

数年後に民事裁判になるだろう。なぜ数年後かといえば、日本では、すぐに裁判することはしないからだ。アメリカでは、事故の数週間後に裁判を起こすことがあるが、日本では、事故の検証や第三者委員会などが先行する。消滅時効が迫って訴訟提起する。山では、夏はたいてい落雷注意報が出ており、たいてい午後は積乱雲がある。それだけで落雷の予見可能性があるかどうか。山ではほとんどの場合に、落雷の予見可能性が認められ、限りになく無過失責任に近づくだろう。

学校事故でも、裁判所の考え方は、実態としては無過失責任に近づいている。防ぎようのない事故でも、過失があったとみなされる。これは、学校は安全でなければならないという社会的価値観を裁判所が重視するからであり、ある種の価値判断だ。日本はそういう社会であり、裁判所は逆らえない。
学校では無過失の補償制度が必要ではないか。労災補償のような制度だが、それでも学校の責任を追及する裁判がなくなることはないだろう。



2024年3月28日
アメリカでの橋梁事故・・・・救助活動打ち切り

3月26日に事故が起き、その夜、警備隊が救助活動を打ち切った。・・・・日本人から見ると、救助活動の打ち切りが早すぎると思うのではなかろうか。
一般に、公的な救助活動は、生存の可能性がなければ打ち切られる。
日本でも同じであり、冬山遭難では、警察、消防の捜索、救助活動は数日で打ち切られる。遭難対策協議会も警察に連動する。あとは、遭難者の家族や友人らが捜索を行うほかない。

救急車は、事故直後であれば搬送するが、死亡を確認した場合は、被害者(遺体)を搬送しない。遺体搬送は家族がマイカーか霊柩車で搬送する。タクシーも遺体搬送を拒否する。病院も遺体を病院者車で搬送してくれない。多くの場合、救助隊員が死亡を確認していないことにして救急車で搬送し、病院で死亡を確認する。

ただし、日本では、警察、消防は政治で動くので、御嶽山の噴火事故、自衛隊関係の海難事故などでは、政治的な判断から1年以上も捜索活動が続けられた。これは特別扱いである。1年後も生存の可能性があったということではない。
山岳事故でのこのような特別扱いは、ほとんどない。雪崩事故の場合は、警察が生存の可能性があることにして、長時間、捜索することがあるが、不公平感は否めない。

冷たい海水に落下すれば、数十分で死亡するので、アメリカの公的救助機関は法律に忠実に生存の可能性がなくなれば、あっさりと捜索を打ち切るようだ。
日本であれば、公的機関が数日間は捜索して「救助」し(救助活動なので、遺体発見とは発表できない)、病院に搬送して死亡を確認するだろう。



2024年3月20日
登山リーダーの責任
・・・・オンライン講義

日本山岳スポーツクライミング協会・夏山上級リーダー講習会(関東地区)  実施日  2024年3月20,23,24日  

2024年3月18日
北海道新聞の記事

3月12日の北海道新聞の羊蹄山雪崩事故に関する記事に、僕のコメントが掲載されている。
記事では、「事故防止を目的とした冬山の規制は国内外でほとんど例がない」というコメントに
なっているが、僕が述べたのは、法的な規制についてである。
法的規制ではなく、行政指導による規制は日本では多い。富士山の冬山登山の禁止などが、行政指導による冬山登山の禁止の例だ。しかし、冬山登山の法的な規制は、群馬県と富山県の登山条例くらいのものだろう。バクカントリースキーの法的な規制はほとんどないが、法行政指導による規制は多いかもしれない。
法的規制と行政指導を区別することが重要だが、これを混同する人が多い。


2024年3月13日
バックカントリースキーの規制

事故防止のためにバックカントリースキーを規制すべきだという声が一部にある。世界では、エリアを定めて環境保護のために許可制にする場合がある。
アメリカの富士山ことホイットニー山では1日の登山者が100人程度に制限されている。しかし、欧米では、環境保護のために登山を許可制にすることは多いが、事故防止のために規制することはほとんどない。バックカントリースキーの規制はほとんどない。
夏の富士山で事故防止のために登山を規制すべきだろうか。
富士山では環境保護のためび登山を規制する必要がある。

