叙述トリックとは
ミステリにおいてしばしば使われる“叙述トリック”は、他の一般的なトリックとは異なるいくつかの特徴を備えています。
- [1] 騙す者と騙される者
叙述トリックは、文字どおり叙述によるトリックであるわけですが、この叙述――すなわち“語り”とは、情報の伝達(あるいは伝達される情報そのもの)ととらえることができるでしょう。そしてそこに関与するのは、伝達される情報そのものを間に挟んで対峙する、送り手と受け手(典型的には作者と読者(*1))のみ。したがって、叙述トリックとは情報の送り手が受け手に対して仕掛けるトリックである、といえます。
これは、作中の登場人物(例えば犯人)が他の登場人物(例えば探偵役)に対して仕掛ける一般的なトリックとの、大きな相違点となっています。
- [2] トリックの所在
通常のトリックでは、作中――仮想の物語世界――において、ある事象Aが別の事象Bに改変される(あるいは登場人物が事象Bと誤認させられる)ことになります([図1]参照)。したがって、トリックは物語世界の中に存在すると考えることができます。
[図1:通常のトリックの構図] 物語世界事象A ――→ 事象B これに対して叙述トリックでは、仮想の物語世界の中のある事象Aを、送り手(例えば作者)がA'と表現して伝達し、それを受け取った受け手(例えば読者)が別の事象Bだと誤認させられる形になります([図2]参照)。
[図2:叙述トリックの構図] 物語世界 事象A
――→送り手 叙述A'
――→受け手 誤認B [図2]からもわかるように、事象Aが物語世界の中で改変(または誤認)されることはないのですから、叙述トリックは仮想の物語世界の中ではなく、送り手がそれを表現した叙述の中にのみ存在するといえます。
- [3] トリックの解明
先の[図2]に示したように、通常のトリックとは異なり、叙述トリックでは物語世界の中の事象Aが改変されることはありません。すなわち、叙述トリックは物語世界に影響を与えない、と表現することもできるでしょう(*2)。
ところがこれは、原則として(*3)物語世界の中の登場人物は叙述トリックの存在を認識すらできない、ということを意味します。したがって、叙述トリックが仕掛けられた物語の登場人物は、叙述トリックによって隠された真相そのもの(例えば[図2]における事象A)を直接的に示すことはできる(*4)としても、叙述トリックを解き明かす(仕掛けを説明する)ことはできない、ということになります(*5)。
叙述トリックを使ったミステリでは時に、最後に示された真相がにわかに納得しがたいものになっている例が見受けられますが、これは真相そのものの問題というよりも、通常行われるはずの登場人物による解明がなされない(できない)という理由が大きいのではないでしょうか。また逆に考えれば、叙述トリックは原則として、真相を示すだけで受け手を納得させることができるような、ある程度シンプルなものにならざるを得ない、ともいえるでしょう。
もちろん、叙述トリックを認識できるメタレベルからであれば、トリックを解明することも可能です。叙述トリックを使ったミステリではしばしば、作中作などによるメタフィクションの形式が採用されますが、これもトリックそのものの要請だけでなく解明の必要性によるところがあると考えられます。
以上の三点は叙述トリックに特有の性質であり、叙述トリックと通常のトリックとを峻別する特徴といえるのではないでしょうか。
さらに、叙述トリック特有とはいえないものの、重要な性質として以下の二点を挙げることができます。
- [4] 偽の真相
トリックを、その目的に着目して“隠すトリック”と“騙すトリック”の二つに分けるとすれば、叙述トリックは明らかに後者に該当します。
例えば密室トリックやアリバイトリックの一部のように、どうやって実現したのかわからないという状況を生じるものは、真相を不明にするための“隠すトリック”といえます。これに対して、叙述トリックは真相が不明な状況を生じるのではなく、何らかの形で“偽の真相”が暗示される、“騙すトリック”となります([図3]参照)。
[図3:“騙すトリック”] 隠された
真相ミスディレクション
――――――――→偽の真相 つまり叙述トリックとは、受け手を“偽の真相”に誘導するトリックであり、真相の隠蔽とミスディレクションという二つの機能によってそれが実現されるということになるでしょう。
- [5] トリックの隠密性
-
安眠練炭さんの指摘(「叙述トリックについてのはしりがき」)を受けて、以下のように修正。
一般的なトリック――例えば密室トリックの場合、密室トリックが使われたことが明かされたとしても、“どうやって密室を構成したか”というトリックの中身が直ちに判明するわけではないので、格別の問題がないことがほとんどではないでしょうか(*6)。
これに対して叙述トリックについては、トリックが仕掛けられていることが明かされてしまうと、“偽の真相”が十分に機能しなくなる――それが“偽の真相”であることが見えてしまう――ため、(一般的には)それと対立する“隠された真相”まで見抜かれてしまうおそれがあります(理由については安眠練炭さん「叙述トリックについてのはしりがき」を参照)。特に、叙述トリックは[3]で述べたようにシンプルなものになる傾向があるので、なおさらその危険性が高くなります。
それを回避するために、叙述トリックはその存在自体が極力隠蔽されることになります。つまり、隠されてきた真相が示される時に初めて存在が明るみに出るのが、理想的な叙述トリックといえるでしょう。
- [6] 典型的な叙述トリックの機構
-
ここで、典型的な叙述トリックの機構を示しておきます。
[図4:典型的な叙述トリックの機構] 事象A 叙述A' 誤認B 情報a1,a2,...,an
