January.31,2001 女性の気持ちがわかったら

        映画館で予告編を見ていて、これは見に行くぞ!と思ったのが『ハート・オブ・ウーマン』。ある日、あらゆる女性の心の声が聞えてくるようになってしまった男の話。主演がメル・ギブスン。いまだかつて女性にモテた例(ためし)のない私は、「いいなあ、女性が何を考えているか分かったら、ひょっとしてモテる男になれるんじゃないか」なんて思ってしまった。でもなあ、これはあくまでメル・ギブスンのような二枚目で男らしい主人公だからモテるんじゃあるまいか?

        広告会社のやり手のクリエイティヴ・ディレクターのメル・ギブスンは、主に男性向け商品のCMを手がけ、ビキニ姿の女性を全面に押し出す広告展開で社内の注目を集めていた。ところが、次に広告会社が乗り出そうとしているのは、女性用品の広告。女性用品は女性のディレクターでないと理解できないと、社長は新進の女性クリエイティヴ・ディレクターのヘレン・ハントをブレイン・ハンティングしてくる。

        面白くないのはメル・ギブスン。女性用品の宣伝くらいできると、まずは指にマニキュアを塗り、アイ・シャドウを塗り、無駄毛を処理し(ガムテープのようなもので、スネ毛を一気に剥がす。ううっ、痛そう!)、パンストを履いてみる。そのとき、ある事故で突然に女性の心の声が聞えてくるという超能力を得てしまうのだが、それは見てのお楽しみ。ちょっとムリがあると思うのだが、話を進めるための苦肉のアイデアかな?

        最初は戸惑っていたメル・ギブスンだが、やがて女性の考えていることが手に取るように分かることを利用してうまく立ちまわり、全ての女性から好感度を得るようになっていく。ライバルのヘレン・ハントも蹴落とせるまでになるが、そこでふたりは恋に落ちてしまう。ありがちな展開ですな。

        女性の心が読めるようになるキッカケになる原因がちょっと弱い気がするが、よく出来たコメディで、メル・ギブスンも、「この人って、こんなにうまい役者だったっけ?」と思わせるところがある。フランク・シナトラの曲に合わせて、50年代ミュージカルのような踊りを披露したのには、びっくり。

        「いいなあ、女性の考えていることがわかったらなあ」という私のスケベ根性は、だからといってどうにもならなかったが、実際に全ての女性の心の声が聞えてきてしまったら、鬱陶しくてかなわないだろうなあ。それに、実際に意中の女性のハートをこの能力で掴めたとしても、こんな能力を持っていると相手に知られたら、プライドが高い女性という感性は、絶対に許しはしないだろう。

        日本の配給会社のキャッチ・コピーは、「聞いてほしい、スーツを脱いだ私の心」であり、「女心をわかってくれる男を見つければ、ほんとの愛にたどり着けるの―――?」だから、明らかに女性をターゲットにしているらしい。監督も女性のナンシー・メイヤーズ。脚本もほとんど女性で書いているから、ほとんど女性の立場から作られた映画らしいのだが、ほんとに女性って、こんな結末で納得するの?

        この映画のホームページを覗いてみると[恋愛力テスト]なるものがあり、男女別に質問が分かれていて、面白がってやってみたら、なんと私の恋愛力は10。「あなたはとんでもない経験を持っているようです。手ごわい女性もあなたの呪文でメロメロ状態では?」 ウソだ、ウソだあ! そんなことなら今ごろこんな苦労はしてないわ! 「そんなあなたならどんな女性も必ずデートに誘えるはずですから、是非゛この女性!゛という大本命とご一緒に『ハート・オブ・ウーマン』を御覧になってください」だと! くそっ! テイのいいコマーシャルじゃねえか! きっと恋愛力1なんてなった人は、「この映画を見て勉強してください」なんて書いてあるんだろうなあ。


January.26,2001 三池監督、今度はパクリですか?

        一昨年の暮に見た三池崇史の『DEAD OR ALIVE 犯罪者』は、完全に私の頭をぶっ飛ばしてしまった。このときのことは、このコーナーで書いた。それまであまり三池監督の映画を面白いと思わなかった私も、これにはハマった。やられた!と思った。

        ところがだ、去年の三池監督にはまた裏切られたという感が強い。見る前からビビッてしまい、前売り券を買いながらついに見ずに終わってしまった『オーディション』(だって凄く痛い映画だっていうんだもの!)はこちらの怠慢だとしても、また、恐ろしく評判の悪い『サラリーマン金太郎』はパスしちゃったとしても、あの大評判の『漂流街』のつまらなさはどういうことだろう。場面ごとのインパクトは強烈なものの、なんだかまとまりのない映画だったという印象しか持てなかった。さらにはWOWOWで放映された『多重人格探偵サイコ 雨宮和彦の帰還』。これいったい何なの? 私はひたすら退屈してしまった。

