Jan 30-31. 2005 所用で静岡市清水に帰省

清水の実家で所用があり1泊2日で帰省した。両日ともVeryFineの青空だったが、日本海側は大雪で、西日本方面も大分降ったようだ。
写真は帰省すると必ず行う行為。オールドレシーバーに火を入れ地元のJOPKを鳴らす・・・。古い機械はこれをやっているとたまに電源を入れても安定な動作をする。特にケミコン類の動作が安定する。年に1回程度の通電だと電源投入時にHumが混入し時間と共に減少するが、2〜3ヶ月おきに通電しておくとそうした現象が軽減出来る。またVRなどの摺動部の接触も安定してくる。
それにしてもR-390Aで聴くAMラジオ放送は、こんなにもHi-Fiだったのかと感心する。IF帯域を16KHzにすると、スタジオレベルの音質と言っても過言ではない・・・ちょっと誉めすぎか。
写真は実家で現用中のR-390A(下)と51S-1/B(上)。R-390AはIFユニットにSSB検波回路を組み込みBFO-ONでリードリレーによりオリジナルのダイオード検波回路と切り替えている。その心はオリジナルを尊重した改修である。検波回路はゲルマニュームダイオード4個によるリング復調器で、AMとのレベルを合わせるためTrで1段増幅しているが、オリジナルのIFユニットとの互換性が保たれている。

Jan 27. 2005 久々に上る冬の三国山

所要で久しぶりに三国山に上った。この季節に上るのは初めてで、昼間でも日陰は結構寒かった。三国山は愛知県では本宮山と並ぶ電波の要所で、写真のように様々な無線鉄塔が乱立している。アンテナを見ると殆どがSHF帯のパラボラアンテナやV/UHF帯の連絡無線アンテナであるが、レーダーサイトの様なものもある。愛知県・国土交通省・放送・警察・消防・防衛などの機関がここに基地局や中継局を置いているようだ。
144MHz帯のFMトランシーバーを持って展望台に上がると混変調に悩まされる。余程しっかりと対策された物は別だが、普通のハンディトランシーバーだと、突如として怪しげな混信やノイズに悩まされる。またロケーションが良いため遠く関西方面の電波が強力に入感する。
三国山山頂付近の樹木は落葉樹が中心で、緑一色の夏場とは一味違った風景が楽しめるが、訪れる人の数は極僅か。瀬戸市からR363で土岐市に入り右折するルートは冬場は閉鎖され鍵がかかっているので、反対側の県道「上渡合土岐線」から上ると良い。

Jan 17. 2005 半田ごてを購入する…2代目スイッチャブル

長年使用していたgoot(太陽電機)の半田ごてのコテ先にヒビが入り不便を感じていたが、遂に折れて脱落してしまった。帰省の折、近くのホームセンターJumboEnchoに行きコテ先部分を購入する予定だったが、既に時間が経っている機種のため該当する部品は置いてなかった。止む無く類似した新品TQ-95(90/15W切り替え型)を購入した。恐らく気のきいた工具ショップにはコテ先の在庫があるだろうが、思い切って買ってしまった。
写真は新旧の半田ゴテ。オンマウスカーソルするとコテ先のクローズアップを見ることが出来る。旧半田ごてはTQ-80(80/15W切り替え型)で、オーナーのように半導体基板から真空管アンプ、更には板金までやる者にとっては好都合のコテだった。普通なら2本又は3本を用意する必要があるが、このタイプなら1本で済むから随分と経済的である。何時頃購入したかは定かではないが、少なくとも平成の初期?・・・いやもっと前か?・・・いずれにしても12年以上は経っている。このまま捨ててしまうのはもったいないので、コテ先を買い求め何時か復元させてやりたい。ちなみにワッテージの切り替えは黄色い押しボタンで行う、離すと15Wで押すとハイパワーになる。

