*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【ある研究大会の構想?】

 県の社会教育研究大会が開かれます。県社会教育委員連絡協議会の副会長をしている関係で,大会の企画に関わることになります。事前の理事会では,事務局より,来年度から小学校で新学習指導要領に変わることを前提とした社会教育のあり方に踏み込むという研修目的の説明がありました。これに対して,理事からは,子どもの育成については,親のあり方が最重要であることを強く打ち出すべきであるという意見,また一方で学校の変化が社会教育にどう関係するのかを明確にすることによって社会教育委員に役立つ研究大会になるようにという意見が出されました。それでは,どのようなことに留意すればいいのかという意見を求める文書が事務局から届きました。何らかの意見を表明する責務があります。大会要項を確認しながら,考えてみることにします。

《趣旨》
 近年,少子高齢化や情報化,市町村合併や地方分権の進展等,社会情勢は急激に変化している。子どもたちが、こうした変化の激しい社会を生きるためには、人間として知・徳・体の調和のとれた育成を図る必要がある。
 そこで、社会教育委員をはじめ社会教育関係者が一堂に会し、研究協議や情報交換を通して、子どもたちの健やかな成長に向けた取組の充実等について研鑽を深めることにより、本県社会教育の振興を図る。
《研究主題》
  「次代を担う子どもたちの育成に向け、今、社会教育は何をすべきか」
《講演》
  「子どもの健全育成に向けた社会教育の役割」
《シンポジウム》
  シンポジスト:小学校長,県PTA連合会副会長,社会教育委員,社会教育課長

 学習指導要領が変わることは,学校本来の役割上の事情です。直接に社会教育に関わることではありません。学校における学習の比重が増すことによって,従来学校が引き受けてきた全般的な子どもの育成へ手が回りかねるということは想像可能です。そうであるなら,家庭や地域の教育力といったものが弱体化している現状では,さらなる育成環境の後退が必然です。広く危惧されてきた学校依存体質の脱却が急務となります。理事会における親の意識の改革を求める意見は,この状況認識から出て来たものです。
 育成の場を学校・家庭・地域に分けて,それぞれが役割分担をするという構図が一般的な育成のイメージです。予定されているシンポジストの専門領域も,同じ区分けに沿っています。ところで,シンポジウムの流れ図では,それぞれの立場からの子どもの課題分析を,地域活動に向けて収斂させるという意図が示されています。すなわち,それぞれが地域と連携した具体的な活動を話題とすることによって,社会教育(社会教育委員・地域・行政)の取組に対する示唆を得ようとしています。

【学習と教育】
 社会教育=地域教育というイメージが強く出ていて,家庭教育の影が薄くなっているようです。社会教育は人が生きている,生きることを主題とする教育です。大人たちが生きるために家庭を営み地域を拠り所にする中で,そこにいる子どもたちは生きることを学んでいくということが期待されています。生活体験による学習ということができます。ここで,学習と教育の違いを明確にしておく必要があります。例えば,子どもは日々の暮らしの中で言葉を覚えていきます。体験学習です。その言葉を文字化して順序よく並べて文章に仕上げることは教育がなし得ることです。いわゆる読み書きです。様々な体験を文字という伝達記号化した上で整理して,意味を弁えさせ,理解させる教育がなければ,一つの体験は一つのままに終わります。家庭では,子どもが夕日を見てわーっと感じた経験を,「きれいだね」と言葉で表現することを教えなければなりません。教えるということは,極言すれば言葉を与えることです。肩を叩いてくれたら,優しいねと言葉を教えることができます。体験していないことは分かりません,できません。無垢の子どもは0からの出発です。様々な経験をすることによって1まで進みます。1から先が教育の出番です。行き詰まったとき,1からならば出直すことができます。

【教育の目標】
 社会教育の弱点は,カリキュラムが明確に与えられていないということです。だからこそ,現状に沿った教育課題を設定し教育方策を構築することが,社会教育計画書の策定を義務づけられている社会教育委員の第一の役割となっています。さらには,教育活動は偶然の機会に行うものではなく,意図的に行うものです。子どもの育成に関しては,何を教えるかを自覚している大人が子どものそばにいる必要があります。家庭・地域の教育力は大人が持っている自分の生きる力を意図的に伝授することであると考えると,その教育を実践する条件整備として,大人自らが生きる力を分析して,その要素を明確に認識していなければなりません。趣旨に述べられている「人間として知・徳・体の調和のとれた育成」は,一つの要素例です。

【教育の構造】
 知育・徳育・体育というセットがよく掲げられています。それはいいのですが,例えば知育とは具体的にどういうことかという共通理解がされていません。ごく単純に言い切れば,知育の入口はアレッという疑問や驚きであり,分かったという納得が出口です。徳育の入口は嫌だという不快や不満であり,よかったという安堵が出口です。体育の入口は痛いという苦痛や不自由さであり,できたという快感が出口です。教育活動は入口と出口を持つ流れとして機能しているものです。入口と出口の間に生きる知恵を組み込むことが教育の作用です。子どもがいろんな局面で出会うであろう具体的な入口と出口を精選し,現状の育成環境の中で過不足を勘案してバランス良く配置しようと計画することが,社会教育委員の仕事になります。

【社会教育は何をなすべきか】
 子どもの育成について社会教育がなすべき最初のことは,育成しようという意識を払拭することです。子どもをこうしようというのではなく,こうするように仕向けるという一歩離れた支援をするようなパターンに変えることです。例えば,通学合宿という経験をさせることによって,子どもたちは自分の力で成長します。教育といえばこうしなさいと教えることだというイメージから脱却しないと,子どもの育ちを促すことはできません。何度言えば分かるのかという押しつけの無効経験から学ぶべきです。これは育成意識の改革です。
 家庭や地域の教育力の低下がいわれる割には,教育力とは何かが明確に理解されていないようです。条件整備のために,家庭や地域で生活をさせることです。子どもに必要な社会教育は生活教育であると考えると,軌道修正ができます。暮らしの中には,子ども世界に閉じこもっていては経験できない疑問なこと,嫌なこと,心身の痛むことがあります。そのとき子どもたちは教育の入口に立つことになります。そばにいる親や地域の大人の出番になります。言い伝えられてきた「苦労するから育つ」という言葉を再認識すべきです。これは育成活動の改革です。
 シンポジウムでは,地域の実情に応じて取り組まれている様々な社会教育活動を,実践事例として並べてみせることから一歩進んで,子どもの育成総体における位置づけ,意味づけという考察をすべきです。教育は計画的に行われるはずのものだからです。位置づけができれば,展開の方向も明らかになり,活動が単発に終わることはないはずです。ともすれば,活動がマンネリ化したり,他の活動とつながりを欠いて孤立してしまうのは,育成計画という枠組みが想定されていないためです。これは育成体制の構築です。

 以上,社会教育がなさなければならない課題を探るための基本的な指標を提示してみました。これは,参加者が学びたいことでもあります。どのような研修が提供されるのか楽しみです。

(2010年07月20日)