        そして、昨年末ついに『DEAD OR ALIVE2 逃亡者』がレイトショウ公開された。初日の夜にテアトル新宿に行ったら劇場の前は騒然としていた。舞台挨拶があるということもあったのだが、凄い数の人間が集まってきていた。整理券を出したもののさらに人は続々と集まり、劇場側の人がパニックを起こしていた。ダメだこれは。諦めてこの日は帰宅することにした。

        今年になって、もう空いているだろうと出直してみた。さすがに入れたが、けっこう客が入っている。同じ事は二度とやらないという三池監督の言葉どおり一作目でみせたオープニングの疾走感はなし。静かな立ちあがりを見せる。というより、もう別もの。単に竹内力と哀川翔が出ていて三池崇史が監督しているというだけ。設定もまるっきり違う。哀川翔の殺し屋があるヤクザの組長を殺す依頼を受ける。ビルの屋上でライフルのスコープを覗きながらターゲットを見つめて引き金を引こうとすると、組長の側にいた男(竹内力)が突然、組長をピストルで射殺する。さらには側の幹部やガードを皆殺し。びっくりした哀川だが、もっとびっくりしたのはその男が、かつて同じ孤児院で育った幼馴染みだったのだ。

        このあと、ふたりは故郷の沖縄へ向かう。ここから沖縄での、のんびりした生活の描写がしばらく続くのだが、これって、北野たけしの映画みたいではないか? おやおや三池監督、今度はたけしの真似ですかい? と思っていたらば舞台は一転、大阪へ。上の写真を見てもらえば分かるように、ふたりの背中に黒と白の羽が・・・こ、これって、昨年のファンタスティック映画際で上映され、近々一般公開される『処刑人』でないの? さ、さらにですね、この写真の下に写っている、ふたりを狙う三人組の殺し屋のポーズ。どうみたって『パルブ・フィクション』でしょうが! タランティーノまでいただきなの? 三池監督。

        ふたりが、きつねうどんを食べるエピソードが最後に効いてくる脚本は面白い。このシーン、普通の監督が撮ると、かなりウェットになってしまうと思うのだけど、さすがですね、カラッと撮ってみせた。いろいろと不満もあるけれども、三池監督のドライなパワーは健在。次回作に期待しましょう。といっても、もうその『天国から来た男たち』はすでに完成。さらにはその次の『殺し屋1』も撮影中。こっちは原作のコミックを読んだけれども、これまたかなり痛い話で、また尻ごみしてしまうかも。


January.21,2001 これがいきなりビデオとは!

        去年、WOWOWの『シネマ・シネマ・シネマ』などで紹介されていて、公開されたらば是非見に行こうと思っていた『Bowfinger』ですが、レンタル・ビデオ屋の棚を見てびっくり。なんと、いきなり『ビッグムービー』というタイトルになってビデオ化。スティーヴ・マーティン、エディ・マーフィの喜劇だというのに日本では客が呼べないということなのか。なかなかスティーヴ・マーティンの笑いって日本では受けないらしい。脚本をスティーヴ・マーティン自身が書いていて、監督が『イン&アウト』のフランク・オズ。それでも劇場公開は無理かなあ。

        スティーヴ・マーティンの役どころは、ヒットに恵まれず借金の催促だらけというハリウッドのプロデューサー役。ある日、傑作だと信じられる脚本を手にする。宇宙人の侵略テーマのSF。これは絶対にヒットする。主演はエディ・マーフィー演ずるハリウッドの人気俳優しかいない。さっそく出演交渉に乗り出すが、鼻であしらわれる。しかも制作資金も、ほとんどない。ハリウッドに憧れる田舎娘を騙くらかしてヒロインに据え、売れない役者を動因。スタッフは、メキシコから不法入国してきた連中を使って、監督は自分が買って出て撮影を開始する。肝心のエディ・マーフィーの部分は[どっきりカメラ]よろしくゲリラ撮影。別撮りしたほかのフィルムとモンタージュ編集させると、あれまあ、画面が繋がる。このへんが映画の魔術で笑える。

