1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

7月6日 甲寅 晴
  残暑焼けるが如し。晩涼を待ち、御所に於いて百日の御鞠を始めらる。これ左金吾多
  年当道を好ましめ給うと雖も、未だその奥旨を知らしめ給わざるに依って、北面等の
  中、この芸達者一人下せらるべきの由、仙洞に申請せしめ給う処、便宜の仁を差し下
  せらるべきの由勅許の間、これに携わる輩に於いては調練の功を累ぬ。上足に交わら
  んが為なり。申の刻人々参進す。左金吾立たしめ給う。北條の五郎時連主・少将法眼
  観清・富部の五郎・大輔房源性・比企の彌四郎・肥多の八郎宗直等これに候ず。金持
  右衛門の尉計え申す。江間の四郎殿・同太郎主・民部の丞行光以下見證に候ず。
 

7月10日 戊午
  豊嶋右馬の允土佐の国守護職に補す。佐々木中務の丞経高法師跡なり。

[香宗我部伝家證文]
**北條時政書状
  土佐の国御家人中太秋道折紙これを献る。状の如きは、当国内深淵並びに香宗我部両
  郷地頭職、故殿御下文を給い知行するの処、彼の内村々の事、御下文に載せられずと
  称し、地頭の職に用いずと。事もし実ならば、尤も以て不便に候。御下文の状に任せ、
  沙汰を付けらるべく候か。将又由緒候は、子細を尋ね聞かしめ、左右を申せしめ給う
  べし。貴殿守護国たるの間、執り申せしめ候所なり。謹言。
    建仁元年七月十日        遠江守(花押)
  豊嶋馬の允殿