―――→
↓
a1情報a2,a3,...,an
―――→
↑
b1情報b1,a2,...,an送り手に
よる欠落受け手に
よる補完a1及びb1がそれぞれ事象A及び事象Bを決定づける情報であり、a2,...,anが事象A及び事象Bのどちらとも矛盾せず、しかも全体として事象Bの方をより強く示唆する(*7)情報であるとします。この場合、送り手がa1を欠落させる(真相の隠蔽)とともに、a2,...,anをそのまま伝える(ミスディレクション)ことで、受け手がa2,...,anの示唆によりb1を補完してしまった結果、事象Bだと誤認することになります。
真相の隠蔽はミステリの大部分で一般的に行われていることなので、ミスディレクション――“真相”にも“偽の真相”にも当てはまり、なおかつ“偽の真相”の方をより強く示唆する情報(あるいは“表現”というべきか)――こそが、叙述トリックのポイントといえます。そしてまた、どのような情報をどのように扱うことができるかを考えれば、誤認の対象となる事象の選択が重要になってくることも間違いないでしょう。
もう一つ、いわゆる“信頼できない語り手”との関係について触れておきます。
- [7] 叙述トリックと信頼できない語り手
まず、似鳥鶏『叙述トリック短編集』巻頭の「読者への挑戦状」から引用します。
「叙述トリック」とは、小説の文章そのものの書き方で読者を騙すタイプのトリックです。たとえば、
犯人は「事件の時に一人だった人間」である。主人公は事件の時、「松方」という人物と話していた。だから犯人ではない、と読者は思ったが、実は「松方」という人物は実在せず、主人公が作り出した妄想であった。つまり主人公は、客観的には事件時に「一人」だったのであり、犯人は主人公である。
こういうやつです。この作品は主人公の視点で書かれており、「主人公にとっては松方は存在する」のだから、「松方が言った」とか書いても嘘ではない訳です。(後略)
(似鳥鶏『叙述トリック短編集』 講談社タイガ 8頁)この『叙述トリック短編集』は、収録された短編のすべてに叙述トリックが使われていることがあらかじめ宣言されている、実験的かつ意欲的な作品集ではあるのですが、「1-2 「叙述トリック」の定義――似鳥鶏と我孫子武丸 - 新・叙述トリック試論(孔田多紀) - カクヨム」でも指摘されている(*8)ように、上に引用した“叙述トリックの例”は何とも困ったものになっています。というのも、上の例はいわゆる“信頼できない語り手”の一種ではあるものの、叙述トリックではない(*9)と考えられるからです。それは、読者が騙される機構を以下のように図式化してみると、明らかではないでしょうか。
[図5:似鳥鶏による例] 作中の現実 語り手の認識 語り手の叙述 読者の認識 事象A
―――→
↑妄想B
―――→
叙述B
―――→
誤認B語り手に
よる誤認上の図のように、作中の事象A(松方は存在しない/会話していない)に対して、主人公が妄想B(松方は存在する/会話していた)という誤認を生じ、それを主人公がそのまま叙述Bとして語り、読者も語られた誤認Bをそのまま受け入れる――という流れで読者が騙されることになりますが、誤認が生じるのは叙述よりも前の段階です。読者が叙述を介して騙されるのは確かです(*10)が、叙述によって騙されるのではない――トリックの核心となるのはあくまでも作中の語り手の認識であって、叙述そのものには何らトリックが仕掛けられていないわけですから、叙述トリックとは到底いえないでしょう(*11)。
つまるところ、叙述トリックと“信頼できない語り手”は、実作者が混同してしまうほど似ている部分もある――特に、読者が叙述を信用することで騙される点、そして読者が何について騙されたか――のですが、そもそもは異なる概念であり(*12)、さらに、例えば「信頼できない語り手 - Wikipedia」に
“叙述トリックの一種”
と書かれているような包含関係にあるわけでもない、といえます。とはいえ、“信頼できない語り手”といえども、必ずしもすべての事象を誤認するわけではない(*13)、ということを踏まえると、叙述トリックと“信頼できない語り手”は決して排他的な関係――“信頼できない語り手”であれば叙述トリックではない、あるいはその逆――ではなく、両立できる余地があるのではないかと考えられます。例えば、上に引用した似鳥鶏による例を一部改変した、以下のような例ではどうでしょうか。
犯人は「事件の時に一人だった人間」である。主人公は事件の時、「松方」という人物と話していた。だから犯人ではない、と読者は思ったが、実は「松方」は人間ではなく人形であり、主人公は「松方」が人形と知りながらそれを明示せず、会話する妄想をしていた。つまり主人公は、客観的には事件時に「一人」だったのであり、犯人は主人公である。
(似鳥鶏『叙述トリック短編集』の例を筆者が改変)……期せずして(?)某作品ほぼそのままになってしまって恐縮ですが、これを[図5]と同じように図式化してみます。
[図6:改変した例] 作中の現実 語り手の認識 語り手の叙述 読者の認識 事象A
―――→
妄想B
―――→
叙述B
―――→
誤認B事象P
p1,p2,...,pn
―――→
認識P
p1,p2,...,pn
―――→
↓
p1叙述P'
p2,p3,...,pn
―――→
↑
q1誤認Q
q1,p2,...,pn語り手に
よる欠落読者に
よる補完作中の事象A(会話していない)から読者の誤認B(会話していた)に至る上段は[図5]と同様ですが、作中の事象P(松方は人形)から読者の誤認Q(松方は人間)に至る下段の方は、作中の語り手を介している以外は[図4]と同じになります。誤認Q(松方は人間)を引き起こす最大の要因となるのが、妄想B(に端を発する叙述Bの内容)であることに引っ掛かりを覚える向きもあるかもしれませんが、しかし語り手の叙述次第では成立しない、すなわち叙述P'によって成立するトリックとなっているのですから、誤認Qに関する部分に限れば十分に叙述トリックといっていいのではないでしょうか。
