1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

9月13日 辛巳 天晴陰、酉の刻快晴、夜明月
  御所の和歌御会なり。一條羽林・李部以下好士七八許輩その座に候ぜらる。和歌披露
  の最中鶴岡宮騒動す。茲に因って関左衛門の尉政綱・若狭兵衛の尉忠季等、御使いと
  して宮寺に馳参す。子細を尋ねるの処、宿直の輩廻廊に候す。而るに児童・若僧等明
  月に徘徊す。彼の宿直人無礼を見るの故、闘諍を起こし、少生の為打擲せらると。
 

9月14日 壬午 晴
  金窪兵衛の尉行親を以て御使いとして、去る夜の宮寺狼藉の事を糺明せらる。これ三
  浦左衛門の尉義村子息駒若丸(光村これなり)張本たりと。件の宿直人と謂うは、右
  大将家の御時、敬神の余り恪勤(小侍と号す)等を以てこれを結番し、毎夜宮中を警
  固せらるる所なり。その儀今に怠らざるの処、恥辱に逢うの間、向後この事を停止す
  べきの由定め下さる。駒若丸に於いては出仕を止めらると。
 

9月21日 [皇帝紀抄]
  辰の時、山の大衆等日吉の神輿三基(十禅師・八王子・客人宮)、祇園の神輿三基(
  大政所・波利女・少将井)、京極寺の神輿一基を皇居閑院左衛門の陣に振り奉る。即
  ちまた北野の神輿二基(天神・三所王子)を右衛門の陣に振り奉る。武士等相防ぐの
  間、刃傷殺害の者有り。
 

9月29日 丁酉 陰
  京都の飛脚参着す。申して云く、去る二十一日山門の衆徒、日吉・祇園・北野等の神
  輿を頂戴し入洛し、閑院殿の陣頭に振り奉る。仍って北面の衆を遣わし、これを防禦
  せらる。また在京の健士光員・基清・能直・廣綱等、勅定に依って宮門に馳参し、相
  支えるの処、加藤兵衛の尉光資(光員男、後加藤新左衛門の尉と号す)八王子の駕輿
  丁の男の腕を切り落とすの間、神輿を汚穢せしむ。仍って振り棄て奉り帰山す。これ
  石清水の別当法印宗清、鎮西筥崎宮を執務するの間、天台末寺大山寺神人船頭長光安、
  筥崎宮留守相模寺主行遍並びに子息左近将監光助等が為に殺害せらる。仍って衆徒蜂
  起す。奏状を勒し訴え申すの間、行遍・光助禁獄せらると雖も、筥崎宮を没収し山門
  領と為し、並びに宗清法印を配流せらるべきの由これを訴え申し、神輿を動かし奉る
  所なり。