1208年 (承元二年 戊辰)
 
 

5月9日 朝間天陰、以後大雨 [明月記]
  午の終わり上皇臨幸す(密儀例の如し)。次第殊なる事無し。遠くして委しく見えず。
  事了わり分散す。洪水、尊卑清水橋を渡る。童岑王の流鏑馬的に中たらず、即ち逐電
  す。髪を切り出家するの由その聞こえ有り。 (新日吉小五月会の記)
 

5月17日 乙卯
  将軍家御不例の時、御祈願有るに依って、鶴岡宮に於いて法華経を供養せらる。美作
  蔵人朝親奉行たり。
 

5月26日 丙寅
  籐内左衛門の尉季康(御台所の侍)上洛す。これ上皇南山臨幸有るべし。坊門殿(忠
  信)供奉せらるべきの間、彼の扈従としてこれを差し進す。また龍蹄並びに旅の調度
  等を献ぜらるるなり。
 

5月29日 丁卯 陰
  兵衛の尉清綱(御台所の侍)昨日京都より下着す。今日御所に参る。これ随分の有職
  なり。仍って将軍家御対面有り。清綱相伝の物と称し、古今和歌集一部を献らしむ。
  左金吾基俊書せしむの由これを申す。先達の筆跡なり。すでに末代の重宝と謂うべし。
  殊に御感有り。また当時洛中の事を尋ね問わしめ御う。去る九日新日吉の小五月会、
  上皇御幸す。流鏑馬已下の事、故に以て刷わる。射手等多く西面の輩の子息の垂髪な
  り。各々月卿雲客の為これに出立せらる。即ち清綱が息童その役に従う。また峯王(院
  の御寵童、西面に候す)と号する童、箭的に中たらざるの間逐電し、忽ち以て出家す
  と。射手等の記、御覧有るべきの由仰せらるるの間、懐中よりこれを取り出し、御前
  に置かる。これ子息射手に列なるの間、申し出さんが為兼ねて用意すと。
    競馬                        (明月記9日条)
  一番 左 景頼    追い勝ち 口取り二 禄三つ
     右 種文
  二番 左 重連    儲け勝ち 口取り一 禄二つ
     右 頼員
  三番 左 助朝    末に及んで聊か取る
     右 敦貞    追い勝ち 口取り一 禄三つ
  四番 左 信季    儲け勝ち 口取り二 禄三つ
     右 行弘      [始終取る]
  五番 左 高遠    取り落とさる
     右 国文        追い勝ち 口取り二 禄三つ
  六番 左 助清    末に及んで聊か取る
     右 武澄        追い勝ち 口取り一 禄二つ
  七番 左 信継    
     右 種武        儲け勝つ 口取り一 禄二つ
   鼓  親定朝臣
   鉦鼓 長季

   流鏑馬
  少将範茂朝臣これに出立
    源三(翔)
  右大臣
    熊谷平三(直宗)
  別当
    鶴丸
  有雅朝臣
    峯王丸
  秀康
    松王丸(兵衛の尉、清綱子)
  二條中納言
    金王丸
  大貳
    籐次郎(信村)

   的立
  散位中原章清       左衛門の少尉行房    橘の範国
  籐の助直  大江の惟弘  右衛門の少尉源の資季  源の康重