1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
 
 

9月1日 甲戌 陰晴不定 [吉記]
  或る者云く、通盛朝臣越前の国府に在り。而るに去る月二十三日、賊徒国中に乱入し、
  大野・坂北両郷を焼き払う。加賀の国住人等が所為と。勝負今明在り。猶官軍を加え
  らるべきの由、脚力を差し申し上げると。近日連々の風聞此の如き事なり。
 

9月2日 乙亥 天晴 [玉葉]
  伝聞、北陸道の賊徒熾盛なり。通盛朝臣、征伐すること能わず。加賀以北、越前の国
  中、猶命に従わざるの族有りと。
 

9月3日 丙子
  越後の守資永(城の四郎と号す)勅命に任せ、当国の軍士等を駈り催し、木曽の冠者
  義仲を攻めんと擬すの処、今朝頓滅す。これ天譴を蒙るか。
   従五位下行越後の守平朝臣資永
     城の九郎資国男、母将軍三郎清原の武衡女
     養和元年八月十三日任叙
 

9月4日 丁丑
  木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛す。而るに先陣根井の太郎越前の国水津に
  至り、通盛朝臣の従軍とすでに合戦を始むと。
 

9月6日 己卯 天晴 [玉葉]
  鎮西の謀反殊に甚だし。菊池と原田と元は怨敵と雖も、すでに和平し、同心し貞能を
  訪わんと欲す。貞能備中の国に逗留し、兵粮米を望み申すと。
 

9月7日 庚辰
  従五位下藤原俊綱(字足利の太郎)は、武蔵の守秀郷朝臣の後胤、鎮守府将軍兼阿波
  の守兼光六代の孫、散位家綱が男なり。数千町を領掌し、郡内の棟梁たるなり。而る
  に去る仁安年中、或る女性の凶害に依って、下野の国足利庄の領主職を得替す。仍っ
  て平家小松内府、この所を新田の冠者義重に賜うの間、俊綱上洛せしめ、愁い申すの
  時返されをはんぬ。爾より以降、その恩に酬いんが為、近年平家に属かしむの上、嫡
  男又太郎忠綱、三郎先生義廣に同意す。これ等の事に依って、武衛の御方に参らず。
  武衛また頻りに咎め思し食すの間、和田の次郎義茂に仰せ、俊綱追討の御書を下さる。
  三浦の十郎義連・葛西の三郎清重・宇佐美の平次實政等これに相副えらる。先ず義茂
  今日下向す。
 

9月9日 壬午 天晴 [玉葉]
  伝聞、通盛朝臣、越前・加賀の国人等の為頗る敗られをはんぬ。すでに上洛を企つと。
  但し実説これを尋ねるべし。また聞く(この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す)、
  熊野の湛増、使人に付け書札を院に進す。これ関東に向かうと雖も、全く謀叛の儀に
  非ず。公の奉為、僻事有るべからずと。

[吉記]
  越前の合戦すでにをはんぬ。官軍破られ、中宮の亮敦賀に引退するの由、今日脚力到
  来すと。
 

9月10日 癸未 天晴 [玉葉]
  通盛朝臣の軍兵、加賀の国人等の為追い降さる事一定と。仍って津留賀城に引き籠も
  り、軍兵を副うべきの由を申す。仍って武士等を遣わさんと欲すと。
 

9月11日 甲申 天晴 [玉葉]
  伝聞、教経(敦盛卿子)・行盛等、副将軍として北陸道に下向すべし。また重衡卿等、
  東国に赴くべしと。
 

9月12日 乙酉 天晴 [玉葉]
  伝聞、通盛津留賀城を逃れ山林に交りをはんぬと。但し実説知り難し。経正朝臣猶若
  狭に在り。全く国境を越えず。通盛件の朝臣を待ち、寄せんと欲するの間、遅々す。
  遮って追い落されをはんぬ。経正不覚の致す所の由、世以て謳歌すと。
 

9月13日 丙戌
  和田の次郎義茂が飛脚、下野の国より参る。申して云く、義茂未到の以前、俊綱専一
  の者桐生の六郎、隠れ忠を顕わさんが為、主人を斬りて深山に籠もる。捜し求めるの
  処、御使いの由を聞き、始めて陣内に入来す。但し彼の首に於いては、持参すべしと
  称しこれを出し渡さず。何様に計らい沙汰すべしやと。仰せに云く、早くその首を持
  参すべきの旨下知せしむべしてえり。使者則ち馳せ帰ると。