        もっとも撮影が進むにつれ、ゲリラ撮影だけでは無理なのが分かってくる。そこで見つけてきたのが、エディ・マーフィーのそっくりさん(エディ・マーフィーの二役)。そっくりというだけで、演技力はからきしという設定。こうして、撮影はクランク・アッブ直前にまでにたどり着くが・・・。人気俳優を演じるエディ・マーフィーは、怒鳴り散らしてばかりいる鼻持ちならないスター。そっくりさんの方は、ちょっと頭の足らない男の役。これが同じ人物が演じているのかというくらい顔の感じが変わる。目の表情などまさに別人。この人ってあまり好きではなくて、映画が入ってきても見なかったのですが、ちょっと考えが変わってきた。

        そして、必見なのがラスト・シーン。完成した映画を見た台湾の映画会社からオファーが来る。よおし、台湾に行って映画撮影だ! こうして完成したのが『FAKE PURSE NINJAS』 日本語字幕では『コピー・バッグ・ニンジャ』 倉庫で竹の笠を被ったアジア人女性達(!)が偽ブランドのバッグを作っている。そこへ登場したのがオレンジの格闘着のエディー・マーフィーのそっくりさんの方。たちまち、偽ブランドを作るマフィアと格闘が始まる。さらには、スティーヴ・マーティンも、やはりオレンジの格闘着でどこからともなく登場。すると黒装束の忍者の群れが天井から綱を伝って現れる。これがもう、香港映画の良質なパロディとなっていまして、大笑いすることを保証します。『最終絶叫計画』など、私にはさっぱり笑えなかったのだが、パロディとはこうやるものだという見本。最後まで見終えてから、この最後のパロディ部分だけ何回も見なおしてしまった。それくらい笑えました。


January.16,2001 今度のゴジラを擁護すると

        昔の話を書くのもいいですが、少々照れますね。さて、ようやく今の話ができる。

        TAVERNでの長崎くんの『ゴジラXメガギラス G消滅作戦』批判。まったくその通りだと思います。ずさんでアラだらけの脚本だというのは納得します。ブラック・ホールを作りだしゴジラを完全に消滅させてしまおうというのはアイデアとしては面白いものの、どう考えても無茶だし、一度建物を消滅させただけで実戦に使うというのも、登場人物のひとりがが言うように無茶な話。その結果、古代昆虫生物が出てきてしまったのに、関係者がその因果関係に気がつかないようなのもヘン。

        また、あの晩言っていたようにゴジラとメガギラスの戦闘シーンも、どうも飛ぶ怪獣の重量感とスピード感の無さには興醒めします。平成ガメラ三部作の方が戦闘シーンに迫力があるのは認めます。ただ今回のゴジラは、スタッフがやる気になっているなという感じが、ひしひしと感じられるものでした。生嶋くんの言うように、ラストのお台場の決闘シーンは、じっくりと時間をとり、それなりに私は興奮しましたけれどね。

        何といっても、しん平師匠の言うように、ずさんな脚本ながら、クレジット前までの設定を見せる方法がシビれるのです。しん平師匠の落語を借りてちょっと、なぞってみましょうか。

        ようするに、ゴジラは何故、日本を襲うのかという原点に帰った発想がいい。オープニングは古いニュース映画。1954年、水爆実験により目覚めたゴジラが東京を襲う。終戦後の廃墟から立ち直ろうとしていた東京は大打撃を受ける。政府は、首都を大阪に移す。大阪城と国会議事堂を合成した映像。まっ、ちょっと不自然な合成だけと゛、いいか。

        1966年、ゴジラは東海村の原発を襲う。かくして、政府は原子力発電をあきらめ、火力、水力、太陽光、風力の発電を計画することになる。

        1996年、ついにクリーン・エネルギー発明。重水素を原料にしたプラズマ・エネルギーだ。ところが、出来たばかりのクリーン・エネルギー・ファクトリーだというのに、タンク(?)から中性子が漏洩(おいおい、そりゃないだろ)。またもやゴジラは、新首都大阪に上陸。完成したばかりだというのに(実際にそのタンクがくすんでいるのはどうして?)、プラズマ・エネルギー・タンクを破壊。

        ゴジラに勝手な真似をさせておくばかりにはいかない。ところが、最強の怪獣ゴジラを相手にするというのに、重火器を搭載した戦車や、ミサイル砲を搭載したジェット機は出てこない。何故? ゴジラに敢然と闘いを挑むのは13人の自衛隊特殊部隊。隊長は、平成版ガメラにも出ていた、制服姿の似合う永島敏行。そういえば昔、私はこの人に似ているといわれたことがありましたなあ。今や見る影も・・・自分で言ってちゃ世話無いけど。

        13人の自衛隊特殊部隊は、戦闘用トラックの荷台に乗り、ゴジラが暴れまわる大阪の市街に向かう。その中には、女性隊員辻森桐子(中山美里)の姿もあった。桐子は、目前に迫ったゴジラとの闘いとの恐怖に震えている。そこへ永島敏行隊長のカツが飛ぶ。「辛かったり怖かったりする時こそ戦え、逃げるな!」

