1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

7月1日 壬亥 天晴 [玉葉]
  賊徒今日入洛すべきの由、兼日風聞す。然れどもその事無し。伝聞、貞能申して云く、
  追討使を遣わすべからず。ただ勢多の辺に於いて相待つべしと。
 

7月2日 甲子 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝忽ち出るべからず。ただ木曽の冠者・十郎等手を四方に分ち、寄すべきの
  由議定すと。
 

7月3日 乙丑 天晴 [玉葉]
  或いは云く、秋節以前に、賊徒入京すべし。或いは云く、関東の勢を待ち、九十月の
  比入洛すべしと。閭巷縦横の説、彼是知り難し。今日、浮説に依って武士騒動す。
 

7月初旬
  平家やがて京へぞのぼられにけり、去四月には十万よきにて下りしに、今七月の軍に
  まけて帰り上るには、其勢僅に二万余騎、残る七万よきは北陸道にて討れて、かばね
  を道のほとりにさらしけり。
 

7月5日
  北国の賊徒ノ事、院御所にて定め有り。左大臣経宗・右大臣兼實・左大将實定・皇后
  宮大夫實房・堀川大納言忠親・梅小路中納言長方、この人々を召されけるに、堀河・
  右大臣は参り給はざりけり。右大将・大蔵卿泰経を御使にて、堀川大納言忠親は唯よ
  くよく御祈祷行はるべき由を申されける。左大臣は門々をかためられるべし申されけ
  るぞ云がひなかりける。右大臣は東寺にて秘法あり。
 

7月9日 辛未 [吉記]
  金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起す。頼政入道の党その中に在りと。殿下より院に申
  さる。また丹波すでに興盛と。
 

7月13日
  暁より何といふ事は聞分けねども、六波羅の辺大に騒ぐ。京中もまた静かならず。資
  財雑具東西に運び隠す。こはいかにしつる事ぞやとて、魂をけす事斜ならず。この暁
  俄にさわげる事は、美濃源氏佐渡右衛門尉重實といふ者あり、瀬多を廻りて夜半ばか
  りに六はらに馳上て、北国の源氏すでに近江の国へ打入て、道々をうちふさぎ、人を
  通さざるよしを申たりければ、六波羅京中騒ぎあへり。かかりければ新三位中将資盛
  卿大将軍として、貞能以下宇治橋をめぐりて近江国へ下向す。其夜は宇治にとどまる。
  其勢二千余騎。また新中納言知盛卿・本三位中将重衡大将軍として瀬多より近江国へ
  下向す。それも今夜は山科に宿す。其勢三千余騎。
 

7月16日 戊寅 天陰雨降らず [吉記]
  源氏十郎蔵人行家と称する者、すでに伊賀の国に入(去る十四日と)り、家継法師(平
  田入道と号す、貞能兄)と合戦す。また三河の冠者と号する源氏、大和の国に越え入
  ると。薩摩の守忠度朝臣丹波の国に発向す。百騎ばかりを引率すと。
 

7月21日 癸未 天晴 [玉葉]
  午の刻、追討使発向す。三位中将資盛大将軍として、肥後の守定能を相具し、多原方
  に向かう。予の家東小路(富小路)を経る。家僕等、密々見物す。その勢千八十騎と
  (慥にこれを計うと)。日来、世の推す所七八千騎、及び万騎と。而るに見在の勢、
  僅かに千騎、有名無実の風聞、これを以て察すべきか。

[吉記]
  今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えた
  り。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都
  廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。
 

7月22日 甲申 朝間天陰 辰刻以後晴 [玉葉]
  卯の刻人告げて、江州の武士等、すでに六波羅の辺に入京す。物騒極まり無しと。ま
  た聞く、入京実説に非ず。而るに地武士等台獄に登り、講堂の前に集会すと。日来登
  山の僧綱等併せて京に下る。但し座主一人、京に下らずと。また聞く、十郎蔵人行家
  大和の国に入り、宇多郡に住す。吉野の大衆等与力すと。仍って資盛・貞能等、江州
  に赴かず。行家の入洛を相待つと。貞能去夜宇治に宿し、今朝多原地に向かわんと欲
  するの間、この事有り。仍って彼の前途を止め、この入洛を相待つと。また聞く、多
  田蔵人大夫行綱、日来平家に属く。近日源氏に同意するの風聞有り。而るに今朝より
  忽ち謀反し、摂津・河内両国に横行す。種々の悪行を張行し、河尻船等併せて点取す
  と。両国の衆民皆悉く与力すと。また聞く、丹波の追討使忠度、その勢敵対に非ざる
  の間、大江山に帰りをはんぬと。凡そ一々の事、直事に非ざるか。今日、上皇宮卿相
  参集し、議定の事有りと。

