1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

閏3月3日 朝天陰、終日晴ず [明月記]
  夜に入り青侍等の説に云く、去る二十七日夜内蔵寮の宝蔵、群盗焼き穿ち乱入し、累
  代の宝物払底しをはんぬ。礼服は七條河原の小社に棄つ。件の盗露顕し、すでに搦め
  らる由と。
 

閏3月7日 [皇帝紀抄]
  内蔵寮の盗人搦め取らる。紛失物悉く出来しをはんぬ。その内応神天皇の御劔光を放
  つ。少々金物を取り、次いで劔を打ち折らんと欲するの処、盗人法師の額に当たり切
  れをはんぬと。
 

閏3月15日 天晴 [明月記]
  三品返事に云く、熊野の悪党阿波院を迎え奉らんと欲するの間、守護小笠原の太郎今
  朝馳せ下ると。日入る以前相門に参る。阿波の事云々の説、兵船三十艘ばかり阿波に
  寄せ、すでに以て合戦す。守護代陣に臨み親自ら合う。御所の前に攻め寄すと雖も、
  戦士舘面し遂に引き還りをはんぬ。仍って守護馳せ下る。件の代官創を蒙ると。但し
  何日の事を聞かず。月来風聞の事すでに露顕すか。
 

閏3月17日 丙申 快晴
  諸国守護・地頭所務の事、貞應二年の御下知状に任せ沙汰を致す市津料供給の雑事・
  赤銅等の事、守護所の張行を停止すべき事、已下の條々六波羅に触れ仰せらると。
 

閏3月20日 己亥 霽
  腰越海辺の潮赤くして血の如し。
 

閏3月27日 遙漢遠晴 [明月記]
  南海の事今日始めて不審を散ず。熊野の太郎ト云う者彼の国に在り。件の男のこの状
  到来(去る九日の事)するの由守護代に触る。その状に云く、我が方に付くべきや。
  守護方に付くべきやてえり。守護この状を見て、国中周章馳走す。騒動極まり無し。
  但し指せる事無し。日数を送るの間、去る十五日夜海人釣魚の為、漁火多く見ゆ。敵
  向かい来たるの由を存じ、また以て馳走す。その後軍兵御所を守護す。往反の人通わ
  ず。この使者は猶竊に以て入洛申す所と。事体実否を論ぜず。南海の狼藉は、滅亡の
  期来たるか。
 

閏3月29日 戊申 晴
  故禅定二品第三年の御追善の為、大倉大慈寺の傍らを点じ、伽藍を建立せらるべき事、
  日来その沙汰有り治定す。今日日次の勘文を召す。親職・晴幸以下七人の陰陽師連署
  せしめ、立柱・上棟四月二日を撰び申すと。

[明月記]
  忠弘法師云く、今朝使者として四條(入道在所)に向かう。国務の事等示し合わす。
  朝恩に依って国務に預かるの由、消息を以て先ず武州並びに駿河(彼の国守護)に触
  れらるべし。一事以上計り行わるべきの由、尤も宜しかるべし。