このように、“信頼できない語り手”と叙述トリックは両立し得る――正確にいえば、“信頼できない語り手”を利用した叙述トリックさえ成立し得ると考えられます。
| 作者 | ―― | 物語
| ―→ | 読者 | |||||
*2: 叙述トリックの大半は、別のトリックによってそれと同じ(あるいは類似の)現象を作中に生じさせることが可能なので、例えば[例を表示]といった形で、受け手(読者)と同時に作中の登場人物も騙すことができます。しかし、一見同じ(ように見える)現象であっても、登場人物は叙述トリックではなくあくまでも別のトリックによって騙される、ということに注意すべきでしょう。
*3: 物語の中に登場し、物語世界の事象をリアルタイムで語る一人称の視点人物が叙述トリックを仕掛ける場合は、その視点人物自身は当然叙述トリックを認識できることになります(一人称の叙述であっても過去の回想などの場合には、叙述トリックを仕掛ける語り手自身はメタレベルに位置すると考えられます)。
*4: 叙述トリックの種類によっては、これさえ(不可能とまではいえないものの)困難な場合もあります。
*5: 実際には、神のごとき洞察力を有する探偵役が、本来は認識し得ないはずの“読者の誤認”を(勝手に)想定するかのように、結果的に(あるいは間接的に、というべきか)作中で叙述トリックの種明かしをしている作品もないわけではありません――知る限りでは国内長編の例が三つあります――が、もちろんこれは例外です。
*6: 例外として一部のアリバイものについては、“アリバイものである(アリバイトリックが使われている)”ことを明かすべきでない場合がありますが、これは結果として“アリバイで守られている容疑者が犯人”だと見当がついてしまうことが問題であって、トリックの中身が露見するわけではありません。
*7: 主な原因は、受け手の先入観(もしくは偏見)ということになります。
*8:
“しかし、小説における語りの技術や構造(いわゆるナラトロジー、物語論)に多少詳しい方ならば、ここで(あれ?)と首を傾げるのではないでしょうか。似鳥の例は、「信頼できない語り手」について述べたものであると見做しても、完全に成り立つからです。”。
*9: 上に引用したように、孔田多紀さんはここまで断言してはいませんが……。
*10: これは実のところ、作中の登場人物が実行する一般的なトリックでも同じになってしまうわけですから、直ちに叙述トリックはといえないことは明らかでしょう。
*11: ついでにいえば、この例は似鳥鶏がいうような
“小説の文章そのものの書き方”よりもむしろ、“小説の文章に書かれた内容”で読者を騙すトリックになっていると思います。
*12: 詳細は、「1-3 「信頼できない語り手」と「叙述トリック」はどう違うのか? - 新・叙述トリック試論(孔田多紀) - カクヨム」などを参照。
*13: “信頼できない語り手”である以上、その叙述は総体として信頼できない、という考え方もあるかもしれませんが、そもそもフィクションであるからには、語り手がいくら非現実的なことを語っていてもそれが“作中の現実”でないとは限らない(そのような設定かもしれない)のですから、“信頼できない語り手”か否かは一般的に、作中の事実が判明・確定してから事後的に判断されることになりますし、“どこまで信頼できたのか”も同時に明らかになるのではないでしょうか(これは“地の文の嘘”についても同様だと考えられます)。
(2006.05.01一部修正)
(2023.02.19[7]を追記)
(2026.06.27全体を微修正)
叙述トリックの対象による分類
前項の[6]の最後に述べたように、叙述トリックにおいては誤認の対象が重要なポイントの一つであると考えられます。
例えば、物語の舞台となる具体的な地名や詳細な日時などは、作中で示されなくてもとりたてて不自然ではありませんが、ある人物の名前が示されることなく人称代名詞のみが使われるといった状況では、いささか不自然に感じられるのは否めません。このように、重要な(あるいは具体的な)情報をどこまで隠すことができるか、どのようにミスディレクションを仕掛けることができるか、といったところに、誤認の対象によって差が出てくるのは間違いないでしょう。
したがって、誤認の対象に基づいて叙述トリックを分類することには、なにがしかの意味があるといえるでしょう。そして、誤認の対象とは送り手から受け手へと伝達される情報の一部なのですから、伝達すべき情報を整理する際に使われる、いわゆる“5W1H”の考え方を参考にしつつ、以下のように分類してみます(*1)。
- 人物に関するトリック (誰が)
- 時間に関するトリック (いつ)
- 場所・状況に関するトリック (どこで)
- 物品に関するトリック (何を)
- 行為に関するトリック (どのように)
- 動機・心理に関するトリック (なぜ)
- その他のトリック
各項目の詳細については、「叙述トリック分類」(別ページ)にて説明します。
以下の項では、「叙述トリックとフェアプレイ」に関して思いついたことを書き連ねていますが、より厳密性を欠いた暴論になっているかと思いますので、その点はご了承ください。
叙述トリックとフェアプレイ(その1)
「叙述トリックとは」の[図4]には、送り手による情報の欠落と受け手による情報の補完に基づく叙述トリックの機構を示しましたが、これに対して次のような例はどうでしょうか。
| 事象A | 叙述B | 誤認B | ||
|---|---|---|---|---|
