《受けて立つ 気力萎えても 凛として》

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 朝の連続ドラマで小姑の嫁いびりを見せられると,ムカついてきます。一日の始まりはさわやかに明るくありたいものです。連れ合いはドラマ番組を見ていますが,日本のものはやっていないので,どうしても韓国ものになっているようです。そこでの話の展開が,嫌みな人間関係満載で,見ていると苛ついてきます。人のあくどさを知らないわけではありませんが,わざわざ見せつけられて楽しいという気力が失われたということでしょう。
 ドラマの起承転結では,込み入った状況にして,闘いがなければなりません。承転が本筋です。苦あればこその楽ありの展開が感動の仕掛けであることは承知しています。行き違いや勘違いやすれ違いといったことや,やむにやまれないいきさつがあってのゴタゴタなら身につまされますが,浅ましい妬みや嫉み,やっかみしか見えてこない筋立てには,うんざりするだけです。嫌なら見なければいいということで,見ようという気はありませんが,ときどき紛れ込んでくるのが鬱陶しいだけです。
 自分勝手で横車を押してくる輩には体が拒否反応を示し,怒りが湧きあがってきます。勧善懲悪型の,至って単純な人格であると自覚しています。そのスクランブル装置が,現実に降りかかっているのではない,ドラマの中という虚の入力情報にも誤作動しているようです。受信装置の性能が低下しているのか,過敏になっているのか,いずれにしても,気を安んずるためには,見聞きする情報の選択が必要になってきたようです。
 気力の衰えが現役の引退をもたらしますが,世間の現実との関わりについても,気力の衰えによって,隠遁せざるを得なくなっていきます。心安らかでありたいという,心身の健康への本能がそうさせるのでしょう。年寄りは隠居する,それは現実の起承転結に関わらないということです。第一線を引くということでけじめを付けるのは,その儀式です。とはいえ,消え去るしかないのかというと,そうでもありません。第一線を脱しても,第二線,第三線があるからです。気力が衰えた分,知恵は盛んになっているのです。人としての有り様を体現してみせる演技ぐらいは,残された気力で務まるはずです。

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(2013年11月10日号:No.711)