[吉記]
  源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言
  (知盛)・三位中将(重衡)等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及
  ぶと。また夜に入り按察大納言(頼盛)下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。
 

7月23日 乙酉 雨 [玉葉]
  六波羅の辺、歎息の外他事無しと。今旦、法皇法性寺御所に渡御すと。世間物騒に依
  ってなり。
 

7月24日
  亥の刻計りに主上忍びて六はらに行幸あり。

[玉葉]
  この一両日、江州の武士台獄に登る。今夜夜打ち有るべきの由風聞す。仍って忽ち法
  性寺御所に行幸し給う。暁天に及ぶと。この辺恐れ有るに依って、余女房を相具し法
  性寺家に渡る。

[愚管抄]
  夜半に法皇密かに法性寺を出させ給いて、鞍馬の方より廻りて横川へ登らせ御坐まし
  て、近江の源氏がり比由つかわしけり。ただ北面下臈に知康鼓の兵衛と云う男、御輿
  かきなんどしてぞ候いける。

[吉記]
  十郎蔵人行家伊賀を超え、すでに大和の国宮河原に着くの由、別当僧正殿下に申さる。
  資盛卿貞能を相具し帰参すべきの由、泰経の奉行として仰せ出さると。追討を奉る者、
  未だこの例を聞かず。而る間猶帰洛せず。本これ宇治一坂辺に宿す。件の所より八幡
  南を廻り、河尻方に向かう。これ多田の下知と称し、太田の太郎頼助、或いは鎮西の
  粮米を押し取り、或いは乗船等を打ち破り、或いは河尻の人家を焼き払うと。この事
  を鎮めんが為、先ず行き向かうと。
 

7月25日
  神璽寶剣とり具し、建禮門院も主上と同じ輿に奉る。内侍所も渡し奉りぬ。印鎰・時
  ノ簡・玄上・鈴鹿に至る迄、とり具すべしと平大納言時忠下知し給ひけり。御輿いだ
  させ給ひければ、前後に候人は平大納言時忠・内蔵頭信基ばかりぞ、衣冠正しうして
  供奉したりける。其外の人々は、公家も近衛司も、御綱ノ佐も皆鎧を着給へり、女房
  は二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二ちょう、馬の上の女房は数をしらず。七條を西
  へ朱雀を南へ行幸なる。

[玉葉]
  寅の刻、人告げて云く、法皇御逐電と。この事日来万人庶幾う所なり。而るに今の次
  第に於いては、頗る支度無しと謂うべきか。卯の刻、重ねて一定の由を聞く。仍って
  女房等、少々山奥の小堂の辺に遣わす。余・法印相共に堂(最勝金剛院)に向かい、
  仏前に候す。この間、定能卿来たり。幽閉の所を尋ね出し、密々に隠し置きをはんぬ。
  巳の刻に及び、武士等主上を具し奉り、淀地方に向かいをはんぬ。てえれば、鎮西に
  籠もり在ると。前の内大臣已下一人残らず。六波羅・西八條等の舎屋一所残らず、併
  せて灰燼に化しをはんぬ。一時の間、煙炎天に満つ。昨は官軍と称し、縦えば源氏等
  を追討す。今は省等に違い、若しくは辺土を指し逃げ去る。盛衰の理、眼に満ち耳に
  満つ。悲しむ哉。(略)或る人告げて云く、法皇御登山をはんぬ。人々未だ参らず。
  暫く秘蔵有りと。平氏等皆落ちをはんぬるの後、定能卿登山しをはんぬ。件の卿に付
  け参入如何の由を申しをはんぬ。申の刻、落武者等また京に帰る。敢えて信用せざる
  の処、事すでに一定なり。貞能一矢を射るべきの由を称すと。或いは又主上及び劔璽
  賢所等を具し奉り、鎮西に趣かんと欲す。而るに臣下無すべからず。仍って然るべき
  の公卿を取り具さんが為なりと。怖畏限り無しと雖も、忽ち計略に及ばず。天を仰ぎ
  運に任せ、三宝を念じ奉るの処、帰京の武士等、この最勝金剛院を以て城郭を構うべ
  きの由、下人来たり告ぐ。仍って人を遣わし見せしむの処、すでに少々来たり趣くと。
  同居すべきに非ず。追却すべきに非ず。仍って周章女房少々を相伴い、日野の辺に向
  かうの処、源氏すでに木幡山に在りと。仍って忽ち稲荷下社の辺に宿す。狼藉勝計う
  べからず。