        ゴジラが大阪のビルの谷間を行く。自衛隊特殊部隊は2〜3人単位に分かれてゴジラを追う。「いいか! ゴジラにだって必ず弱点があるはずだ! 足の付け根を狙って撃て!」 ズシン、ズシン!とゴジラが地響きをたてて近づいてくる。その震動でゴミ箱が倒れる。中からスタッフさんが小さく切った白い紙がパラパラ。ちょっと引く。ゴジラの足がビルの間からヌッと出てくる。「よし今だ、撃て!」 バズーカ砲を撃つ中山美里。どうもこの人、真剣な表情になると目が藪睨みになってしまうのが気になるのだが・・・。それにしても、ゴジラ相手にバズーカ砲ねえ・・・。

        怒りに燃えるゴジラ。ゴジラが隊長と桐子隊員の方を向く。と、他所からほかの隊員たちが、また足の付け根を狙って撃つ。ゴジラは今度はそちらの方を向こうとするが、狭いビルに挟まれて思うように体を回転できない。じれてビルを破壊し始めるゴジラ。コンクリートの塊がバラバラと降ってくる。

        「撤退! 撤退だあ!」隊長の声が飛ぶ。この辺がおかしいのだが、隊長の撤退命令は絶対なものがあるはずだ。ところがまだ撃ち続ける桐子隊員。桐子の撃ったバズーカがヒューンと弧を描いてゴジラの喉元に命中する。怒り狂ったゴジラはまたビルを壊す。「撤退だあ! 命令を聞け!」と繰り返す隊長。そこへコンクリートの塊が永島敏行隊長の頭に落下。即死である。それを見てキッとなった中山美里は、またバズーカ砲を肩にゴジラに狙いを定める。そこにシャキーン、シャキーン、シャキーンとタイトル。「ゴジラ代×メガギラス G消滅作戦」のタイトル文字。カッコイイと思いません?

        「逃げるな、戦え」という隊長の言葉が、逆にアダとなってしまう結果になってしまったのだが、このあと、ゴジラとの戦いが個人の弔い合戦的構図になっていくというアイデアは面白いと思う。どうも、隊長に桐子は実は恋愛感情を持っていたというニュアンスもあり、なかなか面白くできている。ただ、中山美里がねえ・・・。シガニー・ウイーバー級の強い女のイメージになれという要求ではないけれどねえ・・・。

        長崎くん、こうなったら、いよいよ脚本家裕木陽の出番ですよ。以前から暖めているという『新・ゴジラ×モスラ 凡作ゴジラ映画消滅作戦』の脚本を東宝に叩きつけてやりましょうよ。


January.12,2001 私がエキストラで出ている唯一の映画

        なんだか昔の話ばかりしているが、前回からの行きがかり上『任侠外伝 玄海灘』にエキストラで出た話を書いておこう。

        『大地の子守歌』騒動(?)の半年くらい前だったと思う。夜遅く帰宅した私は風呂に入ったあと、くつろいでいた。そこへ電話が入った。ある小さな映画雑誌の編集者だった。この雑誌ではホームページによく登場する、生嶋くん、長崎くん、安渕くんらとよく手伝いをしたりしていた。
「あっ、井上くん? 昼間から何回も電話してたんだけど、ようやく捕まったね。今から川崎へ来ない?」
「か、川崎ですか? なんでまた川崎に?」
「今ね、映画のロケ現場なんだよ。これから撮影が始まるところ。現場でエキストラを欲しがっているんだけど、来てくれない? ノー・ギャラなんだけど、完成したら試写を見せてくれるっていうんだけど。あっ、ここにはね、生嶋くんも長崎くんも、もう来ているんだ」
「わかりました。終電が近いけれど、なんとか行かれると思います。で、川崎の何処へ行けばいいんですか?」
「川崎の駅の近くのストリップ劇場だよ」

        ストリップ劇場? 何をやるつもりなんだ? 私は初めてそのストリップ劇場に行った。もう灯りも落ちていて、何処から入っていいのか分からない。ここかな?と楽屋口から入ったら、踊り子さんが目の前にいた。
「あのう、エキストラで来たんですが、客席には何処から行けばいいんですか?」
「ええっと、私よくわからないんだけど、おそらくこの通路を通っていけばいいんだと思うんだけど」
あれっ? 踊り子さんが劇場のことを分からないってどういうことなんだろう―――と思った瞬間に気がついた。あの人は、この映画に出ている李礼仙だ!

