1222年 (承久4年、4月13日改元 貞応元年 壬午)
 
 

4月13日 [皇帝紀抄]
  改元、代始に依ってなり。
 

4月19日 丁酉
  安芸の国千與末の地頭職、厳島社領に寄進せしめ給うと。
 

4月26日 甲辰 晴
  評議、去年兵乱以後の守護・地頭所務の條々を定めらると。酉の刻、前浜に於いて七
  座の百恠祭を行わる。国道朝臣・知輔・親職・忠業・重宗・文元等これを奉仕す。御
  使は籐勾当頼隆なり。これ近日前浜・腰越等の浦々、死鴨寄り来たるの間、怪行わる
  る所なり。

**関東下知状
    国々守護人並びに新地頭非法禁制御成敗條々の事
  一 京都大番の事
  一 謀反人追討の事
   眞を糺し偽を明らかにし、実正に随い沙汰を致すべし。
  一 刃傷殺害人禁断の事
   右、先ず所在の庄公に相触れ、犯否を糺明し、実に任せ搦め出すの時、これを請け
   取るべし。左右無く使者乱入の事停止すべし。兼ねてまた国司一所の中、検非違所
   別当宗たる所職なり。而るに守護人管領せしむるの間、盗犯放火と云い、人勾引と
   云い、此の如き犯人成敗に及ばずと。早く守護人の妨げを停止し、先例に任せ、検
   非違所の沙汰たるべし。
  一 地頭等存知すべき條々
   給分所知の外、自由に任せ近隣他領を押領すること、これを停止すべし。次いで地
   頭は、本地頭・下司の跡を守り、沙汰を致すべきなり。但し本下司得分無下乏少た
   るの所は、御使の注し申すに随い、計り御下知有るべきなり。御成敗以前、御計を
   相待たず、領家・預所・郷司得分押領せしむの輩は、咎に処すべき事、次いで指せ
   る請所に非ず、自由に任せ預所・郷司追い出す事、慥に停止せしむべし。
  一 新地頭補任の庄園・公領の本地頭下司得分は、御使の沙汰たり。これを注進せし
   むべし。
  一 未だ地頭を補せらざる没収の所々、御使の沙汰として注進すべき事、
   風聞の如きは、去年兵乱の時、京方に相従う輩の所職・所領、大略注進すと雖も、
   猶守護代等をして、隠れ籠もる庄公これ多しと。而るに在廰官人等、守護代を恐れ、
   詳らかに注進せざるか。慥に実正に任せ、これを注し申すべし。もしまた本下司そ
   の咎無きと雖も、没収内に注し申すの所々これ有らば、委しく尋ね明かし注進すべ
   きなり。
  右條々、仰せの旨を守り下知せしむべし。若くは猶禁制に背くの旨、自由の非法に張
  行するの輩は、守護人と云い、地頭職と云い、改易せらるべきなり。この旨を存知べ
  きの状、仰せに依って下知件の如し。
    貞応元年四月二十六日      陸奥の守平(判)
 

4月27日 乙巳
  鳥居禅尼の所領紀伊の国佐野庄地頭職を以て、尼一期の後、子息行詮法橋相伝すべき
  の由仰せらると。彼の禅尼は、六條廷尉禅門の妹、故右大將家の姨母なり。仍って数
  箇所の地頭職を避けしめ給いをはんぬ。而るに子息法橋行忠(行詮兄)母の命に背き
  当庄を押領す。剰え去年兵乱の時、仙洞に侯し合戦を致す。零落の後、猶当庄に立ち
  還るの由、行詮訴え申すに就いて此の如し。行詮は、関東御祈祷の忠を抽んずと。