ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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| 一言で説明すると…この時代の階級は、特権者である「貴族」と「高級僧侶」、平民である「民衆」と「下級僧侶」の二つに大きく分かれていました。重い税金に苦しみながら、何の権利もない「平民」の怒りは爆発寸前です。 |
社会階級は大きく三つに分かれます。
第一身分:「僧侶」(14万人)は土地全体の10%以上を所有していました。僧侶の中にも、貴族と上層のブルジョワ出身の上級僧侶と、第三身分出身の下級僧侶がいて、頂点に立つ枢機卿から村の司祭さんまであり、この中にも厳しい階級がありました。
第二身分:「貴族」(40万人)は土地全体の25%以上を所有していました。この中には、宮廷貴族、法服貴族、地方貴族がいます。
第一身分と第二身分を合せてを特権階級と言い、このふたつの階級は合わせても全体の1%に満ちませんが国土の40%を所有し、政治に参加したり税金を支払わなくてもいい(この特権を奪われるのがいやで貴族は国王に反抗し、それが続く革命の引き金となった)など、数多くの特権を持っていました。
第三身分:「平民」は大きく商工業を営む市民(450万人)と農民(2000万人)に分かれます。
なお、人口の数字ですが、資料によってまちまちです。ここでは平均的な数量を取ってみました。おおざっぱに見て、人口の1.5%にしか満たない特権階級が全土の40%の土地を所有していたと見ればよいでしょう。
「僧侶」は文字通り国家の第一の階層で、政治・司法・租税上の重要な特権を持っていました。国土の約10%を保有し、保有地からの所得は莫大なもので、さらに十分の一税からは土地所有料以上の収入があり、その経済的勢力は巨大でした。
しかしながら、これらの富を全ての「僧侶」が堪能しているわけではありませんでした。大司教、司教、僧院長、司教会員などの高級僧侶たちは貴族からのみ採用され、司祭や修道士などの下級僧侶はほとんど全て平民出身でした。
したがって、「僧侶」は「第一身分」というひとつの階級を構成しているのではなく、この中には社会全体と同じ階級が存在していたのです。すなわち、特権者である貴族(高級僧侶と貴族)とそれ以外の(下級僧侶と民衆)平民です。
平民出身の下級僧侶は、1789年6月に特権身分から分離して第三身分と結びつき、革命への大きな勢いをつけることになりました。
「第一身分内の人口比」はこちら→
貴族には次のような特権がありました。「特権の詳細」はこちら→
第三身分は国民の大多数であり、全ての生産者でした。彼らは過酷に働き、生産していながら特権階級を養うための重い負担に苦しみ、何の政治的権利も持っていませんでした。裕福な金融業者から、その日暮らしの労働者まで幅広い人々がいましたが、彼らは特権に対する反対という点で一致していました。 第三身分も大きく分けると、市民と農民に別れました。
貴族は、自分達の利益につながるようなことばかりしたがり、一方地方では、上流・中流ブルジョワジーが力を付け始めました。しかし、現行の体制ではいくら事業を拡大しても、税金を取られるばかりで面白くありません。自分達の利益を窃取されたくない彼らは、旧体制を変えたいと思い始めたのです。
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しかしながら、貴族の中にもさまざまな種類がありました。大きく分けると、帯剣貴族と法服貴族です。
帯剣貴族--旧来からの貴族
法服貴族(ノブレス・ドゥ・ローブ)
貴族の人口は研究者によって8万人から40万人までの開きがあります。要するに、貴族と平民の間には、私達が想像するほど明確な境がありませんでした。
市民(450万人)--都市に住み、政治には参加できず重税を課されていました。大きく4つに分けられます。
農民(2000万人)--特権階級所有の農地を耕し、もちろん政治に参加できず、重税を課されていました。やはり大きく4つに分かれます。

第三身分に向けられた寓意画
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