事故防止のために登山を規制できない理由
・規制するのは危険な行為である。包括的にすべて禁止することは過剰な規制であり、憲法に違反する。バックカントリースキーでは危険性の程度が地形や雪の状況、時期次第で変化する。固定的なものではない。降雪直後は危険でも、数日すれば雪が安定して危険でなくなる。2月は危険でも、3月は安全なコースがある。危険かどうかを誰が判定するのか。役所が判定するとすれば、役所に専門家を置かなければならない。事故防止のノウハウは役所にはない。アウトドア活動の素人の公務員では判断できない。
・役所が危険かどうかの判断をすることは危険である。これは、中国が危険な行為を取り締まることをイメージすればわかる。国家にとって不都合な行為を規制することになる。
事故防止のために登山を規制しても、事故は減らない。富士山がその例だ。富士山では事故が増えている。
・効果のないことをするのは税金の無駄だ。規制をするには、役所の人件費がかかる。公務員のサービス残業で扱えば別だが。

・規制は、違反者に刑罰を課さなければ効果がない。危険な行為を処罰する国家は「危険国家」である。中国、ロシア、北朝鮮、戦前の日本がその例だ。
・日本では、行政指導としての禁止が多いが、これは、法的拘束力がなく無意味だ。アウトドア活動を禁止すると先進国と言えないので、それはできず、拘束力のない「禁止」をする。この禁止は国民には効果を持つが、対外的には、「日本は法的には国民のアウトドア活動を制限していません」と弁解できる代物であり、悪質である。日本の政治にはこのようなゴマカシ、いい加減さが多い。
・行政指導は欧米では稀であり、欧米人は行政指導としての禁止を理解できない。行政指導は、それに違反しても違法ではない。欧米人は、「できるのか、できないのかどちらなのか」と考える。行政指導は、法的には「できる」が世論から「禁止」だとして叩かれることを意味する。
・山岳スキーがオリンピック種目になったが、
バックカントリースキー人口が増えれば、山岳スキー競技が強くなる。クライミング人口が増えれば、オリンピックのクライミング種目が強くなるのと同じだ。オリンピックでやたらとメダルをとりたがる日本人は、バックカントリースキーの規制ができないのではないか。
バックカントリースキー事故で亡くなる人は多くない。年間、20人もいないのではないか。マスコミが大きく報道するので、j事故が多いと感じる人が多い。海難事故で年間700人くらい亡くなっているが、「海水浴を禁止しろ」と言う人は少ない。役所が努力しても海難事故がなくならない。事故防止のノウハウは役所にはない。


事故防止のためにできること
・行政ができることは、アウトドア活動の規制ではなく、警告表示、登山道の管理などである。アメリカやカナダでは、自然公園をフロントカントリーとバックカントリーに分け、前者はトレイル、標識などを整備し、後者は整備ではなく危険表示をする。カナダには、橋や標識が一切ない国立公園があり、危険だが、禁止しない。その代わり入山料100ドルを徴収し、入山者に約1時間の危険性の講義を行う。
・危険が生じれば、役所はトレイルをクローズするが、これは通行禁止ではない。欧米では、日本的な法的拘束力のない「禁止」はない。役所は危険情報を提供する。
・アウトドア団体や研究機関が、講習会、事故防止のノウハウ、研究活動、啓蒙活動を行っている。



2024年2月25日
伊吹山での事故
伊吹山で落石による死亡事故が起きた。
これに関して、伊吹山は、「登山禁止」、「入山禁止」、「伊吹山は登山自粛」などの報道がなされた。

「登山禁止」、「入山禁止」、「登山自粛」、「登山道の通行禁止」、「登山道の閉鎖」は、意味が異なる。
「登山禁止」は、登山はダメだが、観光などは認められる。
「入山禁止」は、観光で進入するのもダメ
「登山自粛」は、あくまでお願い、行政指導であり、拘束力がなく、登山をしても違法ではない。
「登山道の通行禁止」は、登山道以外の場所であれば、登山が可能。冬は登山が可能。
「登山道の閉鎖」は、禁止ではない。

これらを区別しなければ、法治国家とは言えない。

法律的には、おそらく、登山道の通行の自粛、もしくは登山道の閉鎖ではないか。これは、行政指導。
また、雪が積もれば、登山道が埋没するので、閉鎖は無意味になる。
管理する側からすれば、やたらと禁止を使いたがる。禁止すれば、許可された行為だけができる。これは、人は生まれながらにして不自由であり、国民は、国家から、許可された行為だけができるという考え方であり、江戸時代はこのような支配体制だった。明治以降も、似たようなものであり、現在でも、実態はこれに近い。学校や、会社はこの考え方だ。長谷川恒男が、「学校は刑務所のようだった」と述べたのは、このような意味だろう。