情報 a1,a2,...,an | ――→ ↓ ↑ a1 b1 | 情報 b1,a2,...,an | ――→ | 情報 b1,a2,...,an |
[図7]の例では、送り手が事象Aを決定づける情報a1を欠落させるとともに、事象Bを決定づける(事象Aと矛盾する)情報b1を追加して伝達し、受け手はそれをそのまま認識して騙されることになります。これは要するに、叙述が虚偽(嘘)を含んでいる場合です。
虚偽の情報を含む叙述によって騙すことは、叙述トリックには該当しないとする考え方(*1)が一般的でしょうが、叙述によって受け手を騙す手法には違いないはず(もちろん、全部が全部“叙述トリック”というつもりはありませんが)。にもかかわらずこれが“叙述トリックではない”とされるのは、“叙述トリックか否か”の判断以前に――おそらくは“地の文に嘘を書いてはならない”
という“原則”に引きずられて――フェア/アンフェアの価値判断が入り込んでしまい、“アンフェアな手法なので叙述トリックではない”と結論づけられている、ということではないかと考えられます。
とはいえ、叙述における“虚偽”を“作中の事実に反する情報”とするならば、例えば明示されない時系列の逆転――情報a1(日時に関する明示的な情報)を欠落させて情報b1(作中の時系列とは異なる叙述の順序)を追加する――などは、直接的な虚偽の記述がないとしても(*2)、厳密には“虚偽”に該当するように思われます。しかるに、これが一般に“虚偽”と見なされず、叙述トリックの手法としても許容されるのは、ミステリにとどまらず物語の技法の一つとしてすでに広く定着しているがゆえに手法の“アンフェア感”が薄い(*3)、というだけのことではないでしょうか。
このような手法そのものの“アンフェア感”については、十分に理解はできるのですが、前述のようにそれが“叙述トリックか否か”を左右するのは、さすがに筋違いというべきでしょう。また、このアンフェア感は“納得しがたい卑怯な手法”という程度の意味にすぎず、“読者に謎が解けるように書かれているか否か”という意味でのフェア/アンフェアとは、そもそも観点が違っている――というのは、“アンフェアな手法”といった表現が持ち出される場合、主にトリックについてのみ用いられるにとどまり、その際に“謎が解けるかどうか”にまで言及されることがほとんどない(*4)ところにも表れています。
実のところ、手がかりよりも伏線が重視される感のある昨今の(?)風潮をみると、手がかりが“伏線”としか受け止められていない――解明ではなく納得のためだけの材料になっている――のではないかと思える節があり、そうするとフェアプレイについても実態としては、“読者に謎が解けるか否か”から離れて、“提示された真相に読者が納得できればフェア”と判断されている部分があるのではないか、と推測されます。しかし“納得できるかどうか”だけで考えると、最終的には主観の問題になってしまうおそれがあるのが難しいところです(*5)。
ということで、ここでは“読者に謎が解けるか否かにかかわらず、“アンフェアな手法”であれば自動的にアンフェア”という線引きではなく、あくまでも“読者に謎が解けるかどうか”という観点でフェアプレイを考えていきます。
まず、一般的には以下の二点が、ミステリにおけるフェアプレイの原則とされています(*6)。
- 地の文に嘘を書いてはならない。 (以下、「原則1」という)
- 解決のための手がかりがすべて読者に提示されなければならない。 (以下、「原則2」という)
これについては、極楽橋水軒さんが“「地の文で嘘を書いてはならない」を弱いルール、「解決に必要なデータが予めすべて読者に提示されていなければならない」を強いルールと呼ぶ”
ことを提案している(*7)ように、「原則1」と「原則2」の効果が異なっていることは明らかです。すなわち、解決のための手がかりの提示を求める「原則2」が、読者が謎を解明できることを積極的に保証するのに対して、“地の文の嘘”を禁じる「原則1」は、読者による謎解きの妨げとなり得る要素を排除することで、読者が謎を解明できることを消極的に保証する性格のものといえます。
そして実のところ、「原則1」の方はフェアプレイの「原則」とまではいえない――“地の文の嘘”はアンフェアの類型にすぎない、といっていいように思われます。例えば、謎解きとは無関係の“嘘”(もしくは“誤り”)が地の文に書かれている場合(*8)などは、基本的に謎解きの妨げにならないことは明らかでしょう。そして謎解きに関わる“嘘”の場合であっても、読者がしっかりと“嘘”を見抜くことができるように書かれてさえいれば、やはり最終的には謎解きを妨げるとはいえないはずです。
ここでようやく冒頭の話に戻りますが、“虚偽を含んだ叙述トリック”といってよさそうなトリックが使われた作品であって、なおかつ読者が“虚偽”を見抜くことができるように書かれている――つまりは十分にフェアといえる作品の例を二つ、作品名などを伏せて紹介してみます。
- ・『作品A』の場合
-
『作品A』では、語り手が聴き手に対して語る物語――すなわち語りのパートにおいては一人称の地の文に当たる部分に、虚偽が含まれています。それに対して、聴き手に伝えられる物語の内部に加えて、その外部(メタレベル)である物語の“外枠”部分にも手がかりが配置されることで、虚偽が暴かれる形になっています(下の[図8]参照)。
[図8:『作品A』の手法] 作者 ―― 『作品A』―→ 読者 語り手 ―― 語り虚偽―→ 聴き手 ↑手がかり↑
↑↑手がかりおわかりかと思いますが、語り手の語りを“長い台詞”ととらえてしまえば、これは登場人物の偽証を他の手がかりによって否定する手順と実質的に変わるところはないので、地の文に虚偽があっても十分に解明可能――フェアであり得ることは明らかでしょう。
