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「第 96-12 章」 |
『子育ちは できた感動 積み上げて』
■子育ち12視標■
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『子育ち第12視標』
【経験あり】
《まえがき(毎号掲載)》
子育て羅針盤では,こどもの育ちを6つの方向と2つの領域から考察します。6つの方向とは,「誰が,どこで,いつ,何が,なぜ,どのように育つのか」という問題視座です。また,2つの領域とは,「自分の育ち(私の育ち)」と「他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ち」の領域を表します。6つの方向にそれぞれ2つの領域を重ねた12の論点が「子育て羅針盤」の基本的な考察の構成となります。
この第96版でも,これまでの流れに沿って,子ども自身や親が育ちの確認をしていくときに,見えて感じることができる視標という面から育ちを考えていきます。それぞれの完成度に違いがあってもそれは個性になり,一応の評価ができるようなら,幸せに育っているということができます。子どもの育ちは見えにくいものですが,羅針盤としての全方位を見届けることができることを再確認していただけたらと思っています。
《どのように育つのか(私たちの育ち)?》
子どもの成長は,学びによって前に進みます。学びの一環としての勉強が子どもに強いられます。学校生活の目的は,学ぶことです。学びとは真似ることです。まねる,まねぶ,まなぶ,とシフトしてきたのです。何かしたいとき,できている人に教わります。見よう見まねと言われるように,できている人を見て真似をすることが学ぶことです。ところで,情報社会では,いろんなことが視聴できる状況にあり,さらには,ゲームなどで「できる感」が増幅されていて,子育ちが邪魔をされています。
「どうすればいいか知っている」。そういう賢い子どもが増えています。気になることは,「自分はできるんだ」と錯覚しているということです。例えば,サッカーでゴールをするにはどうすればいいか,テレビで試合の様子を見ていれば,子どもでも知ることができます。ゴールに向かってボールを蹴ればいいのです。でも,そのボールを蹴るという簡単なことさえ,実際にやってみると上手くできないはずです。届かない,真っ直ぐ飛ばない,キーパーに弾かれるなど,知っていてもできないのです。
できると思うところで止まるのではなく,実際に自分でしてみて,「できた」というところまで進んだときに,育ちが一歩だけ進むことになります。できたことが経験として積み上がっていくことが育ちです。できた経験を元にしたできるという確信が,自信となります。ところで,人はすべてのことが100%できるわけではありません。例えば,野球の打者は3割打つことができたら優秀であり,7割はできていないのです。できないことがあるということを経験することも大事です。
できる・できないの境目は,子どものような成長途上にある場合は,年齢に応じて変動していきます。年齢に応じたできることがあり,発達課題となります。ただ,あまり厳格に捉えることは適切ではありません。育ちには個人差,つまり子ども一人一人で凸凹があります。子ども同士の比較は意味がないということです。気をつけておくことは,言うようになったことが育ちではなく,できるようになった,それが育ちであるということです。
★落書き★
身近に雑草がある生活をされている方は少なくなっているかもしれません。雑草を退治しようとするとき,根から掘り出せば退治できると思っていますが,雑草魂はそれほど甘くはないそうです。地中深くは発芽に必要な光が当たらないので,発芽しないままの種子がたくさんあります。根こそぎ雑草を退治しようと安易に土を掘り起こすと,地中の種子を地上に出すことになってしまい,大量の種子が太陽光を浴びて発芽し成長してしまいます。光を当てないように防草シールで覆うのが手軽な対策のようです。
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