1225年 (元仁2年、4月20日改元 嘉禄元年 乙酉)
 
 

10月2日 天晴 [明月記]
  関東今年十二月、必ず御元服有るべきの由、二品示し置かる。幕下加冠の為下向せら
  れんか。当時以て披露すと雖も、中将必ず相伴(理髪)すべし。てえれば、供奉は是
  非に及ばざるの由申す。但しこれまた夕良昇進の期に逢い、遼遠の路に赴くの條、ま
  た前途の妨げたるか。今に於いてはその身の事老后口入すべき事に非ず。
 

10月3日 庚寅 雨降る
  相州・武州御所に参り給う。当御所を宇津宮辻の地に移せらるべきの由その沙汰有り。
  また若宮大路東頬に立てらるべきかの旨、同じく群儀に及ぶと。
 

10月4日 辛卯 晴
  相州・武州人々を相具して、宇津宮辻子並びに若宮大路等を巡検す。始めて丈尺を打
  たる。隠岐入道行西奉行として、事始め以下日時の事、国道朝臣に尋ね問わる。今月
  十三日・十二月五日、両日の間御意在るべきの由これを申す。而るに来二十二日は故
  二品の百箇日なり。その御仏事以後、これを始めらるべきに依って、十二月五日を用
  いるべきの旨、治定せしめをはんぬ。旧御所は破却せらるべしと。今日天火日なりと。
 

10月6日 夜より甚雨 [明月記]
  今年関東御元服の事一定すと。幕下加冠の為下向せらるべきの條一定か。当時の如き
  は理髪に召さるるか。極寒の遠路、人として堪え難き事か。この事また風聞に及わば、
  いよいよ職事の仁相応せざる事か。甚だ以て不便。
 

10月11日 戊戌
  子の刻大地震。
 

10月13日 庚子 雨下る。雷鳴
  今日御所造営の勘文を召さる。天野外記大夫の奉行として、御前に於いて披覧すと。
  その状に云く、
   撰び申す 御所を立てらるべき雑事の日時
    木作りを始める日時
     今月二十三日庚戌 時辰申
     十一月七日甲子  時巳未
    礎を居える日時
     二十三日庚辰   時巳申
    立柱・上棟の日時
     十二月五日辛卯  時卯午
     立柱次第、先ず西、次いで東、次いで南、次いで北。
   嘉禄元年十月十三日        陰陽権の助安部国道

   撰び申す 御門を立てらるべき雑事の日時
    木作りを始める日時
     今月二十三日庚戌 時辰午
     十一月七日甲子  時巳未
    立柱の日時
     十七日甲戌    時巳未
     二十三日庚辰   時辰巳
     二十五日壬申   時巳未
   嘉禄元年十月十三日
 

10月15日 壬寅 雨降る
  晩に及び雷鳴。
 

10月17日 天晴 [明月記]
  實清朝臣来たり、人を以て問答す。今日東方の音信の事有りと。殊なる事無きか。武
  士多く入洛すと。(或いは云く、例の大番替料。或いは云く、二品の骨高野に送るの
  供奉、多く慕い来たると)
 

10月19日 丙午 晴
  武州の御亭に於いて、相州以下御所の御地定め有り。小路(宇都宮辻子)東西の間、
  何方を用いらるべきやの事、人々の意見区々なり。爰に地相金浄法師申して云く、右
  大將家法華堂下の御所の地、四神相応最上の地なり。何ぞ他所に移せらるべきや。然
  れば彼の御所西方の地を廣められ、御造作有るべきものなりてえり。両国司直に問答
  せしめ給う。これに依っていよいよ御不審出来するの間未だ治定せず。御占いを行わ
  るべしと。
 

10月20日 丁未
  相州・武州等参会せしめ給う。御所地の事、重ねてその沙汰有り。卜筮に決すべきの
  由と。仍って国道朝臣以下七人の陰陽師を召され、法華堂下の地を以て初一と為し、
  若宮大路等を以て第二と為し、両所の間何れの地を用いらるべきやの由、占い申すべ
  きの旨仰せ含めらるるの処、国道朝臣申して云く、御所を他方に引き移せらるべきの
  由、当道勘じ申しをはんぬ。而るに一二の御占い有るに於いては、若くは初一に付く
  べきの趣占文に有らば、申状既に両様有るに似たるか。一二の御占いに及び難しと。
  珍誉法眼申して云く、法華堂前の御地然るべからざるの所なり。西方岡有り。その上
  右幕下の御廟を安んず。その親墓高くしてその下に居すは、子孫無きの由本文に見ゆ。
  幕下の御子孫御座ず。忽ち符合せしむか。若宮大路は四神相応の勝地と謂うべきなり。
  西は大道南行し、東に河有り。北に鶴岡有り。南に海水を湛え、池沼に准ずべしと。
  これに依ってこの地を用いらるべきの旨治定しをはんぬ。但し東西の事は、御占いを
  聞こし食され、西方最吉たるべきの由面々これを申す。信賢一人不同これを申す。東
  西共不吉なりと。
 

10月22日 己酉 霽
  二位家百ヶ日の御仏事なり。武州の御沙汰としてこれを修せらる。導師は信濃僧都道
  禅、請僧二十口と。
 

10月27日 甲寅 晴
  国道朝臣武州の御亭に参り申して云く、今暁太白弖に入る。御慎みの文分明か。随っ
  て日来天変連々出現しをはんぬ。御所営作の事延引せらるべきかと。仍って御占いを
  行わる。何れの年御沙汰有るべきやの趣なり。今年たるべきの由各々占い申す。重宗
  今明年共然るべからざるの由これを申す。晴賢申して云く、造内裏以下の作事、天変
  を憚らざるの上、明年若君御年九つ、御造作有るべからざるの御年なり。早く今年中
  成風の功を始めらるべしと。彼是共尾藤左近将監景綱申次を為すと。
 

10月28日 乙卯
  御作事今年中遂げらるべきの由、その沙汰治定しをはんぬ。外記大夫奉行たりと。今
  夕、若君伊賀四郎左衛門の尉朝行の大御堂前の家に渡御す。御騎馬・御水干なり。駿
  河の守・大炊の助・三浦駿河の前司・同次郎・後藤左衛門の尉等供奉す。これ御所を
  破却せらるべきの間、御本所と為すなり。

[明月記]
  関東御元服の事、義村等の存旨猶推量し難しと。姓を得給うべきの由議定するの輩、
  これ深く博陸の心を引くか。
 

10月29日 丙辰(十一月節なり)霽
  民庶の費煩を休められんが為、諸人の過差を止めらる。仍って衣装・調度以下の事新
  符を作し下され、今日施行すと。また御所を壊し始めらる。他所に新造有るべきに依
  ってなり。屋々は造進すべき人の沙汰なり。後藤左衛門の尉基綱これを奉行す。
 

10月30日 丁巳 晴
  戌の刻、御所の御地に於いて大土公祭有り。伊賀四郎左衛門の尉朝行奉行たり。