[愚管抄]
  東塔圓融房へ御幸なりてありければ、座主明雲は偏に平氏の護持僧にて、留まりたる
  をこそわろしと云いければ、山へは上りながら参らざりけり。さて京の人さながら摂
  録の近衛殿(基通)は一定具して落ちぬらんと人は思いたりけるも、違いて留まりて
  山へ参りにけり。松殿(基房)入道も九條右大臣(兼實)も皆上り集まりけり。
 

7月26日 戊子 天晴 [玉葉]
  払暁日野に向かわんと欲するの間、その路を切り塞ぐに依って、首途に能わず。この
  間、昨日帰京の武士等。成すこと無くしてまた逃げ去りをはんぬ。帰京の本意、未だ
  その詮を知らず。武勇のオウ弱・所行の尾籠・奇異の至り、喩えを取るに物無し。辰
  の刻、法性寺に帰る。巳の刻、定能卿札を送りて云く、御参の事奏聞しをはんぬ。早
  く御参有るべし。入道関白同じく参入せらるる所なりと。楚忽に出立す。(略)路頭
  に於いて源納言(その息兼忠を相具す)に逢う。納言云く、神璽・寶劔・内侍所、賊
  臣悉く盗み取り奉りをはんぬ。而るに左右無く平氏を追討すべきの由、仰せ下さるの
  條、甚だ不便。先ず劔璽安全の沙汰有るべし。仍ってこの旨を奏聞し勅許有り。親宗
  を以て御教書を多田蔵人大夫行綱の許に遣わしをはんぬ。この事猶荒沙汰なり。仍っ
  て内々女院、若しくは時忠卿(件の卿賊に伴う)の許に仰せ遣わさるべきの由、重ね
  て以て奏聞す。然るべきの由仰せ有りと。戌の刻、東塔南谷青蓮院に到る。(略)余
  暫く休息の後、法皇御所(圓融房、これ座主房なり)に参る。路の間、前駈等松明を
  取り前行す。この程四五町ばかりなり。

[吉記]
  山僧等京に下る。路次の狼藉勝計うべからず。或いは降将縁辺と称し放火し、或いは
  物取追捕と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。
 

7月27日 己丑 天晴 [玉葉]
  (前略)余また云く、今に於いては、義仲(木曽)・行家(十郎)等、士卒の狼藉を
  停止し、早く入京すべきか。その後早速還御有るべし。然らずんば、京都の濫吹敢え
  て止むべからず。これ等の趣早く奏聞すべし。定長帰りをはんぬ。未の刻、定能卿告
  げて云く、連々日次無きに依って、今日俄に還御(明日復日、明後日御衰日、晦日に
  至るの際、甚だ懈怠すべきの故なり)、即ち以て出御す。余御幸の後、同じく以て山
  を出る。戌の刻、法性寺に到る。
 

7月28日 庚寅 天晴 [玉葉]
  今日、義仲・行家等、南北(義仲は北、行家は南)より入京すと。晩頭、左少弁光長
  来たり語って云く、義仲・行家等を蓮花王院の御所に召し、追討の事を仰せ遣わさる。
  大理殿上の縁に於いてこれを仰す。彼の両人地に跪きこれを承る。御所たるに依って
  なり。参入の間、彼の両人相並び、敢えて前後せず。爭か権の意趣これを以て知るべ
  し。両人退出するの間、頭の弁兼光京中の狼藉を停止すべきの由仰すと。

[吉記]
  申の斜め武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂を着し、黒革威
  の甲、石打箭を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂劔を帯し、また替箭を負い、油
  単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負
  い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八
  輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び
  同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立
  つ、義仲右に立つ)参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階
  隠間に当たり蹲踞す。別当公卿の座北簀子に下居し、砌下に進むべきの由これを仰せ
  らる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討
  し進すべきなり。両人唯と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝を見るに、夢か夢に非
  ざるか、万人の属目、筆端の及ぶ所に非ず。頭の弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。
 

