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墨攻 / Muk gong /
Battle of Wits

張之亮/Jacob Cheung Chi-Leung

2006 China/J/Korea/HK 133 Min. 劇映画

出演者

劉徳華/Andy Lau Tak-Wah
(革離/Ge Li- 墨家の策略家)
香港

Wang Zhiwen
(梁王/Liang Wang - 燕の王)
中国

Choi Si-Won
(梁適/Liang Shi - 燕の王子)
韓国

Ahn Sung-Ki
(巷掩中/Xiang Yan-zhong - 10万の大軍の指揮官)
韓国

Fan Bing-Bing
(逸悦/Yi Yue - 燕の女性兵士)
中国

Nicky Wu Qi-long Wu/Ng Kei-Lung
(子団/Zi Tuan - 弓の上手い兵士)
台湾

午馬/Wu Ma
(司徒/Si Tu)

錢小豪/Chin Siu-Ho
(牛子張/Niu Zi Zhang)
香港

Hung Tin-Chu
(Gao He-yong)

見た時期:2007年12月

冬のファンタ参加作品

前日1本しか見なかったので、偶然アンディー・ラウが連続しました。

たっぷり2時間以上かかる時代劇で、これが中国人のメンタリティーか、ようやく学んだなどと思ったら、最後にクレジットで小学館とか原作日本などというのが出て来る仕掛になっています。

ちょっとずっこけますが、原作者は酒見 賢一という九州のサラリーマン。どうも中国に詳しい人のようです。森秀樹という人がその話を漫画にしたそうで、どうもそれが小学館だったようです。映画は漫画版に近いとのこと。

日本が嫌いだというアンディー・ラウが日本人が書いた話に主演してくれたのはうれしい限りです。大歴史物語を中国で作ると聞いてもあまり食指が動かない上に、夜宴のような大コケもあるので、内容については全然期待していませんでした。ただただラウさまを見に行ったわけで。それにしては出来が良く、さらに言うならアンディー・ラウは日本人が言いたいだろう事を上手に出していました。中国人のメンタリティーが・・・という話をするなら、ラウさまだけ日本人だったような感じもします。

2日続けて、しかも間に他の映画が挟まらずにアンディー・ラウを見たのですが、スターとしては努力をしている人だと感じます。前日の門徒の林昆とは全然違う人物になっています。全体がちょっと長過ぎて、しかも皆がだらだらと話ばかりしているので、じっと見ているのはちょっとしんどいですが、ラウの切り替えは良く、それぞれ様になっています。下手にハリウッドへ進出などせず、アジアに居残り、色々な役をやったのが得策だったように思います。

私は中国語には疎いのですが、どうも前日は香港の言葉を、この日は中国本土の標準語か何かを話していた様子。香港の映画では登場人物が関西弁を思わせるのんきな話し方をするので、中国語を習ってみようかという気になるのですが、墨攻では皆がしゃっちょこばった官僚のような口調。映画の筋がそうだから受けた印象なのかも知れません。誰がどんな言語をしゃべっているのかは結局良く分かりませんでしたが、前日とは全く違う雰囲気でした。ラウさまは香港の言葉をしゃべっていると滑稽な事を言っているのではなくてもユーモラスに思えるのですが(それでファンになってしまった)、あの厳しそうな音の中国語ですと習うのはちょっと後回しに・・・と思ってしまいます。日本女性がフランス語の方が柔らかそうで感じがいいからと、ドイツ語を習うのを止めてフランス語になびいてしまうのと似ています。

物語は簡単明瞭。砂漠のど真ん中かと思えるような荒涼とした地に、砦がぽつんと建っていて、その砦を落とそうという大軍と、守ろうとする少数の住民、兵士の攻防戦です。登場人物は10万の大軍を率いる趙軍のリーダーが巷淹中、梁という城に住む兵士と農民合計4000人ほどに知恵を授ける墨家の策略家が革離(ラウ)、他に主要な人物としては粱の王、王子、女性兵士などがおり、失業対策に映画でも作ろうと思ったのか、恐ろしい数のエキストラも出演しています。

ちょっと配役に無理があるかと思うのが女性兵士。演じた女優が悪いとかではなく、あの時代に女性がこんな役割を軍の中で演じたことは無いのではと思えてしまうのです。ましてラウとああいう風な親しさを演じると、時代から言って無理があるのではと思えてしまいました。別に妬いているわけではありません。

もうひとつはラウ贔屓の私には全然問題ではないのですが、あの時代のあの中国でああいう日本風の考え方の人物が、日本風の考え方を通せただろうかということ。中国といのは今も昔もとてつもないエネルギーの国で、ガンジーのような話は通らないのではないかと思うのです。日本は中国から文化的に多くの影響を受け、たくさん入って来た中で合うものを国内に定着させていったのではと思います。ラウが演じたような人物像は日本のような外から滅多に攻撃を受けない国では良く根付く性質のもので、大きな大陸の、人種が違う人たちも混ざり、遊牧民も多数住む国で、しょっちゅう戦争をしていて根付くだろうかと思いました。中国から日本にまで伝わった文化の中には、日本で千年以上生き続け、中国ではとっくに死に絶えてしまった事もあったのではないかと思ったりもしました。

中国というのは長い歴史の中で政権交代が何度かあり、一旦政権が変わるとそれまで支配階級だった官僚や学者たちが処刑の危機に瀕し、日本へ亡命し、日本名をつけて帰化してしまった人もいます。行き着いた国日本が平和だったものだから、理想的な考え方が定着できたという面もあったのではないかと素人ながら考えています。