- ・『作品B』の場合
『作品B』では、作中作にトリックが仕掛けられています。作中作の形式をとっている――その作者である登場人物に責を負わせる(?)ことができる――とはいえ、メインの仕掛けは(作中作の)作者から直接読者に伝えられる情報に虚偽を配してある大胆なもので、(あまり指摘されていないように見受けられますが)実質的に“三人称の地の文の嘘”に等しいといえます。
解明はやはりメタレベル、すなわち物語の“外枠”部分から行われるものの、『作品A』と違って“外枠”部分には直接的な手がかりが存在しない(*9)のが特徴で、その代わりに、作中にも反映されている(と読者が想定できる)作品外の現実が、作中作の記述とともに手がかりとして用いられ、作中作の虚偽が暴かれることになります(下の[図9]参照)。
[図9:『作品B』の手法] 作者 ―― 『作品B』―→ 読者 書き手 ―― 作中作虚偽―→ 読み手 ↑手がかり↑
↑↑↑手がかり物語の“外枠”部分で示されている解明の手順は妥当で、作中作には多数の手がかりが用意されており、作品外の現実の手がかりと合わせれば、読者にも十分に解明可能となっています(*10)。さらにいえば、登場人物による作中作という形式のために読者が疑いの目を向けやすくなっている面はあるにせよ、前述のように“外枠”部分に手がかりが配置されていないため、作中作(の“問題篇”)だけを取り出して読んでも解明は不可能ではありません(*11)。
これら『作品A』や『作品B』のような例を踏まえると、虚偽を含む叙述であっても直ちにアンフェアとはいえない、ということになるのではないでしょうか。そして結局のところ、“読者に謎が解けるか否か”はトリックだけで定まるものではなく(*12)、手がかりとの関係によって大きく左右されると考えられます。次項ではそのあたり、特に叙述トリックと手がかりの関係について考えてみたいと思います。
“基本的な叙述トリックでは、あくまでも心理的な誘導を行うことがメインであり、意図的に偽の情報を与えるといった行為はこれに該当しない。あくまでも与える情報は「事実」のみである事が重要である。”と記されていました。
ちなみに2026年現在では、
“叙述トリックを用いる際、虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェアとして斥けられる。”とされています。
*2: 順序が変更された叙述だけをみれば、直接的な虚偽の記述とまではいえないかもしれませんが、章の番号などはどうしても順序を連想させるものですから、“虚偽”といってもおかしくはないのではないでしょうか。もちろん、あくまでも“読者に提示する順序”を示したものという見方もできますが、「13章」から始まる麻耶雄嵩『あいにくの雨で』などのように、積極的に作中の時系列を表す例もしばしばあることを考えると、かなり微妙なところがあります。
*3: 広く使われているために、もはや読者が当然想定してしかるべき手法の一つになっている、ということではないかと思われます。
*4: 私自身が、大山誠一郎「柳の園」(単行本版;『密室蒐集家』収録)の謎解きについて、“アンフェア”と評したことがありますが……。
*5: おそらくは当初から“読者を納得させる”ことを最大の目的として、探偵役による(論理的な)謎解きの手順なども含めた(本格)ミステリの形式が確立されてきたのでしょうが、その中で、より客観に近づいた指標――読者が納得すべき指標――として、“読者に謎が解けるように書かれている”という考え方が生まれてきたのではないでしょうか。
*6: 例えば、「推理小説#本格ミステリ - Wikipedia」では、
“本格であるためには、解決の論理性だけではなく手がかりが全て示されること、地の文に虚偽を書かないことが要求される”とされています。
*7: 小田牧央さん「*the long fish*」内の「犯人当て小説のためのフェア・プレイ変換の提案について:補足資料」を参照。
*8: これについては、“すべての記述が信用できなくなるので(問答無用で)アンフェア”という意見もあるようですが、これはさすがに極端すぎるのではないでしょうか。
*9: サブの仕掛けについては“外枠”部分に手がかりが配置されていますが、あくまでもメインの仕掛けを見抜くためだけであれば、そちらは不要です。
*10: ……と一応書きましたが、厳密にいえば“作品発表当時の現実”が手がかりとなっているため、事情が変わっている2026年現在では残念ながら、読者が完全に解明するのは困難になっています。
*11: 実のところこの作品は、極度の“綱渡り”であるがゆえに仕掛けが露見しやすくなっている部分があり、“難易度”が下がりすぎるのを防ぐために、“虚偽”を盛り込むことでバランスを取ってあるのではないか、と考えられます。
*12: したがって、あくまでも“読者に謎が解けるか否か”という観点でいえば、“アンフェアなトリック”も存在しないといっていいのではないでしょうか。
(2026.06.27改稿)
叙述トリックとフェアプレイ(その2)
前項では主にフェアプレイの「原則1」について検討しましたが、ここでは「原則2」、すなわち“解決のための手がかりがすべて読者に提示されなければならない。”
も加えて、さらに考えてみます……といいつつ、「原則2」は叙述トリックの場合は少々事情が変わってくるのですが、それについては後述します。
さて、手がかりが明らかに不足していればアンフェア、というのはまず衆目の一致するところでしょうが、必ずしも手がかりがすべて作中で明示されるわけではない――例えば、いわゆる“特殊な知識”と違って(*1)“一般的な知識”の省略はある程度許容される――ことを考えると、“手がかりが揃っているか否か”の線引きはやや難しくなります。つまり、どこまでが“一般的な知識”なのか、そしてどこまで作中で明示しなくてもいいのか、という点で、いわば“程度問題”になってしまうところがあります。
