1207年 (建永2年、10月25日改元 承元元年 丁卯)
 
 

6月2日 丙午 晴
  天野民部入道蓮景(俗名遠景)款状を奉る。先ず相州に進す。これ恩沢所望なり。始
  め治承四年八月山木合戦より以降、度々の勲功を計え、十一箇條の述懐を載す。大官
  令これを執り申す。
 

6月16日 庚申 陰
  涼気例年に似ず 頗る三四月の如し。世上の貴賤多く以て病脳す。
 

6月22日 丙寅 霽
  坊門亜相(信清卿)の使者参着す。仁和寺御室の令旨を進せらるる所なり。これ紀伊
  の国の土民等高野山に乱入し、狩猟を企て寺領を押妨す。和泉・紀伊の国の守護代専
  らその張本たり。関東の御沙汰として狼藉を止めらるべきの趣、寺門愁訴有るの間、
  御室件の金剛峯寺所司等の状を以て、坊門に仰せ合わさる。仍ってまたその旨を伝え
  申さると。
 

6月24日 丙戌 霽
  御室の仰せに就いて、坊門亜相執り申さる高野山愁訴、紀伊の国土民狼藉の事、御所
  に於いてその沙汰有り。和泉・紀伊両国守護は、佐原十郎左衛門の尉義連が職なり。
  義連卒去の後、未だその替わりを補せられず。而るに彼の両国は院の御熊野詣での駅
  家の雑事を為す。自今以降指せる事無きの外は、守護人を置くべからず。これに就い
  て諸事仙洞の御計らいたるべきの由これを定めらる。仍って義連代、早く召し上ぐべ
  きの由、御書を掃部入道寂忍の許に遣わさるる所なり。廣元朝臣これを奉行す。
 

6月29日 癸酉
  陰陽師左京の亮維範京都より参着す。御祈祷の事を仰せ付けられんが為、態と以てこ
  れを召し下さる。