2時間ちょっとで中国文化のお勉強を駆け足でやろうと横着を決めたら、逆に日本中心の比較文化の授業になってしまいました。

小国がどうやって国を守るか、大軍を前にどんな方法があるのか、戦わざるを得ない時があっても原則は非暴力を目指すなどのテーマが扱われており、理想主義が見え隠れしますが、今の日本が置かれている状況を考えると、誰かがこういう事に考えをめぐらし小説を書いたというのは納得が行きます。見終わってクレジットを見てずっこけたとは言え、こういうストーリーを今映画化するのもタイムリーだと感じた次第です。

主人公の属する墨家は墨子に起源を持ち、10のルールを守る人たちで、戦略家。最終目的は平和で、自分の方からは相手を攻撃しません。戦うのは攻撃を仕掛けられた時。どこかの国の法律に似ているような、似ていないような。

墨家の革離は梁城が敵に囲まれ、4000対100000の戦いを目の前にしている王から依頼を受けて単身赴任。趙の敵兵が10万もいるのに頼りなさそうな男が1人フラリと砦にやって来たので、梁城にいる燕の人々はいささか頭に来ています。敵は全員が武装兵士なのに対し、燕の人々は一部農奴のような人たちで武装兵士ではありません。あまり愛国心がある言えない梁王は自分の首もかかっているというのにあっさり白旗を揚げる準備を始めています。彼の周囲は大勢の役立たずの官僚が取り囲んでおり、王は飲んだくれ。冒頭ちょっと期待を持たせるのはまだ若い王子。

この官僚集団には腹が立ちますが、実はこういう所にこの映画のテーマが隠れており、腹が立てば立つほど作者や監督の意図が伝わって来ます。中国の官僚集団は国を滅ぼしかねない規模で、恐ろしく長い間この伝統でやっていたという事を高校の授業で先生に聞いたのですが、それを俳優で演じてくれたのがこのシーンです。私は最初から終わりまでほとんど公立だったのですが、当時の先生は物知りで、自分で趣味で研究をしていたり、元大学教授だったり、そして授業中におもしろい話をしてくれる人がちょくちょくいました。税金がまともな使われ方をしていたように記憶しています。

ちなみに大勢の官僚に煩わされるのが中国だけではないのは周知の事実。欧州でも聞く話ですし、日本からも似たような話が聞こえて来ます。困ってしまうのは非常に優秀な人たちと、既得権益を守ろうと古いしきたりにしがみついている人たちが混在するところ。そして上に立ってその非常に優秀な専門知識を生かす人がたまたまいるか、たまたまいないかも運。

さて、乞食のような格好で砦に到着したラウさまは、圧倒的に不利だとはすぐ理解するのですが、それでも相手に一泡吹かせてやろうとしてそれなりの成果を収めます。状況分析の結果持久戦に持ち込めばそれなりに生き残れるかも知れないという事を言い出します。

時々エピソードが入ったりしますが、全体としては作戦合戦。火のついた矢を放つかと思えば、はしごをかけて城壁を登ってみたり、熱湯だか煮えたぎる油だかをぶっ掛けて相手を追っ払ったり、あれこれ知恵を絞ります。敵も巧みで、正面から弓矢で攻撃してくるだけでなく、間者を送り込んで来たり、地下トンネルと掘ったりと夜眠る暇もありません。

大戦争の進行の横でエピソードは革離の内面的な問題もいくらかかすり、墨家とはどういう考え方をする人たちの集まりなのかも示し、さらにラウさまのロマンスまで混ざるので、どれも不充分になってしまいます。そのため見た人は私も含め「また大型歴史ドラマに引っかかった」と思いながら家に帰りました。結末は大軍を率いていた趙が別な国に攻め込まれ、砦1個に関わっている暇が無くなり、燕は難を逃れます。

そりゃ無いぜというエピソードもあります。たった今まで周囲を敵に囲まれびくびくしていた王が、自分が助かったと思ったら、それまで持ちこたえるのに尽力を尽くしていた恩人を消してしまおうとするのです。彼が民衆の心をつかみ、自分はつかんでいないことを自覚していたためです。皮肉なことにそのラウさまを救うのが卑劣な王の息子。ラウさまを助けるために自分が命を失います。1人息子を失った王、それ見たことか、恩をあだで返そうとするからだ!賢い息子は死に、ラウさまは去るから、次は護る人がいないぞ、10万の軍はあっちの戦争に片がついたらまた来るぞ、などと思ってしまいました。

この段階ではまだ中国の話を見た気でいました。週末が終わり、次の週に入るにつれじわじわと効き始め、その次の週末には「あれは結局日本の視点で撮った作品だった」との結論に近づきました。

今の日本は周囲を必ずしも友好的な国に囲まれたとは言えない状態になっています。色んな所でねじれが生じた現在、ストレートに国を守れる状態にはありません。武器も使えるでしょうが、日本の伝統としてあまりそういう手段は使いたくない。これまでは平和、平和と言っていれば良かったですが、最近はそうも行かない。そんな状況を国と時代をずずーっとずらして表現したような気もします。

その主人公ラウさまは日本人をよく研究したような、あるいはそういう脚本を手渡されてよく理解して演じたような印象でした。彼をあのまま日本につれて来て、戦国時代に世の果敢無さを嘆く武将か僧侶の役をあげても様になったのではと思いました。目つきがすでに日本人になっていました。

長い作品で、エピソードもたくさんあったのですが、そんな話はすっ飛ばして、今日はラウさまに注目して見ました。

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