加えて、典型的には“地の文の嘘”で解決が妨げられる場合のように、たとえ手がかりがすべて揃っていたとしても、直ちに謎が解けるとはいえないことはご承知のとおり。つまり「原則2」は、フェアプレイの“必要条件”ではあるもののそれで“十分”ではなく、「原則1」と「原則2」をともにクリアすれば“読者に謎が解けるように書かれている”と見なされる、ということになっているかと思われます。しかしながら、““嘘”でさえなければフェア”というのは疑問の残るところで、例えば(引き合いに出して恐縮ですが)某作品の記述を若干改変した以下の例ではどうでしょうか。
私はその男に体を奪われてしまうかもしれない。
これは男性である“私”
を女性に見せかける性別誤認トリックの一環で、内面描写かつ可能性の想定にすぎないので“嘘”とまではいえませんが、少なくとも“私”
にも“その男”
にも同性愛の指向がないとすれば、男性としては著しく不自然な思考であるため、(手がかり次第ではありますが)“私が男性”という真相に到達することは相当に困難となるでしょう。このように、“嘘”でなくとも強力すぎるミスディレクションには、場合によっては“嘘”に近い程度まで読者の謎解きを妨げてしまう可能性があるわけで、““嘘”でさえなければ”というシンプルな線引きよりも、これまた“程度問題”ととらえる方が妥当だと考えられます。
これらの“程度問題”を踏まえると、ミステリのフェアプレイ――“読者に謎が解けるように書かれているか否か”は、「原則1」や「原則2」のように定性的な条件を満たせば達成されるというものではなく、本質的には定量的な問題(*2)だと考えるべきではないでしょうか。そして、当然ながら具体的な数値化などはまず不可能ですから、つまるところ、フェア/アンフェアについては――手がかり不足で明らかにアンフェアな場合を除いて――客観的かつ明確な線引きが不可能、ということになるでしょう。
……ということで、個人的には残念な結論に行き着いてしまいましたが、しかし裏を返せば、フェアプレイを定量的な問題として扱うことができるということですから、気を取り直して(?)その方向で考えてみます。もっとも、通常の謎解きの手順は複雑すぎてまったく手も足も出ないのですが、こと叙述トリックに限れば、以下に再掲する[図3]のようにシンプルな構造であるため、モデルケースとして扱える可能性があるのではないかと考えられます。
| 隠された 真相 | ミスディレクション ――――――――→ | 偽の真相 |
叙述トリックは図示したように、一つの真相が隠蔽されるとともに、ミスディレクションによって一つの“偽の真相”が暗示されるというシンプルな構造です。ここで、上の図においても矢印で示しているように、ミスディレクションは読者を“隠された真相”から“偽の真相”へと誘導するベクトルと考えることができます。そうすると叙述トリックの解明とは、少なくとも最終段階は(*3)必ずミスディレクションのベクトルに抗して“偽の真相”から“隠された真相”へと到達する形となり、したがって解明の手がかりは読者を“偽の真相”から“隠された真相”へと導く、ミスディレクションとは逆方向のベクトルになると考えられます(下の図を参照)。
| 隠された 真相 | ミスディレクション ――――――――→ ←―――――――― 手がかり | 偽の真相 |
“いくら何でも単純化しすぎではないか”と思われる向きもあるかもしれませんが、個々の叙述トリックは基本的に“ある一点”に関して錯誤を生じるものであり、一つの叙述トリック(一つの誤認)については一つの“隠された真相”と対立する一つの“偽の真相”が用意されるわけですから、その間で作用するミスディレクションや手がかりは、複数個が存在していても(形は違えど)機能は同じであるため、それぞれ一本化(合算)して考えることができるはずです。
ここでお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、フェアプレイの「原則2」――“解決のための手がかりがすべて読者に提示されなければならない。”
が、叙述トリックの場合にはそのまますんなりと当てはまらない、ということに注意が必要でしょう。手がかりがいくつあっても機能が同じということは、作中に配置された手がかりをすべて拾い上げる必要がなく、極論すればただ一つの手がかりで解明することも不可能ではないのですから、叙述トリックに関しては“必要なすべての手がかり”という概念が存在しないといえます。
したがって、「原則2」を叙述トリックに対応させて修正するとすれば、“解決のための手がかりが少なくとも一つ読者に提示されなければならない。”
という形になりますが、シンプルな構造ゆえに脆弱なトリックであるとはいえ、通常の謎解きに比べてハードルが低いといわざるを得ず(*4)、整合が取れていない感は否めません。
いずれにしても、上の[図10]をみると、叙述トリックの解明の困難さ(あるいは容易さ)を大きく左右するのは、ミスディレクションと手がかりのバランス――いわば“力関係”であることは明らかで、両者は完全に逆方向のベクトルであるために“大小関係”だけで考えることができるでしょう。そうすると、ひとまず以下のような式からなる【叙述トリックのフェアプレイ度数】を考えることができます。
- 叙述トリックのフェアプレイ度数=(手がかりの強度)-(ミスディレクションの強度)
