1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

9月3日 甲申
  陸奥の国平泉寺塔、殊に修理を加うべきの由、葛西兵衛の尉清重並びに伊澤左近将監
  家景等に仰せらる。これ破壊に及ぶの由言上せしむるが故なり。泰衡誅戮を被ると雖
  も、堂舎の事に於いては、故の如く沙汰有るべきの由、兼ねて仰せ定めらるる所なり。
  凡そ興法の御志前代未聞と。
 

9月9日 庚寅
  鶴岡の神事なり。将軍家御参り。仍って流鏑馬七騎・競馬三番・相撲十番等と。
 

9月18日 己亥
  蓮花王院領大和の国藤井庄の事、岡の冠者頼基関東一族の威に募り、恣に地頭と号し、
  所務を違乱するの由、領家の訴え有り。この事、去る文治年中院宣に依ってその職を
  停止せられをはんぬ。今更子細有るべからざるの趣、今日御返事を出ださると。
 

9月19日 庚子
  新籐次俊長・小中太光家等、御分国巡検使たるなり。これ不熟損亡の故なり。
 

9月23日 甲辰
  御家人多く以て新恩に浴す。廣元・行政・頼平これを奉行すと。
 

9月28日 己酉
  前の律師忠快三浦に向かう。これ義澄申請の旨有るに依ってなり。碩学の故か。義澄
  殊に仏法に帰するの士なり。中納言禅師増盛勝長寿院に住すと。
 

9月29日 庚戌
  鷹狩りを停止すべきの旨、諸国の御家人に仰せらる。厳制を違犯するの輩に於いては、
  その科有るべし。但し神社の供税贄鷹の事は、御制の限りに非ざるてえり。また故秀
  衡入道が後家今に存生す。殊に憐愍を加うべきの由、葛西兵衛の尉清重・伊澤左近将
  監等に仰せ付けらると。両人は、奥州惣奉行たるに依ってなり。