ユリさん、1970年代を語る


金子さんと共に過ごした二十代。モデルとして最高の仕事をした。毎日が楽しくて。

「19歳で結婚したので、わたしの20代はずっと金子さんといっしょでした。今年でもう20年になるんですね」
・・・・・・中略・・・・・・
そのころの彼女が、モデルとして女性誌の中で果たした役割は大きい。1970年3月、雑誌「アンアン」が創刊された。このまったく新しいタイプのファッション誌の専属モデルとして登場、雑誌の顔となったのが、立川ユリだった。その時、彼女は24歳。
「毎日が楽しくて、最高でした。それまではいろんな雑誌の仕事をしていて、当時は今とくらべてモデルの数も少なかったので、いくら売れていなくても1日に2つとか3つ、かけ持ちで仕事をしていたんです。
ところが専属になったんだし、そのころはアンアンも月に2回の発売だったので、そんなに忙しくはない。いい写真がとれますように、きれいに写りますようにって、それだけを考えていればよかったんです」
もっとも心砕いたのは、彼女でもやはり、太らないこと。
「写真では実際より太って見えますから、撮影のときはだいたい41キロを維持するようにしていました。撮影の日の1週間前からは、食事にも気をつかいます。甘いものには目をつぶって。わたし、甘いもの大好き。ケーキなら1度に2,3個も平気なんです。
・・・・・・中略・・・・・・
彼女の着るものは、ほとんどが金子氏のデザインだった。彼はデザイナーとして「アンアン」の専属だった。かつて、金子氏は、「ユリを一番よく知っているぼくが、ユリだけのためにデザインして、撮影の前日はふたりでレッスンするのだから、すてきでないわけはない」といった。それを受けて彼女はいう。
「金子さんの服は、どれをとってもロマンチックでかわいいし、大好き。結婚前にもよく作ってもらっていたけど、今度は仕事で次々と作ってもらえるんです。どの服もどの服も大好きだったけれど、刺繍をいっぱいしたウエディングドレスなんて、ほんとうにすてきだった。今でも、着ごこちもそのときのポーズも覚えているほどです」
立川ユリがモデルになろうと決めたのは、5歳か6歳のときだったという。
「おしゃれな母に連れられてファッションショーを見にいったんです。モデルさんが次々ときれいな服を着て出てくるのを見て、わたしも大きくなったら絶対にモデルになるって決めたの。大きくなるにつれて洋服がいっそう好きになったし、モデルの仕事は最高のものでした」
ドイツ人の父の血と日本人の母の血をひいた容姿は、モデルとして充分な条件を満たした。16歳になったとき、妹の立川マリとともにモデルの世界へ入った。
17歳のとき、この天性のモデルはデザイナー金子功と出会う。日本語にあまり自信のない混血の少女の心に、彼の服のかわいらしさと彼のやさしさは強く印象つ゛けられた。間もなく19歳と24歳の若い夫婦が誕生する。仕事の息が合わないはずはなかった。ロケも必ずいっしょだった。
「インドやネパールなど、個人的な旅では行けるはずもないところへ行けて、いい思い出もいっぱい。ネパールでは車ではもうこれ以上は行かれないというぎりぎりの、ヒマラヤのふもとまで行きました。掘っ立て小屋でハンモックみたいなベッドに寝るんです。寒くて寒くてこごえ死ぬんじゃないかって思ったこともあるわ。でも、いやだなんて一度も思いませんでした」
「それに、いつも金子さんといっしょだったから」と肩をすくめてつけ加えた。
ほっそりとしたからだと、細い声と、生活感のまるでない雰囲気の彼女は、情熱も野心もたぎらせはしないけれど、最愛の人に見守られて、仕事にかけた。インドでは1枚の写真のために伝染病の蔓延する町にも立った。そこであきらかに患者らしい人に手をさしのべられたとき、彼女はためらいつつも手を握り返した。美しい写真のためには、太らないことのほかにもすることが多くあったのだ。
立川ユリの出現は、以後のモデルの表情を変えたといわれる。それまでモデルといえば、とりすまして、たとえ笑っても歯は見せず、腕や足のポーズも決まりきっていた。ところが彼女は、歯をいっぱい見せて笑い、手や足は思いっきりのびのびとしていた。そのはつらつとした姿こそ、夫と、好きな仕事へすべてをゆだねて自然に生きている彼女の姿だったのだろう。
「金子さんは、とってもセンスがいいんです。いっしょにいて勉強になりました」
・・・・・・後略・・・・・・

With 1984年5月号 「私を変えた20代の出来事」より


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下の9行を追加

一番好きで想い出が多いのが「アンアン」です。私にも金子さんにも一番いい仕事だったと思います。

立川ユリさん、ご存知デザイナーの金子功さんの奥さんであり、一世を風びしたモデルでもありました。
モデルの仕事を始めたのは16歳のとき。「おばあさんのお友だちのお嫁さんがモデルをやっていたんです。そこに妹と2人で遊びに行ったときに、モデルにならないかと誘われたんです」
妹のマリさんは、そのころ14歳。初めての仕事は、”週刊女性”でした。当時はスタイリストという存在もなく、デザイナーがスタイリストも兼ねていました。
「ケンちゃんが、こう動いてと言うんでその通りにしていたんです」
コートの撮影でした。ケンちゃんとは高田賢三さんのこと。そして、後に夫となる金子さんも一緒の仕事だったのです。
当時の金子さんの印象はと言うと、「すごく大人しくて、いつも黒のコールテンのスーツを着ていたわ。大きな袋を持って仕事には常に遅れてきてもいたの。後に一緒になるとは、夢にも思いませんでした」
仕事をするうちに友情が生まれ、それが愛に変わってゆきました。結婚したのは、出会いから2年たってから。もちろん結婚後もモデルは続けていました。
モデルの仕事の重大な転機は、アンアンの創刊でした。昭和45年のこと。
「アンアンが始まってからは、他の仕事は全部やめてしまったんです」
それくらいアンアンにとってもユリさんは重要な存在でした。毎号のように表紙を飾るカバーガールとも言えるモデルだったのです。
「なにしろ毎日が楽しかったわ。1年に3,4回外国に行ってたのよ。インドとかモロッコとか、ふつうだったらあまり行かれないところも行ったし……」
当時の想い出のいっぱい詰まったアンアン、ユリさんは今でも大切に保存しています。
「アンアンが一番好きだったし、一番いい仕事もできたの。私にも、金子さんにもアンアンが一番いい仕事だったと思います」
それだけ好きで夫婦でも打ち込んだアンアンの仕事も2年あまりでやめることになります。
「モデルをやめて金子さんとピンクハウスのお店を始めたの。お店にずーっといました」
お客さんとの応対もしました。けれどちっとも売れませんでした。
「あーいうの全然だめなんです」
お店には、一粒種惣太郎くんが生まれるまで顔を出していました。
子どもが生まれて生活は一変しました。初めて家事にも挑戦しました。
「大変は大変だけど、やっぱり子どもってかわいいから」
それ以来、金子さんの服のモデル以外の仕事はしていません。朝、昼、晩の食事を作り、よき母、妻に徹しています。惣太郎くんに手がかからなくなってきたのが、少し寂しいというユリさんです。

クロワッサン1988年3月10日号(No.248) 「アルバムの棚おろし」より

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