1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

5月1日 癸巳
  巳の刻地震。
 

5月3日 乙未
  午の刻地震。
 

5月4日 丙申
  戌の刻地震。隠岐四郎左衛門の尉京都より参着す。
 

5月5日 丁酉
  午の刻地震。今日鶴岡八幡宮の神事なり。将軍家御参無し。武州奉幣の御使として参
  り給う。
 

5月7日 己亥
  午の刻地震。
 

5月8日 庚子
  天変地妖の事に依って、御祈祷・徳政等を行わるべきの由、内々その沙汰有り。連日
  地震の事、未だこの例有らざるの由、古老の談る所なり。
 

5月13日 乙巳
  京中数箇所の空地有るの由聞こし食し及ぶの間、関東御家人の給分に於いては、使者
  を以て巡検を加え、今年中屋舎を構うべきの由、面々相催すべきの旨、今日六波羅に
  仰せらる。もし懈怠を致さば、他人に充て給うべしと。これ且つは洛陽荒廃に似たり。
  且つは強盗警固の煩い有るの由、御沙汰に依って此の如しと。
 

5月14日 丙午 朝天陰 [明月記]
  密々の説、東方の書状、家人等一同然るべからざるの由を申すの趣、泰時の状を以て
  申す。将軍の御消息無し。また別して禅室に申さざる由密語し給うと。賢者の案ずる
  所、向後尤も不便。
 

5月15日 丁未
  土屋左衛門の尉平宗光卒す(年五十二)。
 

5月16日 戊申
  石清水八幡宮の別当法印幸清申す、宮寺領山城の国今移薪・御園両所に於いて、守護
  人を置かるべし。これ悪党等、男山境内を憚らず、或いは猪鹿を射、或いは強盗を企
  つ。禁しめざるべからずと。譜弟の寄せに就いて、守護せしむべきの旨、今日下総の
  守源保茂に仰せ付けらると。
 

5月22日 甲寅
  上野の介藤原朝光評定衆に加うと。
 

5月23日 乙卯
  石清水八幡宮寺と興福寺と確執有り。喧嘩等に及ぶの間、計り沙汰すべきの旨院宣を
  下さるるの由、六波羅よりこれを馳せ申さる。これ薪・大住両庄の用水相論の故なり
  と。仍ってその沙汰を経らる。御使を差し遣わし実検を遂げ、左右に就いて議定有る
  べきの趣、今日仰せ遣わさるる所なり。
 

5月27日 己未
  故竹の御所一廻の御追善の奉為、武州仏像を造立せらる。仏師は肥後法橋と。下山次
  郎入道・三津籐次入道等奉行たりと。