家庭の窓
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一組しか持ち合わせていない耳に聞こえてくる限られた範囲の社会的言葉に,馴染むことができません。例えば,流行りの歌が聞こえてくるとき,可愛らしさが先立つような言葉遣いばかりで,音声が口ごもって独り言を言っているようにしか聞こえてきません。聴いてもらって共感してほしいということなど,思いもしていないようです。愚痴をつぶやいているような調子にしか聞こえません。ファンはきちんと聞こえているのでしょうか。
テレビ番組で見かける様々なおしゃべりにしても,スタジオで勝手に盛り上がっている流れで,こちらは置いてきぼりになって,ただなんとなく覗き込んでいる感じになります。見るなら見ててもいいよ,聞くなら聞いていいよ,そういう風にしか受け止めることができません。テレビもラジオも放送なのですが,放り出すだけで送り届けようとはしていません。
逆の立場に立つと,視聴している人は多数で多様な人であり的が絞れないので,伝え方が決められないという事情もあるでしょう。それでも,届けようという工夫は込めることができるはずです。情報とは情に報いるために受け取るものであり,届いてこなければ報いようがありません。
ところで,広告は届ける魂胆が満載です。番組の流れを途中で打ち切って,大事な展開を届けないことで,広告を差し挟んだ後にも継続して視聴させようとしています。視聴者を支配しようとしています。さらには,商品の売り込みの導入として,それらしいデータを提示するなどして,視聴者の生活や健康における不安をあおってきます。その上に,今なら大幅な割引があるが,申し込みは30分限定というあおり報道で追い詰めようとしてきます。
ここまでの文章を読んだところでは,今の言葉の世界は届かない状況とお仕着せばかりであることを訴えていると受け取られるかもしれません。しかし,ここで指摘されている状況は確かに存在していますが,それは一面であり,決してすべてではありません。大部分は適切な状況にあるということを,前提にしておくべきです。言葉による表現は普通の状況は見逃して,普通ではない特別な状況を抽出するものだということは忘れてはいけません。
今の社会状況は,今の日本人は,今の政治家は,といった表現が出てきますが,それは特別に目立ったこと,普通ではないことを特徴として色づけようというだけのことです。目立つことが見えるという感覚の特性を弁えておけば,間違えることはないはずです。
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