2024年2月23日
外国人登山者の遭難

外国人登山者の遭難の報道が多い。
外国人登山者の遭難件数の正確な報道はないが、おそらく増えているのだろう。富士山登山や北海道でのバックカントリースキーで外国人の遭難事例が多いようだ。
このような遭難がある度に、日本的な非難がなされるが、それでは遭難は減らない。
外国人の観光客が急増しているが、外国人の観光客が増えれば登山者も増える。「外国人の観光客を増やしたいが、登山者は増えてほしくない」が自治体のホンネかもしれないが、それは無理である。富士山などでは観光客と登山者を区別できない。ニセコでも、外国人スキーヤーがコース外滑降をするのだ。コース外滑降を禁止しても、バックカントリースキーを法的に禁止できない。
バックカントリースキーを禁止することは登山を禁止することを意味し、登山を禁止すれば日本は先進国の仲間入りができなくなる。中国やロシアですら、登山を禁止していない。北朝鮮であれば、登山を簡単に禁止できる。
登山を禁止すれば、観光を禁止することになる。登山と観光は区別できない。これは、観光登山や、高尾山、富士山、尾瀬、阿蘇山、上高地などのハイカーを考えれば、理解できるだろう。高尾山を歩く人は観光客なのかハイカーなのか。ハイキングは登山の一形態である。

外国人の観光客が増えれば登山者も増える。登山者が増えれば、事故も増える。これは避けられない。


欧米では、山岳事故の救助活動は役所が行っても、、山岳事故の防止は役所の仕事ではなく、もっぱら民間団体が行う国が多いようだ。役所が登山届を受理しない国が多い。欧米では、登山届は家族や山岳会などに出すべきであり、役所に出すことはないようだ。なんで、役所が個人の行動のことまでいちいち心配してやらなければならないのか?余計なお節介だ、という考え方。 日本とは発想が違うのだろう。


2024年2月22日
被災地でのボランティア活動
能登地震被災地で、重機によるボランティア活動が重宝している。ただし、重機での操作には資格が必要であり、事故が起きると業務上過失致死傷罪になるので、注意がいる。ボランティア活動でも重機の操作は「業務」である。これは、ボランティアで自動車を運転するのと同じだ。自動車の運転もボランティア活動であっても「業務」である。
また、ボランティア活動であっても民事上の注意義務がある。重機での操作は危険であり、相応の注意義務が生じる。医師などのボランティア活動も同じ。詳細は、拙著、「ボランティア活動の責任」(共栄書房)参照。

ボランティア活動は、労災などの保障はないが、責任を伴うということだ。被災地でのボランティア活動を労災などの保障の対象とするという政策もありうるが、日本はそうしていない。

被災地での重機使用は、無償であっても、ボランティアではなく、公的団体等がオペレーターを雇用して使用すべきだ。オペレーターは専門職の危険作業であり、給料の支払いがなされ。雇用保険が適用される。公的団体等は無報酬。




2024年2月18日
司法改革で必要なこと
国民の8割が利用できる弁護士費用の分割払制度。日本では弁護士費用にクレジットすら使えない。これは日弁連の策略か?
所得の少ない人は返還免除の司法支援制度が必要だ。

2024年
月2日

「登山道の管理や法的責任」講演 福島県、郡山市 環境省ロシアと中国のロシアと中国のロシアと中国

郡山市は遠方なので、2泊3日の旅行になった。
この日の郡山は非常に寒かったが、参加者は約130人。
参加者は、国、市町村、県、観光協会、山小屋などの関係者、山岳ガイドなど。
登山道の管理の問題に対する関心の高さがよくわかる。





2024年1
キリマンジャロ登山
年末年始、キリマンジャロ(5895m)に登った。
18年前頃から、高校の同級生でキリマンジャロに登る計画があった。
当初、60歳になって行く計画だったが、雇用延長などで実現しなかった。
次に、65歳になれば、ヒマになるのではないかと思われたが、コロナの影響で実現しなかった。
そして、68歳の今、実現した。
外国の高山に登りたいという人は多いが、たいてい願望だけで終わる。願望を実現するには、意欲が必要だ。
11日間の休暇をとることは、要職にあるサラリーマンには難しい。ようやく仕事から解放されると、年齢的に、体力、気力が衰えていることが多い。
しかし、今回、これが実現したのは、意欲が勝ったからだろう。
キリマンジャロは歩いて登ることができる山であり、特別な技術はいらない。日本国内で15キロくらいの荷物を背負って数日間の縦走登山をしている人には、キリマンジャロは難しい山ではない。ダイアモックスを飲めば、高度障害もほとんど出ないだろう。この日は、キリマンジャロの稜線にけっこう雪があったが、通常はキリマンジャロの稜線に雪はない。



  
この日の行動時間は、午後11時出発で、約17時間だった。夜中、降雪の中を行動した。