このような式では、“正の値でなければアンフェア”と受け取られてしまうかもしれませんが、実際のところ、“トリックとして成立する”という前提からすると、手がかりよりもミスディレクションの方が〈強度〉が高くなるのが普通だと考えられます。つまり、フェア/アンフェアは“正の値か否か”ではなく、“どの程度0に近い値なのか”で判断するべきでしょう。
これだけでも何となくはイメージできるのではないかと思いますが、やはり〈強度〉とは何かが問題になってくるところで、その内訳をもう少し具体的に検討してみた結果、〈明確度〉・〈信頼度〉・〈不自然度〉・〈顕著度〉という四種類の変数を想定できると考えています。
- ・〈明確度〉
手がかり/ミスディレクションがそれぞれ、真相/偽の真相をどの程度はっきり示しているかの度合です。手がかりの〈明確度〉が高くなれば解明が容易になり、ミスディレクションの〈明確度〉が高くなる――“嘘”が最大――ほど解明が困難になるのはいうまでもありません。
トリックとして成立させる以上、手がかりはさほど直接的なものとはなり得ないでしょうし、ミスディレクションの方も“嘘”になるのを避けるために、漠然とした表現となる場合がほとんどでしょう。それでも、その中で多少の差があり得る――例えば、曖昧な記述によるミスディレクションよりも、ダブルミーニングの方が〈明確度〉が高い、といえるのではないでしょうか。また誤認の対象によっては、手がかりが“隠された真相”を(直接ではなく)間接的に示唆するという形で、〈明確度〉が低くなることも考えられます。
- ・〈信頼度〉
示された情報(手がかり/ミスディレクション)がどの程度信頼できるかの度合です。これは、手がかり/ミスディレクション単独で考えるとあまり意味がないかもしれませんが、両者の相対的な強度の比較を行う上では重要になります。
叙述トリックの場合、上の[図10]からもおわかりのように、手がかりとミスディレクションは矛盾する……とはいかないまでも、基本的に互いにバッティングすることになるわけで、そうすると真相を解明できるかどうかは、バッティングする記述のどちらを採用すべきか――“どちらがより信頼できるのか”にかかってくることになるでしょう。
- ・テキストレベル
前項で紹介した『作品A』や『作品B』のように、叙述トリックを使ったミステリでしばしばメタレベルの手がかりを用いて解明が行われるのは、テキストレベルで上位の記述の方がより信頼できる(信頼すべき)という暗黙の了解に基づくものです。例えば作中作は、直接的には作者ではなく作中の登場人物によるものであるため、作者による物語の“外枠”部分との〈信頼度〉の差は、自ずと明らかでしょう。また現実を基盤とした作品であれば、『作品B』のように作品外の現実をさらに〈信頼度〉の高い手がかりとすることもできます。
- ・三人称と一人称
三人称の地の文が、作中の登場人物を介することなく作者から直接伝えられる情報と見なされるのに対して、一人称の地の文は登場人物を介して伝えられる情報であるため、三人称の地の文よりも〈信頼度〉が低くなるのはいうまでもありません(*5)。
- ・客観と主観
さらに細かい話をすれば、同じ三人称の記述であったとしても、視点人物の内面描写は客観的な描写に対して〈信頼度〉が下がります。内面描写では、視点人物がそのように考えた/認識したことまでは事実であるとしても、考えた/認識した内容が作中での客観的な事実だと保証されるわけではありません。
一人称の場合は、すべてが視点人物の主観を通した描写となりますが、情景などの見間違い、音声情報の聞き間違い、文字情報の読み間違い、という順に(常識的には)蓋然性が低くなっていくことを踏まえると、文字情報の描写(*6)>音声情報の描写>情景などの視覚的描写>内面描写の順に〈信頼度〉が下がっていくと考えていいのではないでしょうか。
- ・〈不自然度〉
ミスディレクションが、“隠された真相”に対してどの程度不自然かの度合です(手がかりの方は“隠された真相”を示唆するものですから、当然ながらそこに不自然さはありません)。
ミスディレクションは、それ自体が読者を“偽の真相”へ誘導するいわば“引力”として作用すると同時に、“隠された真相”に対して不自然であればあるほど、読者を“隠された真相”から遠ざける“斥力”として加算されます。読者が“隠された真相”の可能性に思い至ったとしても、〈不自然度〉の高いミスディレクションと整合しないために、“隠された真相”を捨て去ってしまう――という状況が生じ得ることになります(*7)。
〈不自然度〉は基本的には〈明確度〉に比例すると考えられますが、例えばダブルミーニングは〈明確度〉が“曖昧な記述”よりも高いにもかかわらず、真相が明かされてみると〈不自然度〉が抑えられるといえます。また、先に挙げた
“私はその男に体を奪われてしまうかもしれない。”
という例は、“かもしれない”
ということで〈明確度〉が高いわけではなく、ついでにいえば一人称の内面描写なので〈信頼度〉も低くなりますが、“私”
が男性という真相からすると〈不自然度〉だけが突出して高くなります。ちなみに、ここで〈不自然度〉として想定しているのは、あくまでも真相に対して不自然な記述の存在です。真相を踏まえると当然あるべき事象が、作中で描写されていない(あるいは描写が不足している)例がしばしば見受けられますが、そのような描写の“不自然な”欠如については、作者の裁量による描写の省略として許容されるべきだと考えますし、何より、それ自体はミスディレクションというよりも――「叙述トリックとは」の[4]で述べたようにミスディレクションと協働する――真相の隠蔽の一環として扱うのが妥当だと考えられるからです(*8)。
- ・〈顕著度〉
手がかりが、どの程度読者の目につきやすいかの度合です(ミスディレクションの方は当然、手がかり以上に読者の目につきやすくなっているはずなので、考慮の必要はないと考えます)。
