《有難い 何を探せば 学びでき》

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 人はお互いの間を意識できるときに人間らしい感覚を発揮します。間を違えると間違いという状況を招きます。適切な間合いを保つことが大事になります。古くは儒教で五常と呼ばれる仁義礼智信は,間のあるべき形を表現していました。「仁」は人間らしい情け深さや他者を思いやる心,「義」は正義や道徳的な行い,「礼」は社会的な儀礼や作法,「智」は知恵や理性,「信」は信頼や誠実さとされています。今の世間には,どのような指針が共有されているのでしょう?。
 学校で子どもを育てる指針として,例えば「廊下で走らない」と禁止型で動きを封じるよりも,「廊下は歩きましょう」と推奨型で動きを促すことが求められます。間違いが起こらないようにするにはしてはいけないことを意識するように仕向けることが,直接的で効果が期待されるのでしょう。一方で,適切な間合いを保つためには、いつでも止まることができる動きをすることもできるはずです。
 してはいけない振る舞いを指摘するだけではなく,間合いを大事にできる振る舞いを定着させていく方が,穏やかな生き方につながっていくでしょう。今暮らしの場で間を巡って発せられている言葉は,してはいけない言葉だけのようです。流行っているのは,○○ハラという形の言葉の増殖です。何をしても勝手という自由な状況が前提になっているから制限をする必要が生じているのでしょうが,身動きが取れなくなっていくようです。その状況では,何を目標に生きていくのかが全く見えてきません。世間がどこに向かっていくのか,誰も気にしていないのです。こうありたいという言葉を誰も持ち合わせていないのでしょうか。
 実状は逆であるともいわれるでしょう。誰もがそれぞれに間合いのあり方を提言しているのが情報社会の特徴だとも見做すことができます。誰それはこう言っているが私はこう思う,発信する自由が謳歌されていて,百家争鳴の状態なのです。それぞれが自分だけの間合いを想定している状況では,間がつながっていくことは無理です。世間というつながりは,共有する部分がなければなりません。手と手を繋ぐには手のひらが重なるのです。間とは自分だけのものではなく,お互いのものなのです。
 古い暮らしの目標である仁義礼智信をそのままに持ち出そうというつもりはありませんが,今の時代に相応しい単純明快なスローガンを探しています。間を作り上げる目標が見つからない日々は張り合いがありません。先人の模索の跡を参照しながら,今風の私たちの言葉を模索する日々が続いていきます。

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(2024年06月09日:No.1263)