1234年 (天福2年、11月5日 改元 文暦元年 甲午)
 
 

7月6日 癸卯
  家司等に仰せ起請を召す。これ奉行の事、親疎を謂わず貴賤を論ぜず、各々正儀を存
  じ、沙汰を致すべきの趣なり。その衆十七人、
   前の山城の守藤原秀朝  前の山城の守中原盛長  散位大江以康
   散位三善康持      民部大丞三善康連    中務の丞大江俊行
   弾正忠大江以基     大膳の進大江盛行    左衛門の尉惟宗重通
   兵庫の允三善倫忠    藤原頼俊        沙弥行忍
   惟宗行通        三善康政(康宗と改む)
 

7月12日 己酉 朝天快晴 [明月記]
  定修今月朔の書状到来す。将軍家産の御祈り、修法十三壇五度、延引の事煩い多し。
  去る二十六日朝、義時朝臣五郎の男(實有卿実の一腹)誤って腹を突き切り度々絶入
  す。或いは狂気自害の聞こえと。当時験者これを祈る。また小怪異・妖言等有りと。
  竊に以てこの一門年々六月毎に事有り。直也事のみにあらざるか。
 

7月23日 庚申 朝天遠晴 [明月記]
  巳の時ばかり覺法印来たり談る。この次いでに聞く。関東知宗違勅の由を聞き披らき、
  件の所の地頭に玄亜相の室を補す。仍ってその庄廰に付けらる。知宗五衰現れをはん
  ぬるの由禅室に談られると。違勅の放光頗る是非の処不審を散じをはんぬ。
 

7月26日 癸亥
  御台所御産所に移らしむ(相州の第)。供奉の人々数輩。相州の亭に渡御するの後、
  子の刻に及び御産氣有り。廷尉定員鳴弦の役人を催す。十人参進す(各々白の直垂・
  立烏帽子)。
   左近蔵人       城の太郎      上野七郎左衛門の尉
   駿河五郎左衛門の尉  近江三郎兵衛の尉  三浦の又太郎
   伊東三郎左衛門の尉  葛西新左衛門の尉  中條左衛門の尉
   和泉二郎左衛門の尉
 

7月27日 甲子
  寅の刻御産(兒死して生まれ給う)。御加持は弁僧正定豪と。御産以後御悩乱。辰の
  刻遷化す(御歳三十二)。これ正治将軍の姫君なり。