1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

8月2日 癸巳 天晴
  卯の刻将軍家二所御参なり。先ず鶴岡宮寺に御参詣、鳥居の内に於いて御遙拝。御先
  達参会す。次いで御進発。
  行列
  先陣の随兵十二騎
   佐原四郎左衛門の尉   同六郎兵衛の尉
   葛西四郎左衛門の尉   豊嶋の小太郎
   江戸の太郎       小林の三郎
   和泉新左衛門の尉    同五郎左衛門の尉
   千葉の八郎       海上の五郎
   下河邊左衛門の尉    太胡左衛門の尉
  次いで御引馬五匹
  次いで御弓袋差し
  次いで御甲着け
  次いで御冑持ち
  次いで御小具足持ち
  次いで御調度懸け(惣持王丸)
  次いで御油
  次いで御先達
  次いで御駕(御浄衣)
   狩野五郎左衛門の尉   武小次郎兵衛の尉
   平賀三郎兵衛の尉    長兵衛三郎
   渋谷の三郎       俣野の彌太郎
   山城次郎兵衛の尉    飯富の源内
   小河左衛門の尉     加治左衛門の尉
   伊佐右衛門の尉
    以上歩行、御駕の左右に侯す。
  後騎
   左兵衛の督(頼氏卿)  八條少将(實清朝臣)
   右馬権の頭       駿河の守
   宮内少輔        陸奥掃部の助
   甲斐の前司       秋田城の介
   摂津の前司       佐渡の前司
   太宰権の少貳      上総権の介
   出羽の前司       内蔵権の頭
   前の弾正少弼      中條右近大夫将監
   周防の前司       兵庫の頭
   近江大夫判官      加賀民部大夫
   信濃民部大夫      施薬院使良基朝臣
   散位晴賢朝臣      権暦博士定昌朝臣
   小山五郎左衛門の尉   薬師寺左衛門の尉
   上野彌四郎右衛門の尉  上総五郎左衛門の尉
   佐渡五郎左衛門の尉   隠岐判官
   壱岐小三郎左衛門の尉  信濃三郎左衛門の尉
   近江四郎左衛門の尉   加地七郎左衛門の尉
   伊賀次郎右衛門の尉   和泉七郎左衛門の尉
   足立木工権の介     宮内左衛門の尉
   長尾平内左衛門の尉   加藤左衛門の尉
   伊東六郎左衛門の尉   宇佐美左衛門の尉
   武田の五郎次郎     南部の次郎
   武藤左衛門の尉     内藤七郎左衛門の尉
  後陣の随兵十二騎
   武田の六郎       大井の太郎
   薗田の又太郎      木村の彌次郎
   相馬左衛門の尉     筑後左衛門次郎
   春日部三郎兵衛の尉   品河の小三郎
   三村右衛門の尉     長掃部左衛門の尉
   長尾三郎兵衛の尉    秋葉の小次郎
 

8月3日 甲午
  筥根の御奉幣なり。当山の衆徒並びに供奉の人々延年す。各々芸を施す。相互に興を
  催さずと云うこと莫しと。
 

8月4日 乙未
  三嶋に着御す。今日御奉幣の儀無し。この所に於いてまた延年に及ぶと。
 

8月5日 丙申
  今暁三嶋の御奉幣を遂げらる。夜に入り走湯山の御奉幣なり。当山の衆徒延年す。
 

8月6日 丁酉 甚雨
  今日御還向。夜に入り酒匂の宿に着き給う。
 

8月7日 戊戌 終日甚雨暴風
  二所より御下向の間、路次の煩いなり。随兵以下供奉人皆笠を取るに及ばず。衣装を
  湿すと。
 

8月10日 辛丑
  去る三月不事に依り出仕を止めらるるの輩免許を蒙る。陸奥掃部の助仰せを承り下知
  を加うと。
 

8月14日 乙巳 天晴
  夜に入り北條武衛御除服。
 

8月15日 丙午 天晴
  鶴岡の放生会、将軍家御参宮。廊の車寄せ戸に於いて、暦博士定昌朝臣(衣冠)反閇
  に侯す。相模右親衛御剱を役す。佐原七郎左衛門の尉政連御調度を懸く。
 

8月16日 丁未 天晴
  今日また御参宮。近江大夫判官泰綱(束帯)・出羽判官家平等供奉す。
 

8月21日 壬子
  子の刻地震、大動なり。
 

8月22日 癸丑
  鶴岡神宮寺去る二月顛倒するの間、日来修造せらる。すでにこれを造畢す。仍って今
  日本仏を入れ奉ると。