《有難い 他者の思考に 寄り添えて》

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 福祉専門学校の実習生が研修発表をする場に立ち会う機会がありました。その時に行ったコメントをまとめてみます。
 先ずは発表の流れですが,実習計画の問題設定として,支援の内容は? 地域のつながりの希薄化にどう対応を? の2点が設定されていました。現状における問題点の整理としては,結束の強い面がある一方で,新規の参入がしづらいという一面,孤立している高齢者へのアプローチの試みの意義分析がまとめられていました。さらにそこから自己覚知として,困り感のある人が感じている療育につながる障壁を低くする工夫が必要であり,優先席や合理的配慮は配慮の欠如の証明であると考えられることから,社会のあり方の理想が大きすぎることに気付き,弱者の存在の認知に向けた情報の不備や社会的な差別や偏見の存在という現実に向き合い有効な支援を推進する覚悟が求められるとまとめられています。さらに自らの意識の中で,地域に向き合っている自分から地域の中にいる自分へという自己覚知を得て,そこで何ができるのだろうという視点をまとめとして発表は終わりました。
 コメントの初めは,人間という言葉にある「間」を意識することの確認でした。人はそれぞれ間を纏っています。お互いの間が違えば,それは間違いとなる! 間が合えば間に合うことになります。地域のつながりに参入しづらいという障壁は互いの間の閉鎖性と理解できます。合理的配慮というシステム設定は社会的な間のあり方を意識化する方策であり,モデルとしての誘因となります。間の構造については,例えば挨拶で「おはよう」には「おはよう」と同じ言葉を交わす間があります。それだけではなく,「どうぞ」と「ありがとう」の間の接続があります。地域における間のつながりは普段は同じ言葉の挨拶により,いざというときには助け合いの言葉が機能するときに維持されます。
 人は2本の手を持ってますが,利き手という手が機能しています。その理由は,咄嗟の危機に陥ったときすぐに反応する手を決めているのです。例えば歩いていてよろけたときに,咄嗟に手は何かを掴もうとします。そのときにその場に差し出されている手があれば,掴むことができます。ドウゾという手は必要となる前から差し出されていることが大事です。そのドウゾの手を掴もうとするかどうか,それを決めるのは必要としている方の決断に依ります。それが間に合うということであり,お互いの間の状況に応じてつながりが変化します。
 この人と人の間が合うためには,私とあなた,私とみんなという対置した位置関係を意識しているのではなく,私たちという間がつながった関係の確信が必要になります。という結びで短いコメントは終わりました。

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(2024年10月06日:No.1280)