1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

2月2日 丁酉
  鎌倉中停止せらるべき條々の事、今日沙汰有り治定す。保々を相分ち奉行人を付けら
  る。固く禁遏せしむべきの由と。その状に曰く、
    鎌倉中保々の奉行存知べき條々
   一、盗人の事
   一、旅人の事
   一、辻捕りの事
   一、悪党の事
   一、丁々辻々売買の事
   一、小路の狭を成す事
   一、辻々の盲法師並びに辻相撲の事
   一、押し売りの事
   右の條々、この旨を存知、奉行の保々を警固せしむべきなり。更に緩怠有るべから
   ざるの状、仰せに依って下知件の如し。
     延應二年二月二日       前の武蔵の守
 

2月6日 辛丑
  政所並びに御倉以下焼亡す。余焔他所に及ばず。失火の由これを申すと雖も、放火の
  疑い有りと。夜に入り彗星出現す。正月四日より今日に至るまで消没せず。
 

2月7日 壬寅
  政所造営の事、急速の沙汰を致すべきの旨仰せ下さる。仍って今日御倉以下事始めな
  り。夜に入り六波羅の越後の守下着す。匠作の逝去に依ってなり。
 

2月12日 丁未
  未の刻雷鳴。
 

2月14日 己酉
  天文道等終夜窺い見ると雖も、彗星既に内天に入ると。
 

2月16日 辛亥
  午の刻雨雹降る。雷鳴数声。
 

2月19日 甲寅
  午の刻政所・御倉等上棟。
 

2月21日 丙辰 天晴 [平戸記]
  今夜尚侍に補せらる。寛弘の例に依って、左大臣参陣し除目を行わしめ給う。左大弁
  (忠高)執筆す。除目の事頭の弁奉行す。
    尚侍藤原セン子
    典侍
  除目訖わり左大臣殿弓場に就いて、奏慶せしめ給う。寛弘の例に依ってなり。
 

2月22日 丁巳
  卯の刻地震。鶴岡神宮寺風無く顛倒す。北山崩れると。本仏は宮寺別当坊に渡し奉る
  と。

[平戸記]
  巳の刻大蔵卿来臨す。心閑かに世事を談りをはんぬ。その次いでに云く、関東より去
  る夜縁元の音信有り。その状に云く、天魔の蜂起説うべからず。未曾有と。その中連
  夜放火の事有り。この事に依って辻毎に守護人を置く。一人の下手を搦め得、禁固す
  るの処、後朝その躰無し。ただ一株有って縄を付くと。(略)件の炎上度々の中、去
  る四日大焼亡に及ぶと。また六波羅の武家同じく天魔現形すと。所詮武家偏に世務を
  執ること、すでに二十年に及ぶ。この兆し魔滅の瑞相なり。
 

2月23日 戊午
  去る二日の制符を以て、保々の奉行人等に付けらると。
 

2月25日 庚申
  連々の変異等の事に依って、敬神御信心有るべきの由、前の武州申し行わしめ給う。
  先ず鶴岡宮寺領鎌倉中の地の事、三ヶ條定め下さるる事有り。神宮殊に喜悦すと。太
  田民部大夫康連これを奉行す。その状に云く、
    鶴岡八幡宮寺領鎌倉中の地の事禁制有るべき三ヶ條
  一、神宮御子職掌等、祠官たるに依って宛て給う所の地、指せる罪科無く、その職を
    帯びながら点定すべからざる事。
  一、同社司の給地、上の仰せ無きの外、別当私の芳心を以て遠所狭少の地に立て替え
    べからざる事
  一、社司たるに依って、地を拝領せしむ輩の中子息無きの族、或いは後家女子に譲り、
    或いは養君権門に付け、沙汰を致すの間、新補宮人給地無きの條不便の事なり。
    自今以後子息これを相伝せざれば、職に付けその地を宛て行うべき事。
   以前の條々、社家この旨を存じ、違失すべからざるの状、仰せに依って下知件の如
   し。
     延應二年二月二十五日     前の武蔵の守
 

2月27日 壬戌 [平戸記]
  伝聞、関東衰弊・放火重疉・武家魔滅、天狗大略現見すかと。変異夢想旁示すと。京
  中また此の如し。就中相模の守重時の住宅天狗現見す。自ら以て談話すと。事嬌飾に
  非ず、尤も畏るべき事なり。
 

2月29日 甲子
  将軍家御馬二疋(鹿毛・鴾毛)を大宮大納言(公相卿)に遣わさる。これ来月公卿勅
  使として、太神宮に参らるべきが故なり。

[平戸記]
  今日入道殿より仰せられて云く、
   来月二日尚侍御慶を申す雑事を定めらる。秉燭の程参仕せしめ給うべきの由、入道
   殿下御消息候なり。仍って上啓件の如し。
     二月二十六日         左中弁定嗣(奉る)
   謹上 民部卿殿