ベルリンのページ

土に帰る

弔いの辞

2007年5月

今日管理人の L 氏が土に帰った。

欧州で土にかえると言うと本当に土に帰るのである。L 氏は私の住むアパートの管理人だった。10年ぐらい前だったか引っ越して来た。以前の管理人が引退し、次にあまり良く機能しない管理人に代わった後、L 氏がこの職についた。アパートの住人に管理人をやらせる習慣のあった大家の意向だったのか、本人がやりたいと言い出したのかは分からない。私の所にもやらないかと話が来たことがあるぐらいだから、大家は気軽にその辺の人に声をかけるのだろう。

L 氏には適性があった。今時珍しいぐらいきちんとした仕事をやる人で、当時は体力もあった。大工仕事、左官屋の仕事もこなせたが、毎朝ごみの収集に合わせ早起きしてごみ箱を所定の位置に置いたり、早朝雪が降る冬の日には皆が起きる前に起き出して雪かきをした。こういう雪かきはベルリンの習慣だが、朝4時頃に雪が積もっているのか確かめて起き出して来るのは楽ではない。L 氏は嫌がりもせずきちんとやっていた。

アパート一般の仕事の他に私が倉庫の電気を消すのを忘れていたら知らせてくれたり、細かい事にも気がついた。私が中庭で自転車の手入れをしていると覗きに来て話し掛けたりするので、何時の間にか親しく口を利くようになった。

L 氏の人柄を知ったのはあることがきっかけだった。このアパートでは幾組か男性や女性が2人ずつ親しくしている。ゲイかも知れないが違うかもしれない。中年、壮年に入り1人暮しの男性や女性が特定の誰かと家族的な関係を結ぶと言うのが実情だろう。ベルリンには意外なほどたくさん身寄りの無い人が暮らしている。

L 氏の過去については私は何も知らない。タイプからすると妻子など家族がいてもおかしくないのだが、現実には誰も見かけたことが無かった。その代わりに同じアパートに住む S 氏と親しくしていた。ある日 S 氏に発作が起き入院したらしい。私は入院する少し前何か生活上に良くない事が起こったらしい S 氏を家の前で時々見かけた。

およそ幸せとは遠い険しい顔をし、時にはアルコールの匂いをさせて家の前に立っていた。ドイツ人は暇な時自分の家の前に立ってボーっとしていることもあるのでその事自体は不思議ではない。しかし S 氏の顔は何か非常に腹立たしい事か困った事が起きたらしいことを物語っていた。失業かそれに似たような出来事だったらしい。私もその頃自分の存在を否定されるような出来事に遭遇していたし、同じアパートの他の住民にも良くない事が起きていた。

それから少しして私は S 氏が車椅子に乗り、L 氏が押しているのを見た。S 氏は入院していたらしく、発作が起きて体が不自由になったそうだ。脳溢血か何かを起こしたのだと思う。ドイツ人は日本人と比べるとかなり若い年でもこういうことになる人がいる。その時酒を飲んだ理由はもしかして仕事上のトラブル、あるいは失業だったのではないかと私は今でも考えている。

いずれにしろそれから S 氏はかなり大変だったと思う。いつのまにか S 氏のアパートは1階になっていた。ほとんど毎日 L 氏が S 氏の車椅子を押して散歩に出ていた。S 氏は全然嬉しそうではなかったが、L 氏はリンカーン・ライムのご機嫌斜めを無視するトムのように、相手の気分とは無関係に外気に触れさせていた。1年以上経って私はある日 S 氏が車椅子無しで散歩に出るのを見た。L 氏が付き添っているが S 氏は自分の脚で歩いていた。非常にゆっくりで、びっこを引いているがとにかく自分の脚で歩いていた。

それまでも散歩中の2人に出会うと挨拶をしていたが、S 氏が歩くのを見て「やった!」と思った。合計で何年だったろうか。私の事故より前の話だから S 氏の発作は2年以上前のことだ。事故よりさらに2年はさかのぼるのではないかと思う。L 氏の努力はかなりの根気が要ったはずだ。

