《有難い 言葉の意図が 見えていて》

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 講演依頼を受けて,テーマに「共生社会」という言葉を頂きました。それほど難しい言葉ではないのですが,改めて共生と社会のドッキングが気になりました。社会は基本的に共生するものではないかと思うことができます。逆に言えば,共生していない社会はあり得ないともいえます。
 共生という言葉をまっさらな気持ちで思い起こしてみます。例えば,野生動物との共生といった言われ方をします。調べると,一つには「共に同じ所で生活すること」とありますが,あまりに直接すぎています。もう一つに,「異種の生物が相互に作用し合う状態で生活すること」とありますが,熊との共生といったイメージが無理のない形で見えてきます。さらには相利共生と片利共生があり,寄生も含めることがあるとなると,新たな共生する世界が見えてきます。
 つまり,当初の違和感は人の社会と「共に同じ所で生活すること」の共生とが重複していると認識したせいです。しかしながら,今港間に現れてきた共生社会という言葉の共生は2番目のものであったのです。つまり,異種の人間が相互に作用し合う状態で生活するという共生がある社会ということです。同じ者ではない人が共生する社会ということです。異種の人間という事実を前提にした言語なのです。
 主たる前提として例示されている障害のある人が参画する社会を共生社会と意識させようとしているようです。障害のある人を異種の人と思ってもいなかったので,戸惑っていたのです。しかし,今の社会には共生できていない実状があるということです。そのことを明確に認識して行動をしていない反省をしなければなりません。ただ,共生という言葉を使うことは,障害のある人を異種の人と位置づけていることになるのではと,危惧します。
 障害のある人は同じ人であると思う社会であるべきなら,共生という言葉が邪魔をすることになります。どの立場で使うのか,発語する前提によって,言葉の伝える意味は変化していきます。そういうつもりではないという補正が背後につながってくることになります。
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(2024年10月20日:No.1282)