7月29日
  いつしか義仲・行家を院の御所へ召して、別当左衛門督實家・頭左中弁兼光をもて、
  前内大臣宗盛以下平氏の一類追討すべき由両将に召仰す。両人庭上に膝まづきてこれ
  を承る。

[吉記]
  降将等すでに播磨に至るの由風聞す。上総の介忠清・検非違使貞頼等出家す。忠清は
  能盛の許に在り。貞頼は兼毫法印の許に在りと。然るべき輩等多く付かざるの由、そ
  の聞こえ有り。今夜祇園中路五條坊門以南焼亡す。六波羅密寺同じく以て焼亡す。ま
  た一日焼け残る所故正盛朝臣(常光院)焼亡すと。
 

7月30日 壬辰 天晴 [玉葉]
  左大臣仰せに云く、條々の事計り申すべしてえり。
  一、仰せに云く、今度の義兵、造意頼朝に在りと雖も、当時成功の事は、義仲・行家
    なり。且つは賞を行わんと欲せば、頼朝の欝測り難し。彼の上洛を待たんと欲す。
    また両人賞の晩きを愁うか。両ヶの間、叡慮決し難し。兼ねて又、三人の勧賞等
    差有るべきか。その間の子細計り申すべしてえり。
  人々申して云く、頼朝参洛の期を待たるるべからず。彼の賞に加え、三人同時に行わ
  るべし。頼朝の賞、もし雅意に背かば、申請に随い改易し、何の難有らんや。その等
  級に於いては、且つは勲功の優劣に依って、且つは本官の高下に随い、計り行わるべ
  きか。惣てこれを論ず。第一頼朝、第二義仲、第三行家なり。
   頼朝(京官、任国、加級、左大臣云く、京官に於いては、参洛の時任ずべし。余云
      く、然るべからず。同時に任ずべし。長方これに同ず)
   義仲(任国、叙爵)
   行家(任国、叙爵、但し国の勝劣を以てこれを任じ、尊卑差別すべしと。實房卿云
      く、義仲従上、行家従下宜しきか)
  一、仰せに云く、京中の狼藉、士卒巨万の致す所なり。各々その勢を減すべきの由、
    仰せ下さるべきの処、不慮の難、恐るる所無きに非ず。この為如何。兼ねて又縦
    え人数を減せらると雖も、兵粮無くば、狼藉絶うべからず。その用途また如何。
    同じく計り奏せしむべしてえり。
  人々申して云く、今に於いては、余党の恐れ、定めて群を成すに及ばざるか。士卒の
  人数を減さる。上計と謂うべし。兵粮の事、頗る異議有り。忠親・長方等云く、各々
  一ヶ国を賜いその用途に宛つべし。余難じて曰く、勧賞任国の外、更に国を賜うの條
  如何。両人云く、その用訖わらば、他人に任ぜらる。何の難有り。余曰く、理然るべ
  し。但し彼等定めて収公の恨みを含むか。ただ没官地の中、然るべきの所を撰び、宛
  給うべきか。然らずんばまた一ヶ国を以て、両人に分賜すべきか。但しこの條頗る喧
  嘩の基たるか。猶没官の所を賜うこと宜しかるべし。左大臣云く、両方の議各々然る
  べし。勅定に在るべし。
  一、仰せに曰く、神社・佛寺、及び甲乙の所領、多く関東・北陸に在り。今に於いて
    は、各々その使を遣わし沙汰を致すべきの由、本所に仰せらるべきか。
  一同申して云く、異議有るべからず。早く仰せらるべしてえり。
  (中略)兼光帰参しをはんぬ。各々議奏の趣、皆以て然るべし。早くこの定行わるべ
  してえり。今に於いては、各々御退出有るべきてえり。余即ち退出しをはんぬ。

[吉記]
  京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司等相防ぐの間、社司等の家
  に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金銅追捕に及び、度々合戦す。行願寺また
  追捕すと。成範卿院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わす。また内々貞能の許に仰せ遣
  わすの旨等有りと。
  京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。
   源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
   高田四郎重家・泉次郎重忠  一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
   出羽判官光長       一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。
   保田三郎義定       一條北より、東洞院東より、会坂に至る。
   村上太郎信国       五條北より、河原東より、近江境に至る。
   葦数太郎重隆       七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。
   十郎蔵人行家       七條南より、河原東より、大和境に至る。
   山本兵衛尉義経      四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   甲斐入道成覺       二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
   義仲           九重内、並びにこの外所々。
    已上義仲支配すと。