1226年 (嘉禄2年 丙戌)
 
 

9月2日 甲寅
  将軍家密々勝長寿院・永福寺等に渡御す。各々御礼仏有り。女房輿を用いらる。結城
  の七郎朝廣御剱を役す。駿河の守・大炊の助・駿河の前司以下数輩供奉す。隠岐入道
  行西盃酒を儲く。林頭に於いて人々に勧むと。
 

9月9日 辛酉
  鶴岡八幡宮の神事例の如し。大炊の助有時奉弊の御使たり。
 

9月22日 甲戌
  幕府の南庭に於いて草鹿の勝負有り。相州・武州・駿河の前司・出羽の前司。下野入
  道等念人たり。
  射手
   一番 相模の四郎        下川邊左衛門の尉
   二番 小笠原の六郎       本間太郎左衛門の尉
   三番 三浦駿河の次郎      横溝の太郎

[香宗我部家伝證文]
**三浦義村書状
  土左国香宗我部地頭宗通の間の事、謹んで承り候いをはんぬ。論人盛房一旦掠め申し
  候と雖も、子細を申し披らき候の間、駿州去文を出され候いをはんぬ。その上父の譲
  りに任せ、重ねて御下文を賜い、上洛せしめ候。委細宗通定めて言上せしめ候か。義
  村恐惶謹言。
    九月二十二日          前の駿河の守義村(花押)