        客席で長崎くんたちと合流。つい今まで、本物の踊り子さんたちがサービスでストリップを披露してくれていたという。惜しかったなあ。

        てっきり監督の唐十郎が演出をするのだと思っていたら、舞台に出てきたのはなぜか嵐山光三郎。ざっとこの場面の説明をする。
「李礼仙のストリッパーが舞台で踊っています。客たちは『脱げー! 脱げー!』と大きな声で叫んでください。やがて、客のひとりが舞台に上がってきて、李礼仙の体に触ろうとします。李礼仙は、この男を蹴飛ばします。しかし男は、なおも抱きついてこようとして、もみ合いになる。すると幕の陰にいたヤクザが出てきて、この客に殴りかかります。怒った観客は全員が舞台に上がってヤクザたちと大乱闘ということになります。いいですか、よく西部劇にある酒場の乱闘シーン、あんな感じでやってください」

        カメラが3台配置され、いっせいに回して撮ろうという体制。まずはリハーサル。1回目は段取を頭に入れるだけの軽い動きでやる。2回目は、ほぼ本番のつもりでということで、こっちも燃える。東映でお馴染みのスキンヘッドの大男、大前均さんに掴みかかっていった。

        余談。大前均は、てっきり[おおまえひとし]と読むものだと長いこと信じていた。その後、明治座に出演されたおり、稽古場に出前したことがある。稽古場の入口で「おおまえひとし様、出前をお持ちしました」と言ったところ、入口近くの役者さんが「おおまえきんっていうんだよ」と言って、♪オーマエ・ダーリン、オーマエ・ダーリン、オーマエ・ダーリン、オーマエ・キンと歌い出した。

        さて、本番。一升瓶が回ってくる。これで気分を盛り上げようというのだ。私も一口飲んだ。もう怖いもの無し。カチンコが鳴ると動きだした。乱闘と同時に舞台に乗ろうとしたが、一杯で乗れない。脇の方から乗ると、舞台の飾りつけなども壊していいと言われていたから、そのへんの飾りを破壊した。「カット!」の声で撮影終了。

        その後、この映画は、海で実弾の拳銃をぶっ放しとかで問題になったりして、公開中止かとも思われたが、無事に完成。ATGで封切られた。私たちは東宝の試写室に招待され、一足先に見ることができた。

        今から何年か前、この映画のビデオを中古ビデオを販売している店で見つけ、購入した。

        私たちが出ているシーンは、最後の方にある。ビデオでいうと1時間42分くらいいったところである。私はエンジ色のセーターを着ているので、すぐ分かる。これまた余談だが、このセーターは、母が編んでくれたもの。「セーターを編んであげるけど何色がいい?」と言われ、エンジ色と答えたもの。そしてVネックにしてくれと注文した。その理由は、当時公開された『ダーティー・ハリー』の冒頭の有名なシーン。クリント・イースト・ウッドがホット・ドッグを食べながら銀行強盗を取り押さえるシーンで、イーストウッドが上着の下に着ていたのがエンジ色のチョッキだったから。


January.6,2001 [『大地の子守歌』を成功させる会]のこと

        学生時代のことだった。長崎くんから電話がかかってきた。
「ギャラは安いんだけどね、面白いバイトがあるんだけど乗らない?」
翌日、私は松竹本社の試写室にいた。こうして私は、増村保造監督の新作『大地の子守歌』を公開前に見ることができた。バイトの内容とは、松竹宣伝部の小さな会議室のようなところを与えられ、『大地の子守歌』を違った角度から宣伝するということだった。おそらく、一部で映画好きの学生に人気があった増村保造、そして美少女アイドルとして火がつき始めた原田美枝子、これを学生の側から盛り上げさせようとしたのではないかと思う。

        松竹宣伝部の松本さんに紹介され、会議室に向かった。私と長崎くんをふくめて映画好きの学生4〜5人が[『大地の子守歌』を成功させる会]のメンバーだった。私が加わった時点では、もう一般公開まで2週間を切っていた。私らの宣伝の仕事とは会報のようなものを毎週一回発行して、これを全国の映画館に配り、ロビーに貼り出してもらうことだった。あとは、ホール試写会の手伝い。そして最大の仕事は、数日後に迫ったW大学とH大学での試写会と、それに続くティーチ・イン・イベントだった。

        この大学でのイベントに少しでも多くの人を集めたい。数日後となると活字メディアはもう間に合わない。新聞という手はあったのだが、当時まだ学生の身分であった私には新聞社へのコネはなかった。ふと頭に浮かんだのがTBSラジオの深夜放送『パック・イン・ミュージック』第2部でパーソナリティをしていた林美雄のこと。ミドリブタ・パックと称したこの放送では、主に日本映画のことを取り上げるという、珍しい構成で人気があった。そうだ、林美雄さんに放送で告知してもらおう。

