家庭の窓
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It is more blessed to give than to receive. 聖書由来。受けるより与える方が幸いである。
"It is more blessed to give than to receive." 訳は「与うるは受くるより幸なり」です。
普通に損得勘定をすると,「受くる」ことは得な状況であり,「与うる」ことは損な行為です。なのに,どうして「与うるは受くるより幸なり」なのでしょうか? ネットで検索してみると,次のような説明がしてありました。
・・・・・ まず「受くる」について考えたいと思います。人に何かの頼みごとをして,その人がそれを実行してくれると,その分はメリットです。しかし,たとえ頼みごとをした人から借りは返さなくても良いと言われても,いくつかは借りを返さなければという気持ちになり,借りを返すまでの間,気が重くなります。次に「与える」について考えたいと思います。ボランティア団体から近所の川のごみ拾いの清掃活動を頼まれたとします。その場合,いろいろな思いが錯綜します。
・暑い真夏の炎天下で,川のごみ拾いはつらい。 ・自分は腰痛持ちなので,かがんで川のごみ拾いをするのは腰が痛くなる。 ・草むらにいる虫に刺されて,嫌な気分になる。
それでも勇気を振り絞って川のごみ拾いの清掃ボランティアに参加したとします。ごみ拾いが終わり,ごみが入ったごみ袋が山のように積み上げられ,川岸の草むらはきれいになります。汗だくになったものの,ボランティア団体の人からは感謝の言葉をいただき,冷たい水を飲み干すと,今日はとても良いことをしたという満足感に浸ることができます。
一見,「受くる」ことは自分にとって得な状況であり,「与うる」ことは損な行為です。他方,精神的には「受くる」ことは自分にとって負担な状況であり,「与うる」ことは晴れやかで満足感のある行為と言えます。このことわざは「与える」ことによる精神的な晴れやかさ,満足感が人生にとって非常に重要だということを伝えており,それは神が祝福してくださるという聖なる言動だと思います。"blessed"は「神の祝福を受けた,喜ばしい」などを意味します。・・・・・
似た意味のことわざに"It is better to give than to take."があります。「receive:受くる」 が「take:取る」に入れ替わっています。受動的な「受くる」から能動的な「取る」になると,自分の意思による選択の重みが増して,結果として上記の「受くる」ことへの精神的な負担を感じない状況に変わっています。さらには,神の祝福という価値付与ではなく,「better:より良い」という社会的な価値評価になっています。受け取ることより与えるという恵みを行う選択をすることが「より良い」という評価の根拠とはどういうものなのでしょうか?
社会生活における簡単なルールとして,「give and take」という言葉が言われます。これは,上記の「与える」と「取る」を別にして選択するという対比の形ではなく,一組の行為としてまとめてしまっています。与える人がいるから取る人が人いる,つながった行為であるという確認です。そこには,優劣はなく,単に順序があることになります。与えるが先にあるから,取るが後に続くことができます。もしも取るを先にすると,理不尽な行為で,犯罪的です。江戸時代の鼠小僧が大名屋敷からお金を取って貧民に与えたという行為は,取って与えるという逆順ですので,犯罪なのです。
生活の指針として,損して得取れということがあります。与えるという損をした後に,取るという得を得るようにするという順序が大事なのです。生活必需品を得るために,人々は物々交換をします。私はこれを与えると提供し,一方で,私はこれを取りたいという関係が,互いに一致したときに交換が成立し,お互いに与えて取ることが成立します。今は金銭という中間価値が介在した,ギブアンドテイクになっています。
give ando take という正反対の行為は,双方が与えて損して得を取ることで,公平な取引が可能であるが,注意すべきは与える方が先であること,その順序を守ることに正当性を了解しているのです。
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