映画のページ
2004 USA 96 Min. 劇映画
出演者
Johnny Depp
(Mort Rainey - 売れっ子作家)
John Turturro
(John Shooter - 田舎の無名作家)
Maria Bello
(Amy Rainey - モートの妻)
Timothy Hutton
(Ted - エーミーの恋人)
Charles Dutton
(Ken Karsch - 弁護士)
Len Cariou
(Dave Newsome - 保安官)
Joan Heney
(Garvey - 家政婦)
John Dunn-Hill
(Tom Greenleaf - 村の住民)
見た時期:2004年5月
スティーヴン・キングを推理小説作家、探偵小説作家と言わずホラー作家と言うのには一理あります。呪いが出て来たり、幽霊現象が出て来たり、SF 風になってしまうことがあり、推理小説の原則をを外れるからです。与太話でも楽しく語ってあればいいというのが私の意見でもありますが、私の好きな与太は映画や芝居に限られます。映画や芝居ではびっくりさせられるのが大好き。本を読む時は推理小説と銘打ってあれば原則は守ってもらいたいのです。ですからキングに推理小説作家というタイトルをつけず、ホラーなど別なジャンルの冠をかぶせるのは、楽しみ方を間違えずに済むので助かります。彼の小説はそういう意味ではミステリー・ファンの方にはちょっと興醒めかも知れません。それでもある程度辻褄を合わせようという努力があり、多少探偵小説のフレーバーもあります。映画にすると楽しくなりそうな作家なので、文筆業界にこういう人がいるのは業界が豊かになっていいです。私の自分がミステリー・ファンという枠を取り去ってしまうと、キングはあまり期待を裏切らないエンターテイメントの作家だと思います・・・とわざとトーンと落として書いてみました。彼が探偵小説作家だなんて思っている人はいないに決まっているのです。あはは。
ジョニー・デップのファンにはシークレット・ウインドウは「ぱっとしない」と言われるかも知れません。人間心理の絡んだ脚本を書いている人が監督に収まって作っています。ですからけちょんけちょんに言うほど悪くはありませんが、今一つインパクトに欠けます。この筋、この監督、この俳優だったらもう少し、とつい欲張った希望を抱いてしまうのです。
原作はスティーブン・キングの Four Past Midnight I の作品の1つ秘密の窓、秘密の庭で、ランゴリアーズというタイトルで出版されている本の後ろ3分の1ぐらいがこの話です。友人の好意で私も読む機会があり、ランゴリアーズを夢中になって読みました。どんどんストーリーに引き込まれ、長いのにあっという間に読み終えてしまいました。その後どうやら秘密の窓、秘密の庭も読んだらしいです。自分のことなのに「らしいです」というのは変ですが、あまり記憶に残っていませんでした。しかし本が《読んだ》という方の棚に入っていたので読んだはずです。随分いいかげんな記憶ですが、映画を見ているうちに「この話どこかで知っている!」と気づいたのです。予告を何度も見ましたが、その時もタートゥーロの台詞で「この言葉どこかで聞いたことがある」と思いました。しかし本を読んだとまでは覚えていませんでした。年だなあ。
前半はキングもこれなら満足というぐらい原作に近いです。売れっ子作家モートが無名作家ジョンに「お前、俺の作品パクっただろう」と言われ、ストーキングされるところから物語が始まります。ジョンは自分の書いた原稿をモートに押し付けて出て行くのですが、その後家の付近で妙な事が起き始めます。特にひどいのは飼い犬を殺される事件。頭に来て村の警察に報告。作家はスティーブン・キングかと思うように書かれているような感じでもあり、架空の人物のようでもあり、微妙なおもしろさを出しています。モートは妻と別居中で田舎の別荘暮らし。妻は町中の以前夫婦で住んでいた家に暮らしています。
ジョンに反論するモートは証拠になる作品の出版年を挙げます。モートの作品はエラリー・クイーンのミステリー雑誌に掲載されていて、ジョンの言う年よりやや古いのです。それで雑誌を見つけそうになると、その直前に現在妻が住んでいて、モートンの私物がまだ全部置いてある家が全焼。放火です。ジョンが怪しい。