        このアイデアが浮かんだのが、林さんの担当する日の朝。今夜の放送で話してもらえなければ遅い。TBSに電話する。いない。まだ出社していないという。今、古い住所録を引っ張り出してきたところ、林美雄の自宅の電話番号が書いてあった。記憶が定かではないが、SRのメンバーで映画評論家の北川れい子さんから聞き出したのではないかと思う。昼すぎごろ林美雄の自宅に電話をかけた。林美雄はまだ寝ていた。電話口に出た彼は不機嫌そうだった。いつもラジオで聞く明るさがなかった。もっとも寝ているのを起こされれば誰でも不機嫌になるのは当然だ。林さん、ごめんなさい。

「はい、何なの?」
「あのう、私、[『大地の子守歌』を成功させる会]という者なんですが」
「・・・・・・・・・・・・・」
「〇月〇日にW大学とH大学で試写会と、増村監督、原田美枝子の挨拶があるのですが、番組で告知していただけないでしょうか?」
「ええーっ? 原田美枝子に喋らせるの? あの子、何にも喋らないよ。可哀想だよ」

        原田美枝子は当時、不思議な立場にあった。そのルックスからアイドルと見られる傾向にあったが、その一方で突如現れた演技派の天才的な女優だった。当時まだ高校生だった彼女はいったいどんな女の子なんだろう。私は、小生意気で気難しい子に違いないと思った。

        何か他に私にできることはないだろうか? 私はこれをやる前に、文化放送へ週に一度行き、ハガキの整理をするというバイトをやっていた。当然、文化放送のアナウンサーやディレクターの何人かと顔を合わせていた。そうだ文化放送の番組で告知できるところがないだろうか。私はあるアナウンサーに話を持っていった。なかなかこんな内容を告知してくれる番組はなかった。しかし、深夜放送でよければという返事をもらった。そして、もしよければ映画公開前に原田美枝子を番組に呼びたいという。

        その日、会議室でイベントの打ち合わせを長崎くん達としていた時である。突然、原田美枝子がマネージャーに付き添われてやってきた。思っていたより背の低い、可愛い女の子だった。ニコニコと笑顔を絶やさずに、それでいて恥ずかしがりやの側面もあると思った。全然気難しいところなどない。私の予感は外れてしまった。「よろしくお願いします」とお互いに挨拶をした。

        マネージャーさんに原田美枝子のスケジュールを聞く。「文化放送の深夜番組なんですが、録音でもいいから出演してくれないかと言われているのですが、スケジュールの空きはないでしょうか?」 すると原田美枝子はまだ高校生なので、勉強も含め、普通の高校生としての時間を重視しているとのことだった。「大学イベントの日なら一日中仕事の日として空けてあるから、イベントのあと文化放送に寄るということでいかがでしょう」 文化放送に電話すると、「OK。スタジオを空けておく」とのこと。「では、イベントで」と原田美枝子は去って行った。

        大学イベント当日。松竹本社に原田美枝子、増村保造監督が現れた。私は増村監督に自己紹介し、「あなたの映画が大好きで、たくさん見ているんです」と話した。出発前に増村監督の隣に座り、あの映画がよかったとか、あの映画のこんなところが好きだとか、いろいろと話したと思う。しかし、増村監督はニコリともしない。どんなに褒めても、うれしそうな顔ひとつしない。あとから知ったことだが、増村監督は過去の作品のことをあまり語りたがらない人だったそうだ。

        まずは、W大学。講堂で、ちょうど試写が終わったところだった。増村監督と原田美枝子が壇上に上がる。司会者が軽い調子で、ふたりにインタビューしていく。真面目一本で答える増村監督。そして恥ずかしそうに答える原田美枝子。このあと、舞台は大学祭ノリとなり、原田美枝子を相手にゲーム大会のようなものをやったと記憶している。こりゃあ、アイドル扱いだなあ、演技に燃えている彼女には心外なんじゃないだろうかと思えたが、どうして楽しそうにしている。だんだん、この人が分からなくなる。

        裏階段からモミクチャにされながら、原田美枝子をガードして脱出。H大学へ移動。視聴覚室で上映前に、ふたりを壇上に上げ、インタビュー。インタビュアーは何と私だった。増村保造の映画をたくさん見ているからという理由だったと思う。ここでふたりに何を訊いて、ふたりが何と答えたかは、さっぱり記憶にない。W大学のようなお祭り騒ぎにはしたくなかったので、真面目にインタビューした。また、H大学の学生はみんな真面目で、静かに聞いていた。

