1236年 (嘉禎2年 丙申)
 
 

6月5日 庚寅 霽
  新造御所の御持仏堂立柱。夜に入りその地に於いて土公祭を行わる。晴賢朝臣これを
  奉仕す。今日、武州北條に於いて右京兆十三年の追善を修せられ給う。正日は来十三
  日たりと雖も、故にこれを引き上げらる。この間願成就院の北傍に塔婆を建立す。本
  尊は則ち大日・釈迦・弥陀等の尊像なり。同じく曼陀羅供、供養の儀を遂げらる。大
  阿闍梨荘厳房僧都行勇、讃衆十二口。右馬の助・民部少輔等阿闍梨の布施を取る。駿
  河・伊豆両国以下の御家人群参作善す。武州殊に丁寧の沙汰を致せしめ給うと。
 

6月6日 辛卯
  若宮大路新造御所の築地これを始む。仍って連日の土公祭を行うべきの由仰せ下さる
  と。
 

6月11日 丙申 霽
  戌の刻地震。その後将軍家(御直垂)門外の西東堀の辺に出でしめ給う。御除服の儀
  有り。晴賢朝臣御祓いを勤む。佐房陪膳す。これ御妹姫君御前(御年十二、准后御腹)
  卒し給うに依ってなり。外祖太相国禅室の女、御猶子たりと。夜半に及び、武州北條
  より帰参せしむと。
 

6月22日 丁未
  亥の刻地震。
 

6月25日 庚戌
  去る夜夜半螢惑両変を現すの由、天文道等、大膳権大夫師員に属きこれを申すと。
 

6月26日 辛亥
  明日新御所の柱立て有るべきに依って、信濃民部入道行然の奉行として、師員の屋形
  に御方違え有るべきかの事御沙汰に及ぶ。これ新御所当時の御所(生西の家)より正
  北方に相当たるの間、明日太白方なり。一夜の御方違え有るべきが故なり。また本御
  所(宇都宮辻子)より当時の御所乾方かの由御疑い有り。方角を糺すべきの旨行然に
  仰せらる。仍って忠尚・晴賢・国継相共に師員の家に向かい丈尺を打たしむ。乾分に
  非ざるの由各々これを申す。亥の刻将軍家御方違えの為、大膳大夫師員の屋形に入御
  す。御儲けの儀殊に奔営す。御引出物数有りと。
 

6月27日 壬子(七月節) 天晴、風静まる
  巳の刻地震。今日、若宮大路新御所の寝殿以下の屋々立柱・上棟。伊賀式部大夫入道
  光西・信濃民部大夫入道行然・清左衛門大夫季氏等奉行たり。
 

6月28日 癸巳
  大納言阿闍梨隆弁を召し、御所に於いて如意輪護摩を修せらると。