1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

9月2日 乙酉
  内籐兵衛の尉朝親京都より下着す。新古今和歌集を持参す。これ通具・有家・定家・
  家隆・雅経等の朝臣勅定を奉り、和歌所に於いて去る三月十六日これを選進す。同四
  月奏覧す。未だ竟宴を行われず。また披露の儀無し。而るに将軍家和語を好ましめ給
  うの上、故右大将軍の御詠、撰び入れらるるの由聞こし食すに就いて、頻りに御覧の
  志有りと雖も、態と尋ね申さるに及ばず。而るに朝親適々定家朝臣に属き当道を嗜む。
  即ちこの集の作者(読人知らず)に列なるの間、計略を廻らし書き進らすべきの由仰
  せ含めらるの処、朝雅・重忠等が事に依って、都鄙静かならざる故、今に遅引すと。
 

9月19日 壬寅
  伯耆の国宇多河庄地頭職を以て大原来迎院に施入せらると。廣元朝臣これを奉行す。
 

9月20日 癸卯 晴
  首藤刑部の丞経俊款状を捧ぐ。これ去る春の比伊勢平氏蜂起の時、無勢に依って、軍
  士を聚めんが為、暫くその国を遁れるの処、朝雅を差し遣わし平氏を誅せらるるの間、
  経俊が所帯伊賀伊勢の守護職を以て朝雅が賞に充てらる。而るに時に於いて進退する
  は兵の故実なり。強ち不可に処せられ難きか。就中朝雅が謀叛を退治する事、諸人勲
  功の号有りと雖も、正に誅罰を加えるは、独り愚息持壽丸の兵略に在るなり。件の両
  国守護職、適々日来朝雅が所帯なり。且つは経俊が本職なり。理運に任せ忠節に依っ
  て、返し給うべきの趣これを載すと。但し御許容無きか。随ってこの所は、この先帯
  刀の長惟信に補せらるるものなり。