1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

9月8日 乙巳
  豊前の前司尚友御所に参る。子息内蔵の允尚光・兵衛の尉能尚等を相具す。京都より
  参着すと。籐民部大夫行光の申次として見参に入る。これ西国御領乃貢納下奉行とし
  て在洛せしむ者なり。
 

9月10日 丁未
  幕府に女房の勝負有り。武州並びに近江の前司仲兼・内藤右馬の允知親ばかりその中
  に召し加えらると。
 

9月12日 己酉
  幕府に於いて駒御覧有り。修理の亮(泰時)進せらるる所なり。三浦平六左衛門の尉
  義村(御厩別当)奉行たり。諸人群参千人に及ぶ。御覧を経るの後、人々に賜うべき
  の旨仰せ出さる。相州その人数を承り、当座に於いて右筆せしめ折紙に注し給うと。
   一疋 鹿毛  今日の護持僧    一疋 黒駮  出雲の守
   一疋 葦毛  大和の前司     一疋 鴾毛  三條蔵人
   一疋 黒糟毛 近江の前司     一疋 鹿毛  豊前兵衛の尉
   一疋 鴾毛  宮内兵衛の尉   [一疋 瓦毛  籐の九郎次郎]
   一疋 栗毛  内藤右馬の允   [一疋 赤葦毛 当番の陰陽師]
  殿上人・僧・陰陽師の外、皆庭中に参りこれを給い、退出す。
 

9月18日 乙卯 天晴
  戌の刻、永福寺の別当美作律師経玄入滅す。日来痢病に依ってなり。
 

9月19日 丙辰
  未の刻、日光山の別当法眼弁覺使者を進し申して云く、故畠山の次郎重忠が末子大夫
  阿闍梨重慶、当山の麓に籠居す。浪人を召し聚め、また祈祷に肝胆を砕く事有り。こ
  れ謀叛を企てるの條異儀無きかの由これを申す。仲兼朝臣弁覺が使者の申す詞を以て
  御前に披露す。その間長沼の五郎宗政当座に候するの間、重慶を生虜るべきの趣これ
  を仰せ含めらる。仍って宗政帰宅すること能わず、家子一人・雑色男八人を具し、御
  所より直に下野の国に進発せしむ。聞き及ぶ郎従等競走す。これに依って鎌倉中聊か
  騒動すと。
 

9月22日 戊午
  将軍家火取澤の辺を逍遙せしめ給う。これ草花秋興を覧玉うに依ってなり。武蔵の守
  ・修理の亮・出雲の守・三浦左衛門の尉・結城左衛門の尉・内藤右馬の允等供奉せし
  む。皆歌道に携わるの輩なり。
 

9月26日 癸亥 天晴
  晩景宗政下野の国より参着す。重慶の首を斬り持参するの由これを申す。将軍家仲兼
  朝臣を以て仰せられて曰く、重忠は本過無くして誅を蒙る。その末子の法師、縦え隠
  謀を挿むと雖も何事か有らんや。随って仰せ下さるるの旨に任せ、先ずその身を生虜
  らしめこれを具し参らば、犯否の左右に就いて沙汰有るべきの処、戮誅を加う。楚忽
  の儀、罪業の因たるの由、太だ御歎息すと。仍って宗政御気色を蒙る。而るに宗政眼
  を怒らし、仲兼朝臣に盟って云く、件の法師に於いては、叛逆の企てその疑い無し。
  また生虜の條は掌の内に在りと雖も、直にこれを具し参らしめば、諸女性・比丘尼等
  が申状に就いて、定めて宥めの沙汰有らんかの由、兼ねて以て推量するの間、遮って
  これを梟罪す。奇怪に備えらるるの状如何。向後に於いて此の如き事有らば、忠節を
  抽んずと雖も誰か驕奢せざらんや。これ将軍家の御不可なり。凡そ右大将軍家の御時、
  恩賞を厚くすべきの趣、頻りに以て厳命有りと雖も、宗政諾し申さず。ただ望むらく
  は御引目を給い、海道十五箇国の中に於いて、民間の無礼を糺し行うべきの由啓せし
  むるの間、武備を重んぜらるるが故、忝なくも一の御引目を給い、今に逢屋の重宝と
  為す。当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇
  士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う。
  所謂、榛谷の四郎重朝が遺跡は五條の局に給う。中山の四郎重政が跡を以て下総の局
  に賜うと。この外過言勝計うべからず。仲兼一言に及ばず座を起つ。宗政また退出す。
 

9月28日 [皇帝紀抄]
  三社(日吉・祇園・北野)の奉幣使を定めらる。山門寺清水寺相論の事に依ってなり。