1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

9月11日 丁丑
  諸国の地頭等、山僧並びに商人借上げの輩を以て代官に補す事、一切停止せらる。こ
  れ当時の利潤を貪らんが為、後日の煩いを顧みず、此の如き輩を以て代官に補し置く
  の間、偏に公物の備えを忘れ、ただ私用の計を廻らすの由その聞こえ有るに依ってな
  り。
 

9月16日 壬午
  京都道々の輩、武士と号し手好を作り沙汰を付すの由聞こし食し及ばるるの間、停止
  すべきの旨六波羅に仰せらると。
 

9月20日 丙戌 [百錬抄]
  武士馳走す。天王寺別当猶山門に付けらるべきの由衆徒訴え申す。日吉の神輿中堂に
  坐す。すでに洛中に振り奉るべきの由風聞す。仍って警固の為なり。
 

9月21日 丁亥
  尾張の国住人中嶋左衛門の尉宣長は、承久逆乱の時官軍たるの由沙汰有り。所領を収
  公せらる。然れども当時御所中に候し、頻りにこれを愁い申すに依って、屋敷田畠に
  於いては付け渡すべきの旨、今日西郡中務の丞に仰せ付けらると。
 

9月30日 丙申 霽
  今日の評議、御家人の妻改嫁の事、所領の成敗を致し、家中の雑事を行い、現形せし
  むに於いては、その誡め有るべきの由定めらると。夜に入り御所に於いて和歌御会有
  り。題は行路紅葉・暁擣衣、九月盡。右馬権の頭・北條左親衛・相模三郎入道・伊賀
  式部大夫入道・兵庫の頭・佐渡判官等各々懐紙を献る。