はじめて大橋歩さんに会ったとき、彼女はまだ多摩美術大学の油絵科の学生で、間もなく卒業するというころだったと思う。クレパスの濃いブルーと、濃いセピアのほとんど2色で描いたような数枚の作品をもって私のところにあらわれた。その当時の若い男性の風俗を描いてその絵の強烈で新鮮な個性に私は一目惚れしてしまったのである。よし、表紙はこれでいこう、と、私は決心した。
人生は出会いだというけれど、私と大橋歩さんとの出会いは、その後の私の編集者人生の方向を決定的なものにした。雑誌つ゛くりはまず表紙からだという私の信念は、彼女のイラストレーションを表紙に起用したときから一貫している。もし、大橋歩さんに出会わなかったら、「平凡パンチ」の創刊は不成功に終っていたと思う。かつて「平凡」は美空ひばりとともにだったが、「平凡パンチ」は大橋歩とともにだった。
このなつかしい”平凡パンチ表紙集”は、もっともっと早く出版されるべきものだった。10年はおくれてしまったように思う。これはまったく私の怠慢と責任である。彼女にはたいへん申訳ないことをした。しかし、10年遅れたとはいっても、その新鮮な魅力はいまもいささかも変りなく、むしろ、より一層輝いているように思える。彼女の青春がそこにある。1960年代から’70年代への貴重な風俗画であろう。大正から昭和にかけての日本の代表的な風俗画家であった竹久夢二は雑誌の表紙や口絵、便箋や楽譜の表紙などを描いて一世を風靡し、いまもなおその抒情は多くのファンをとりこにしているが、私は、大橋歩こそ現代の竹久夢二だと思っている。
彼女はいまファッションデザイナーの金子功氏のために、ピンクハウスのイメージを描いている。この作品はすばらしい。私は、ニューヨークやパリやミラノで、このファッション画の展覧会をぜひやるべきだと思う。高田賢三や三宅一生や山本寛斎が、世界の檜舞台で評価されているように、きっと彼女のイラストレーションも拍手で迎えられることだろう。
彼女の多才ぶりにはもう一つ驚くことがある。彼女はスタジアムという自分のブティックをもち、そして経営していることである。このブティックは、青山通りの紀ノ国屋の裏通り、目立たない場所にあるのだが、若い女性客に人気があって繁昌している。彼女のデザインした子供のパジャマやTシャツや、ノートブック、絵ハガキなどの商品を売っているのだが、それぞれに楽しく魅力的である。大正から昭和にかけて、竹久夢二が港屋という店をもっていたことにも共通している。まだまだ、さまざまな可能性を秘めている大橋歩さんへの私の期待は大きい。
「平凡パンチ臨時増刊 大橋歩表紙集1964−1971」(1983年12月3日発行)より