[玉葉]
  伝聞、北陸道の追討使、下向未だ定まらず。てえれば、由緒を知らず。
 

9月16日 己丑
  桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内
  を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを
  仰せらる。次いで実検を加えらるべきに依って、俊綱が面を見知るの者これ有るかの
  由尋ね仰せらる。而るに只今祇候の衆は、合眼せざるの由これを申す。爰に佐野の七
  郎申して云く、下河邊の四郎政義常に対面を遂ぐと。これを召さるべきかと。仍って
  召し仰すの間、政義実検を遂げ帰参せしむ。申して云く、首を刎ねて後日数を経るが
  故、その面殊に改め変ぜしむと雖も、大略相違無しと。
 

9月18日 辛卯
  桐生の六郎梶原平三を以て申して云く、この賞に依って御家人に列すべしと。而るに
  譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり。一旦と雖も賞翫に足らず。早く誅
  すべきの由仰せらる。景時則ち俊綱が首の傍に梟けをはんぬ。次いで俊綱遺領等の事、
  その沙汰有り。所領に於いては収公す。妻子等に至りては、本宅・資財の安堵せしむ
  べきの旨これを定めらる。その趣を御下文に載せ、和田の次郎が許に遣わさると。
   下す 和田の次郎義茂が所
    俊綱の子息郎従たりと雖も、御方に参向する輩を罰すべからざる事
   右子息兄弟と云い、郎従眷属と云い、桐生の者を始めとして、御方に落ち参るに於
   いては、殺害に及ぶべからず。また件の党類等が妻子眷属並びに私宅等、損亡を取
   るべからざるの旨、仰せらるる所下知件の如し。
     治承五年九月十八日
 

9月19日 壬辰 晴 [玉葉]
  伝聞、君臣を引卒し、海西に赴くべきの由、すでに一定せられをはんぬ。然れども、
  故に他聞に及ばず。卒爾にその儀有るべしと。天下ただこの時に在るか。
 

9月20日 己巳 晴 [玉葉]
  伝聞、東国・北陸共に以て強大す。官軍オウ弱と。
 

9月21日 甲午 霽 [吉記]
  後聞、故頼政法師郎等彌太郎盛兼嫌疑の事有り(故三條宮の間の事と)。前の按察侍
  家に於いて、前の幕下武士を遣わし、搦めんと欲するの間、件の盛兼自殺死す(喉笛
  を掻き切る)。また前の少納言宗綱入道前の按察の許より搦め出さると。未曾有の事
  なり。
 

9月24日 丁酉 雨降る [玉葉]
  伝聞、大和の国前の大将の庄(大福庄なり)、源氏(二川三郎と称すと)の為焼かれ
  をはんぬ。奈良の悪僧少々相交じると。
 

9月27日 庚子
  民部大夫成良平家の使として、伊豫の国に乱入す。而るに河野の四郎以下の在廰等、
  異心有るに依って合戦に及ぶ。河野頗る雌伏す。これ無勢の故かと。

[玉葉]
  行盛朝臣、今日門出す。北陸に赴くべしと。
 

9月28日 辛丑
  和田の次郎義茂、下野の国より帰参すと。

[玉葉]
  伝聞、熊野の法師原、一同反きをはんぬ。鹿背山を切り塞ぐ。これに因って、頼盛卿
  追討使として下向すべきの由、仰せ下されをはんぬ(紀伊の国、彼の卿知行たり)。
  また聞く、東国の輩、上洛近くに在り。すでに参河・尾張等に及ぶ。仍って前の幕下
  郎従等、且つは伊勢・美濃等方へ遣わすと。
 

9月30日 癸卯 陰晴不定 [玉葉]
  頼業云く、一昨日前の幕下の許より、使者を送られ謁せしむの処、示されて云く、天
  下の事、今に於いては、武力叶うべからず。何の計略を廻すべしや。太神宮、臨時祭
  を行わる事如何。また阿育王の例に任せ、八万四千基の塔を造らるは如何。この両條
  の外、善政有らば、行わるべしてえり。