        ここで、増村監督とはお別れ。実は、増村監督に個人的に訊きたいことが山ほどあったのだが、このあと文化放送に原田美枝子を連れていかなければならない。文化放送到着。担当ディレクターとアナウンサーに紹介する。さっそくスタジオに入って録音が始まった。「何も喋らないよ」という林美雄の言葉とは裏腹に、原田美枝子はキチンとハキハキと話した。思うに、彼女、根っからの女優で、セリフにないことを喋るのが苦手だったのではないだろうか? 番組で何か聴取者にプレゼントのようなものはできないだろうかというので、『大地の子守歌』のポスターなら50枚ほど提供できると答えた。その後、このポスター・プレゼントは応募が殺到して、こんな深夜の放送だというのに応募総数は驚異的だったという。

        全て終わったのが夕方だった。原田美枝子は疲れた様子を見せなかった。家へ電話しているのが聴くともなしに聞えてきてしまった。
「これから、映画を見に行きたいんだけど、いいでしょ? ええっとね、アートシアターの『任侠外伝 玄海灘』っていうの」
びっくりしてしまった。実は私は、この映画にエキストラ出演しているのだ。私は原田美枝子に言った。
「これから、『任侠外伝 玄海灘』見に行くの?」
「ええ」
「あのね、ぼく、あの映画にエキストラだけど出ているんだよ」
「ええっ! すごーい!」
私は、自分が出ているシーンの説明をした。
「気がつくかどうか分からないけれどね」
原田美枝子は、微笑みをいっぱい溜めて私を見て、最終回の上映に間に合うように足早に文化放送を去って行った。
そうだ、次回はいよいよ、私が唯一スクリーンに映った『任侠外伝 玄海灘』のことを書かなくてはならないかな?

        封切り初日。原田美枝子と、相手役の佐藤佑介の舞台挨拶があった。そのあと、松竹セントラル前でサイン会。長い列ができた。列が途切れるころ、私もサインが欲しくなってきた。プログラムを買い、一番最後のページの原田美枝子の写真の横にサインを貰い、握手をしてもらった。満面の笑みを返してくれた、あのときのことを今でも覚えている。あのときのプログラムがあったはずだと押し入れを捜したら、ホコリまみれであったが出てきた。これが、そのサイン。

        いやあ、懐かしいなあと思って見ていて、視線下げたら、このページにはもう一枚写真が載っていて、私は「ギャッ!」と叫んでいた。

        一番右は名前は忘れたが、一緒に働いた仲間。その隣が言わずと知れた原田美枝子。一番左が長崎くん。そして、その隣の上着を着た男が・・・・・・・・うわわわわあ! 四半世紀前の私ではないか! いかん、すっかり忘れていた。全員が手にしているのは、そのころ原田美枝子がCMに出ていたオレンジ・ジュース。

        増村監督とは、その後一度逢った。地下鉄神谷町駅の階段だった。その時点で、増村監督は『大地の子守歌』のあと、『曽根崎心中』を撮っていた。「私のことを覚えていますか?」と尋ねたが、覚えているとも覚えていないとも、曖昧な答えだった。私が『曽根崎心中』の感想を簡単に述べると黙って聞いていた。そして「次回作は?」と尋ねると、「いろいろと企画はあるんだが、今は答えられない」と言われてしまった。そのときもう会社員だった私は、このまま話しこむ訳にもいかず、ものの2〜3分で分かれてしまった。そして、今はもう増村監督はこの世にいない。

        原田美枝子は、その後一度だけ見かけたことがある。[新宿ロフト]でARBのライヴを見た時だ。酸欠状態の超満員の会場だった。ロープを張った小さな一角があった。開演直前にひとりの女性がガードされて、そのロープの中に入った。原田美枝子だった。ボーカルの石橋凌との仲が噂されはじめた直後だったと思う。もう押しも押されもせぬ、日本映画会の大女優になっていた。私はタテノリのリズムでモミクチャになりながら、ときどき原田美枝子の方を見ていた。彼女は本当に楽しそうだった。


January.3,2001 強烈な自我の爆発

        去年の11月から、渋谷の[ユーロスペース]で『増村保造レトロスペクティブ』というタイトルで、増村保造監督作品の回顧上映が行われている。増村保造といえば、私は少々うるさい。なにしろ学生時代に夢中になってしまい、そのころ頻繁に行われていた名画座でのオールナイト4本立などがあると必ず足を運んでいたくらいだ。どこかのミニコミ誌に『増村保造試論』とかいうのを書いたおぼえがあり、一生のテーマにしようなどと考えていた時期もあったくらいだ。