Jan 15. 2005 久々に尋ねる母校

10年振りに小・中学校の同窓会をやると言うことで静岡市清水に帰省した。たまたま母校庵原小学校の校舎が改築のため5月頃取り壊される事になり、幹事の粋なはからいで同窓会の前にささやかな見学会があった。
写真は庵原小学校正門を通り過ぎると目に入る定番ショット。庵原小学校は既に130年近い歴史があるが、写真の校舎は庵原村立時代の1959年に竣工されたもの。ちなみに1961年6月1日清水市立へ、2003年4月1日には静岡市立へと変遷した。左手には校歌にも歌われている通称「すずかけ(プラタナス)」の巨木と、右手には1961年竣工の体育館と1965年頃移植されたカナリーヤシが見える。卒業は1967年3月だったから、既に38年を経過することになる。
オンマウスカーソルすると懐かしい学び舎、6年1組の教室が見える。後ろに見えるロッカーは21個x3段=63個もあって数の多さに驚く。気になって机の数えてみたら30数個しかない。竣工した当時は1学級54人もいた時代があったのに・・・その変わり様に驚かざるを得ない。校歌に「1400の心はひとつ・・・」と言うくだりがあるが、それは遠い過去のものになってしまったのだろうか。
引き続き18時より同窓会が始まった。殆どが10年振りに合う顔々であった。中学校を卒業して25年の10年前と違って、更に10年過ぎると人間図々しくなって誰にでも何でも声を掛けられるようになっている。10年前でもちょっと恥ずかしくて言えない事が何故か今回はすんなり口に出来る。昔密かに好意を抱いた彼女とか、気があっても何もいえない人とかに・・・。時間の経過ってのは本当に面白い。昔の嫌な思いでも丸くしてして思い出話にしてしまう。気に入った仲間同士で、結局夜中の2時過ぎまで清水の駅前で騒いでいた。その中にはオヤジばかりでなく、しっかりとオバサンもいたのだ。なんて幸せなことか・・・。写真は一次会場である清水テルサ8Fホールでのスナップ。思い出の3年4組のメンバーだが、一部外野陣も入り混じっている。50歳とはとても思えない程皆若かった。次回は5年先と皆で決意して今次同窓会は幕を閉じた。

Jan 11. 2005 スマトラ沖地震募金


昨年12月26日に地球史上まれに見る大地震がスマトラ沖で発生した。ここに掲げる地図と写真は、「市民が記者になってニュースを送るインターネット新聞JANJAN」へリンクさせて頂いているものだが、その悲惨さはマスコミで伝えられている通りである。それを見てどう思うかは夫々だが、オーナー一家は何か出来ないものかと思い家族で相談した結果、家族連名でささやかな募金を行ってきた。大した金額ではないが、被災した皆さんのお力になれば幸い思っている。航空写真は中央が被災後、右が被災前で、クリックすると拡大地図が表示されるが、それにしても悲惨な状況だと思う。


Jan 8. 2005 Lo-D HMA-9500メインアンプの修理

昨年の夏、長男がLo-D(日立製作所)が1977年に発売したオーディオメインアンプHMA-9500を持ち込んできた。このアンプは世界で初めて出力デバイスにパワーMOS-FETを使った優れもので、マニアの間では四半世紀を経た現在でも高値で取引されているらしい。
RFアンプ製作に勤しんでいるところに、依頼人より幾度か催促がありその修理を求められていたが年を越してしまった。やや後ろめたさもあり本日意を決して修理に臨んだ。
写真は修理を終わったHMA-9500。オンマウスカーソルすると不良箇所の特定風景を見る事ができる。症状はRchの不良で、入力にプログラムを入れると、ガサゴソ・グジュグジュ音がして使えない状態だった。昼から始め、夕方には何とか正常な音が出るようになった。その辺の記録をTest&DataコーナーのHMA-9500の修理にアップしたので御覧頂きたい。
帰宅した依頼人は一時感謝を示したが「部品劣化が著しい」と話をしたら、あっさり「全部交換して」の返事。重さ30Kgもあるアンプを横に縦に…その苦労と技術力は理解されないようだ。しかし直った瞬間は、自作した時に似た快感がこみ上げて来る。

Jan 7. 2005 アイボール…GU-84Bアンプの製作情報交換

ロシア製送信管GU-84Bで50MHzのアンプを製作中のローカルOMのY氏から電話があり久しぶりにアイボールした。話題はアンプの情報交換。昨年の新年会でロシア球を紹介したところ、えらく気に入られて一緒に製作を始めていた。仕事が多忙な方で中々作業が進まなかったようだが、正月休みで一気にペースを上げたと見え、製作状況を十数枚の写真にして持ち込まれた。紹介する写真はそのうちの2枚で、GU-84Bを中心としたプレート出力回路と、オンマウスカーソルすると組み立て前の各ブロックの状況を見る事が出来る。
GU-84BとプレートRFC、タンクコイルやプレートVCとロードVC、DCブロッキングコン等の配置に氏の考え方が良く出ている。また保守性を考慮して無理の無い配置が行われている。共振周波数や整合状況は未確認らしいが、ガラス球と異なり出力キャパやチムニィのストレーキャパが多いので、SWRアナライザで確認する事をお勧めした…多分コイルはやや大目、RFルートもやや長目かも…。
オーナーより10歳先輩なのに、体力を使う板金を精力的にこなされ、コツコツと形にしていく姿に敬意を表したい。これもラジオ少年の心意気だろう。アイボール時間はあっと言う間に過ぎてしまった。

