泉涌寺 (せんにゅうじ)
番外
寺名 御寺(みてら)泉涌寺
山号 東山(とうざん)、泉山(せんざん)
宗派 真言宗泉涌寺派総本山
所在地 京都市東山区泉涌寺山内町
皇室の菩提寺  
塔頭の今熊野観音寺は西国三十三所観音巡礼所
SPOT
平安時代の草創と伝える。鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺である。
大門をくぐったら、ずっと坂道、正面は仏殿。この背後には、霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建物がある。
ここでは、時間がゆっくり流れているような気がする。
幸いにして小雨が降って来て、いい感じである。
現在は皇室は神道ですが、奈良時代の聖武天皇から江戸時代末期の孝明天皇まで仏式で葬儀が行われていました。1242年に四条天皇の葬儀がこの寺で行われ、それ以降、室町時代前期の後光厳天皇から孝明天皇にいたるまで、歴代天皇の葬儀は泉涌寺で行われた。また裏手の墓所は月輪陵と呼ばれ、江戸時代は陵墓であった。
明治維新以降、月輪陵は宮内庁の管轄になったが、歴代の天皇の位牌や尊像は今もなお泉涌寺に祀られている。
月輪陵


Snap shot
総門
東福寺駅から600m程。ここから長い参道が続きます。途中いくつかの塔頭がある。
大門(重要文化財)
江戸時代初頭に造営の御所の門を移築したもの。
仏殿(重要文化財)
寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建。一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作。
仏殿内の
釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像。
伝運慶作
舎利殿
仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。公開されていなかった。
浴室
泉涌水屋形
寺名の起源となった名泉が、今も尽きることなく涌き出ている。それを覆う屋形。
左端の石碑が清少納言の歌碑
本坊
手前が御座所
明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を移築
奥の建物は、霊明殿。
歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する
御座所内の玉座の間
天皇陛下が来られた時に使う部屋
最近では、即位報告(1990年)、平安建都1200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)に両陛下が使われた。
庭園 いい雰囲気です
御座所の唐門 霊明殿の門
月輪陵(つきのわみさぎ)拝所
自然に頭を垂れる雰囲気です
月輪陵に祀られている天皇等の一覧表です
楊貴妃観音堂
楊貴妃観音像が祀られている
楊貴妃観音像(重要文化財)
中国・南宋時代の作。日本の観音さまとは大分違う。1955年までは100年に一度の公開という秘仏だっただけに色鮮やかに残っている。
楊貴妃観音堂前の 願かけ地蔵 心照殿 宝物館で寺院所蔵の文化財を順次公開

泉涌寺の塔頭
大門までの参道にたくさんの塔頭がある。
全部は見切れないけれど。
即成院
即成院の山門 本堂
本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像(共に重文)。左側の菩薩像は隠れています 与一の手洗い所
願いを込めて、手を洗います。
おみくじカプセル
与一の手洗い所で使う紙のような石鹸も入ってます。200円。おみくじは「吉」でした。
那須与一のお墓
本堂から行きます。
那須与一は源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を、見事射落としたことで有名な源氏方の武士。お墓はあちこちにある。
法音院
山門

本尊は不空羂索観音
戒光寺
山門 本堂
「身代わり丈六さん」の名で親しまれる本尊・釈迦如来立像(重文)は一丈六尺を越え(約5.4m)総高約10mの大像で、運慶湛慶父子の合作であると言われる。見上げると大きい、迫力あります。
新善光寺
参道から山門を
なんとなく、いい雰囲気。
後嵯峨天皇の勅命により、信州信濃善光寺本尊と同体の全銅阿弥陀如来立像を鋳造して本尊としている。
今熊野観音寺  
西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所になってる。
泉涌寺の参道から坂道を下ると今熊野観音寺になる。この赤い橋を鳥居橋という。今熊野川に架かっている。 子護弘法大師
「南無大師遍照金剛」を唱えながら、お大師様の周りを廻ってくださいとのこと。四国八十八所の砂を埋めてあるとのことです。やってみました。
本堂
本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。
体内仏として熊野権現より授かった、天照大神の御作の十一面観世音菩薩(身丈・一寸八分)が祀られています。本尊は秘仏。
御前立の十一面観世音菩薩が立っている。
五智の井

弘法大師が錫杖をもって岩根をうがたれて湧き出した水が五智水です。その五智水が井戸水として湧き出している。
大師堂 医聖堂
医界に貢献された多くの方々が祭祀されている
稲荷社 朱印
ご詠歌
昔より立つとも知らぬ今熊野 仏の誓いあらたなりけり
来迎院
山門 本堂
祈願の御石
独鈷水
弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水した名水
荒神堂
弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を祀る
鎮守社
善能寺
山門 祥空殿
航空殉難者のみの霊を祀っている



kazu_sanの一言
清少納言の歌碑 右側

「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」が刻されています。
百人一首にも出てくる有名な歌です。
かつて清原元輔(清少納言の父)の山荘が近くにあった関係で
清少納言は、ここで隠棲したと言われている。

この歌は、藤原行成に宛てた歌。これに対する藤原行成の返歌は、
「逢坂は人越え易き関なれば 鳥鳴かぬにも開けて待つとか」

歌の意味は
「いろんな策を使って、私にちょっかい出してもダメですよ」
返歌は
「そんなに固い人だとは聞いてませんが」
まあ、大体そんな感じです。


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