私が L 氏の病気を知ったのは最近のことだった。確か去年だったと思う。持ち主不明の鍵束を見つけたので、「鍵拾った。まもなく L 氏に届けるぞ」と表に張り紙をし管理人が家に戻って来たら渡すつもりだった。そうしたらその鍵は L 氏の物だった。癌で化学療法をやり手足の感覚がボケ、そのため時々物を落としても気づかないと後で本人が言っていた。癌だという話を聞き、ビタミンを取ったらいいなどと時々話をしていた。L 氏は一頃に比べると痩せていたが、まだ衰えているという感じではなかった。

私が最後に話をしたのは今から1ヶ月ちょっと前。かなり痩せてはいたが、それなりに元気そうで矍鑠としていた。ところがそれから間もなく亡くなってしまった。場所はすぐ近所のホスピス。友人に見守られながら静かにこの世を去ったそうだ。

私は病院に行くほど親しくはなかったが、葬儀に参列する程度には親しかった。S 氏が葬儀を仕切ることになった。その時初めて L 氏には葬儀に参列する身内が1人もいないことを知った。親しかったのは25年来の仕事仲間の S 氏と近所の飲み屋に集まる友人。

今日葬儀に参列した。合計16人だったが身内はゼロ。無縁墓地に葬られた。高級なお茶の入れ物のような容器に灰が入れられ、それを20センチ四方で深さ40センチ程度の穴に埋める。その時皆1本ずつ花を一緒に埋めた。それでおしまい。L 氏の名前は《今日の埋葬》という告知板に今日書かれただけで、明日からは L 氏がどこに埋められたかを知っているのは私たち16人だけだ。

花は持って来なくていいとのことだったが数人が持って来た。私も白菊を供えた。簡易教会のような建物で仲間の1人が1分ほど弔いの言葉を言い、それだけが式典だった。この人が話し終わったとたんに、葬儀をする墓地の係員が出て来て、灰を収めた容器を持ってすぐに墓地の一箇所へ向かう。色々な埋葬の方法があるが、特に何も注文をつけないとドイツでは遺骨ではなく本当の灰になる。私たち16人がその後に続く。そして上に書いたように灰の入った容器をを地中に埋めておしまい。

来ていた人たちは付き合いの長さは違うが、L 氏に好感を抱いていた。天気予報は雨と言い、参列していた時は曇っていたのに、いざ埋葬となったらお日様が顔を出した。まさかと思うようなタイミングで太陽が顔を出し、無縁墓地で後から場所が分からなくなってしまうはずの場所をまるで指差すように筋になって照らしたのである。あまりでき過ぎていて、映画かと思うほどだった。時期的にはベルリンがもっとも美しい時期。新緑の墓地に L 氏は埋葬された。

享年66歳だったのだが、私は L 氏を10歳ぐらい若く見積もっていた。元気のいいベルリン人で、管理人としては隅々にまで目が届くのに、ちまちまとした細かい性格ではなかった。ベルリン風の大雑把でワハッハと笑う人だった。

葬儀が終わった後ドイツ人は集まって飲み食いする。故人を偲ぶドイツのやり方である。私は L 氏なら幽霊になって家を徘徊してくれてもいいと言った。飲み友達も賛成した。身内がいなくても悲しむ人が16人いた。最後に目を閉じる寸前に一緒に泣いてくれる友達がいた。身寄りの無い人でも L 氏の付き合いは長屋のようだった。完全に忘れ去られることはなさそうだ。

残されて気の毒なのは20歳ほど若い S 氏だった。S 氏は L 氏と反対に10歳ほど年上と言われてもおかしくない。老けているのではないが、66歳なのに56歳ぐらいに見えた L 氏と、46歳なのに56歳ぐらいに見えた S 氏は25年付き合っているうちに似たのかも知れない。

葬儀に参列した人たちの大半が L 氏の行き付けの酒場に来て、軽食を取りながらあれこれ話した。葬儀は早朝行われ、その後皆でここへ来たが、午後に入って大嵐になった。ドイツには時たま局地的に嵐が来る。その地点だけ台風か竜巻のようになる。雨の降るはずの日に野外で灰を土に戻している時には日が差し、酒場で皆が集まって弔っている時には雨と風の大嵐になる。そして人が帰り始める時には雨が上がりまた日が差して来た。こんなことって本当にあるんだろうかと私は思った。

L 氏はこうしてベルリンで生まれ、育ち、働き、今日ベルリンの土に1人で帰って行った。

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