次にモートとジョンが田舎で言い争っている時に近くを近所の人が通りかかったので、証人になってもらおうとすると、その男と調査に当たっている男が殺されてしまいます。
盗作の無実を証明する手だてが1つ、また1つと消されて行きます。しかも犬の命だけでなく、人の命も危険。その上モートは自分が正気なのかノイローゼなのかも分からなくなる寸前で、危ない。半年ほど前妻が男とモテルに泊まっているところに乗り込んでピストルで脅したという出来事があったのです。今スランプで筆が進まないのもそれが引っかかっているからで、妻とは協議離婚の真っ最中。ですから妻抜きの新しい生活に慣れねばならず、そこへストーカーとあってはちょっとストレスが多過ぎるのです。その上ふと思いついて本を開いて見ると、なんと一言一句ジョンが置いて行った原稿とそっくり。やはり自分は盗作をしていたのか・・・、いや出版された年は・・・。観客にも筋が読みにくくなって来ます。
ところが演出の方はあまりぱっとせず、せっかくの名優タートゥーロの才能もやや無駄遣いの感があります。デップもナインス・ゲートから工夫も何もせず横滑りで登場。2人とも他の作品で素晴らしい演技を見た事があるため、私は期待してしまったのです。
後半は小説と違う筋運びで、特に大きな違いはラスト。映画の最中に何度もタートゥーロの口から「肝心なのはラストだ」と言わせているのですが、キングのハッピー・エンドを止め、監督は怪しい終わり方にしています。それもどういうわけか上手に生きていないのです。
些細な違いは別として、まず結末が全然違っています。死ぬのも後半は別な人。映画には出て来ないシーンというのもあります。モートの頭がノイローゼ気味という前提はそのまま生かしてあり、彼の心理状態が事件を引き起こすようにはなっています。映画で無視された感があるのは、モートの精神に負担をかけた可能性がある過去の事実。小説ではそれが引き金にという説明がなされていますが、映画ではこれは生きていません。離婚のショックは映画でも小説でも取り上げていますが、小説の方がモートが自分の弱さ、伴侶が去るという事の影響を強く感じているように描かれています。ジョニー・デップが手を抜いたのでしょうか、彼が演じるとぐうたら男がまた独身になって家を散らかしているという風になります。しかし彼はベストセラーを書いて金は充分なので、家政婦を雇えるわけです。
アメリカでもドイツでも、そして最近では日本でも離婚が大流行で、周囲の雰囲気に押されて簡単に別れてしまう人が多いですが、一緒になる時も別れる時もよく考えて見ると大事業なのです。結婚してから起きた問題を解決する負担と、別れて新しくやっていく負担にはあまり大きな差がないように思えますが、こういうのは識者か経験者に比べてもらって話を聞かないと何とも言えません。キングは小説ではこのあたりをモートにあれこれ語らせて、木目細かに出しています。
しつこい男ジョンを演じるのにタートゥーロを連れて来たのは名案ですが、彼ならここで背筋がぞっとするような雰囲気を出せたと思います。それは不発弾。デップとタートゥーロが演じているのはロスト・ハイウェイのビル・プルマンのような役。アイデンティティーのように細分化されてはおらず、わりと分かり易いのですが、読者、観客に対してはあくまでも別人として登場させているので、ネタはキング自身が読者、観客に説明をしないと分からない仕掛けになっています。フェアな探偵小説になり得ないのはそのため。
小説では最後に保険会社の調査員が生き残った人と会見して説明があるので、読者も納得という終わり方をします。映画では別な人が生き残り、謎は残っているが、調査が続くぞという終わり方をします。私は小説を読み直しましたが、読んでしまったら、ああ、そう言えばこういうのあったっけというような程度の記憶。しかし映画館で見た結末と違っていたなあというのは覚えていました。キングが脚本執筆に関与していたのかはまだ解説の類が出まわっていないので、分かりません。映画化に際しては彼は時々注文をつけることがあると聞いています。シークレット・ウインドウにもつけたんだろうか。
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