        今、このホームページを始めてみて、ポツポツと増村作品について、また書いてみようと思っていたのだが、何しろもう見たのがほとんど四半世紀前。もう一度見直してからと思っていた。今回の催しなどいいチャンスなのだが、さっぱり時間がとれない。しかも驚いたことにこの上映会は盛況だそうで、整理券まで出しているという。増村監督はよく、「俺は10年早すぎた」と言っていたそうだが、それどころか今ようやく時代が追いついてきたのかも知れない。

        何とかしてこの機会に、これだけは見ておきたい作品があった。『大地の子守歌』 大映が倒産してフリーになってから6本目の映画。1976年作品。まさに四半世紀、25年ぶりに見ました。

        増村保造という人は、個人主義が根付かない日本社会の中に、ごり押しで個人主義を貫き通す人間達を押しこんだ映画を一貫して撮り続けてきた人だ。『大地の子守歌』のあとにあと3本の映画を撮って世を去ってしまうのだが、おそらく『大地の子守歌』は、増村監督が[個]を主張することをテーマにした集大成だったのではないだろうか。13歳で騙されて島の女郎屋に売られた[おりん](原田美枝子)が、16歳で島を脱出するまでを描いた素九鬼子の小説を元にした作品だが、この[おりん]の[個]を主張し続けた壮絶な物語となっている。

        [おりん]は山のなかで生まれる。どうやら捨て子らしくて、拾ってくれた老婆とふたりだけで暮らしている。ある日老婆は死んでしまい、[おりん]だけが残される。[おりん]はひとりで生きていく決心をする。山には食べるものはたくさんあり、罠を仕掛ければウサギだって捕れる。老婆の言葉が甦る。「おりんは自分で好きなように生きればいいんじゃ。誰にも頭下げることないぞ」 出た出た! もう増村の[個]を主張するテーマが早くも頭を出す。

        やがて、人買いの男がやってくる。人買いだと見ぬいたものの、言葉たくみに「海は見たくないか? 海の見えるところで働きたくはないか? きれいなベベ着て、美味しいもの食べて、ちょっと働けばたくさんお金が貰えて、すぐに帰ってこれる」と言われて、「海がみたい」と、この男の言葉に乗ってしまう。[海がみたい]というのも[個]の感情。生きたいように生きるはずか、女郎屋へ売られるはめになる。

        気がつくと御手洗島の女郎屋にいた。騙されたと分かって[おりん]は食事も拒否して頑なに自分の殻に閉じこもる。島の雑貨屋の少女に「そんなことしてたって、借金を返して、年期が明けるまで帰れないのだから。このままでは、借金が増えるだけだ」と諭されて、女郎屋の下働きとして働くことを決意する。

        [おちょろ舟]という、女郎を舟に乗せて停泊している船に運ぶ船頭の仕事までこなし、最悪の境遇の中でも[自我]を主張して生きていく。「女郎は嫌じゃ! 絶対に女郎にはならん!!」

        テーマがテーマだからだろうか。いつになく増村の個人主義のテーマは壮絶だ。実はこれに近いテーマというのは、増村は何回かやっている。1969年に浅丘ルリ子で撮った『女体』。そして翌1970年に渥美マリで続けざまに撮った『でんきくらげ』と『しびれくらげ』。これらの作品群は、逆境に陥ったヒロインがそれをテコにしてのし上がっていく話。これが『大地の子守歌』ともなると、相手がほんの少女。しかも、その自我ときたら「嫌なものは、絶対に嫌!」だから、もう[個]の爆発のようなものになっている。

        女郎になってしまってからも、「よおし、女郎になったらなったで一番になってやる」というところまでは、今までの増村そのまま。そこからが違う。自分が好きなように生きると宣言したヒロインは、仲間の客は取るは、嫌な客とは寝ないかわりに無料で客を遊ばせたり、やりたい放題。身請け話が来ても「私は誰のものにもならない!」と突っぱねる。いよっ! 増村! と声をかけたくなる。

        1時間51分、もうドカンドカンと強烈な自我が爆発して陶然としてしまうのだが、繰り返し挿入される、おりんが島から抜け出したあとの、お遍路さんの姿。ラスト・シーンもお遍路さんをしている彼女が夕焼けの原っぱの中を去って行くところで終わるのだが、おりんはそれで心の平安を得たのだろうか。

        ところで実は、この映画と原田美枝子と増村保造は、私と長崎くんに大きな繋がりがあるのだが、今日は時間がなくなってしまった。その話は次回に書くことにします。ねっ、長崎くん! 秘蔵写真もあり。乞う、ご期待!

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