Jan 3. 2005 DOS/V_PC修理

数年前に姉に譲ったPC(PROTONブランド)が壊れたと言って持ち込まれた。電源を入れるとメモリーチェックまでは行われるがHD認識が出来ず、良く見るとHDからカリカリ音が出ている。こりゃダメだ!。と言う事で早速HDの交換と相成った。別のDOS/V機で使用していたHDをつなぎ電源を入れればPlug&PlayでOS(WindwosME)が処理してくれると簡単に考えていたら、マザーボードが違うためそうは簡単に行かなかった。結局WindowsMEを上書きインストールして、特徴的なデバイスドライバー(AGPやGRAPHIC)を追加し何とか使えるようになった。
写真は実家の居間でメンテナンス中のスナップ。右上がPROTONのPCでK6-U(500MHz)とメモリ128MBで動いている。テーブルの上には液晶ディスプレイとキーボードのほかにマウスとHDが剥き出しで置いてある。こうした作業はDOS/V機を触りだした初期には毎日のようにやっていた記憶がある。しかし一般の人には何をやっているのかさっぱり分からないらしい。
PROTONの下にちょっと見えるのは、記念すべき最初のDOS/V機で、今はK6-V(450MHz)とメモリ250MBが実装されている。

Jan 2. 2005 富士山撮影再びトライ

元旦の富士山は太陽が余りにも高すぎたのでフラットな映像になってしまった。夕方になって再挑戦しようと思ったが既にアルコール変調状態だったので断念したが、今日再びトライした。近隣の山々の先端だけに陽が落ちる時間を待って昨日と同じ「大峰山」に登った。既に周辺は陽が落ち気温もぐんぐん低下していくのが分かる。幸いにも風が全く無く最高のコンディションと言っても過言ではないだろう。デジカメを2台も持ち出し何十枚も撮りまくった。色温度はデイライト固定としてどんどん赤みを帯びていく富士を撮影した。写真はその中の1枚である。冬場は空気が乾いてるのと太陽が南回帰しているせいか、赤くなっている時間が短く色も薄い。これに反し夏場は信じられない位に真っ赤になる。
この写真は1月2日16時40分頃の撮影だが、10分程度で照度が低下しレベル不足となる。その間に色は赤みを増すのであるが、レベル低下を招くため写真上での表現が難しい。またオンマウスカーソルするとそれより10分前の写真を見る事が出来るが、色の変わり具合が良く分かる。

Jan 1. 2005 元旦の富士山と日本平を望む

2005年(平成17年)になった。昨日帰省して深夜まで騒ぎ、今朝も朝から一杯酒喰らいウトウトしているともう昼だった。
慌ててカメラを持ち出し郷土の山を回った。既に四半世紀以上続けライフワークである写真撮影が始まった。なんて事はない、元旦に毎年同じ山に登り同じ方向から変わり行く郷土の写真を撮るのだ。
写真は実家のお茶畑がある通称「大峰山(標高300m)」から見た富士。右手前に見えるのは清水と由比の境にある陣馬山(浜石岳の北側に位置)。三保の松原からの眺望のように海からの富士も良いが、このように山越に見る富士も中々である。
下界は快晴であるが、山頂付近は温度変化が激しい模様で必ず雲を発生させていた。大晦日は関東でも雪が降り清水も気温が4℃程度と寒かったが、今日は気温が上がり穏やかな元旦となった。
オンマウスカーソルすると南方向にある日本平を見る事が出来る。6月から静岡で始まる地上デジタル放送のアンテナが、アナログ放送アンテナ群から飛び出してひときわ高く見える。大峰山からは北に南アルプス、南に清水や静岡市街を一望できるばかりでなく、遠く伊豆半島や御前崎方面も臨む事ができる。2005年1月1日13時撮影。