もちろん、手がかりが作中に存在しさえすればフェア、と考える向きもあるかもしれません(*9)。しかしながら、叙述トリックが仕掛けられた某作品の作者自身による解説で、
“しかし悲しいことに、このフェアな伏線のことは、誰にも気づかれていないのである”
とされていた(*10)ことを踏まえると、“誰もいない森の中で木が倒れた時、倒れる音がしたといえるのだろうか”という哲学的な問いよろしく、“手がかりに誰も気づかない時、それはフェアといえるのだろうか”という問題を考慮する必要があるのではないでしょうか。しかして、“目につきやすさ”とは何かと考えてみると、まず基本的には“数の勝負”で、数が多ければ当然読者の目に止まりやすくなり、前述のようにうまくすればただ一つの手がかりでも機能し得るのですから、いわば“数撃ちゃ当たる方式”で解明可能性を高めることができます。
もう一つ、前述したミスディレクションの〈不自然度〉といわば逆方向となる““偽の真相”に対する〈不自然度〉”が高い情報であれば、誤認している読者からすると強い違和感を生じて――いわゆる“浮いた”状態となって――印象に残りやすくなるはずです。ただし、手がかりとしての〈明確度〉が高ければ“隠された真相”が見え見えになりかねない一方で、〈明確度〉が低ければ一見しただけでは意味不明となる結果、単なる誤植と受け取られてしまうおそれがあるのが難しいところです。
以上説明したように、各変数は完全に独立したものではなく相互に関連する部分もあるので、さらに検討の余地があるかもしれませんが、ひとまずこれらの変数を用いて、【叙述トリックのフェアプレイ度数】を以下のように表現することができます。
- 叙述トリックのフェアプレイ度数={手がかりの(明確度+信頼度+顕著度)}-{ミスディレクションの(明確度+信頼度+不自然度)}
前項で紹介した『作品B』を例にとって考えてみると、
まずミスディレクションについては、
〈明確度〉は、はっきりした“嘘”なので[高]。
〈不自然度〉も、同じく[高]。
〈信頼度〉は、前述のように“三人称の地の文”に等しいとはいえ、作中作なので[中]程度でしょうか。
一方、手がかりについては、
〈明確度〉は、作中作で示される手がかりはそれなりですが、作中で示されない現実の手がかりが必要となる分、総体としては[低]。
〈顕著度〉は、作中作の手がかりが数多く配置されている(*11)上に、“偽の真相”に対する〈不自然度〉が高いものもあるので[高]。
〈信頼度〉は、現実の手がかりがミスディレクションより高い(*12)ので、総体としては[高]。
……ということで、ミスディレクションが非常に強力な割にはかなりフェア寄りで、個人的には十分にフェアといっていいのではないかと考えています。
繰り返しになりますが具体的な数値化は不可能ですし、だいぶ恣意的になっている部分もあるかもしれませんが、叙述トリックとフェアプレイについて考える上で、大まかな目安とすることができる可能性があるのではないでしょうか。
なお、この項については、七河迦南氏とのメールでの議論(*13)がきっかけで考えをまとめることができました。あらためてここに感謝いたします。
*2: フェア/アンフェアは“論理的に”定まるのではなく“数理的に”定まる、と表現することもできるかもしれません。
*3: 通常の謎解きを介して叙述トリックが解明されるような例もあるかと思いますが、どのような経過をたどったとしても“最後の一手”はこの形に収束することになります。これもまた、叙述トリックの特徴の一つといっていいでしょう。
*4: 裏を返せば、「原則2」が“十分条件”とまではいえないことが、よりはっきり表れているともいえます。
*5: 非常に特殊な例として、一人称同士でも視点人物の違いによって〈信頼度〉に差が生じる場合があります。
*6: 例えば、作中に登場する新聞記事の内容などは、仮に“信頼できない語り手”であったとしても、よほどのことがない限り事実として扱うべきだと考えられます。
*7: お気づきかと思いますが、これは“地の文の嘘”によって引き起こされ得る状況と同様で、この点からも、“嘘”を“著しく強力なミスディレクションの一種”ととらえるのが妥当ではないかと思われます。
*8: あるべき事象自体の不在が明言されていれば、あるいは他の描写などから不在が明らかであれば、話はまた別ですが。
*9: 前述のように、「原則2」の
“すべて”が“叙述トリック版”では
“少なくとも一つ”と変形される、ということもあります。
*10: これについては、
“フェアな伏線”(手がかり)を作中で示すことができないという叙述トリックの特徴が、“弱点”となって表れている感があります。
*11: 自力ですべて拾い上げるのは困難かもしれませんが、物語の“外枠”部分で解明が行われているために、数の多さがわかりやすくなっています。
*12: 物語の“外枠”部分を間に挟んでいることを考えれば、二段階の差があると考えてもいいのかもしれません。
*13: 当然ながら、必ずしも見解を同じくするわけではありませんので、念のため。
参考
- 香澄遼一「叙述トリック講義」(Internet Archive) (「HMC 本格ミステリクラブ(似非)」(Internet Archive))
- 「はてな - 叙述トリックとは」
- 安眠練炭「叙述トリックについてのおぼえがき」 (「一本足の蛸」)
- 安眠練炭「叙述トリックについてのはしりがき」 (「一本足の蛸」)
- 安眠練炭「第八の地獄」 (「一本足の蛸」)
- 小田牧央「犯人当て小説のためのフェア・プレイ変換の提案について」 (「*the long fish*」)
- 小田牧央「犯人当て小説のためのフェア・プレイ変換の提案について:補足資料」 (「*the long fish*」)