1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

閏4月1日 己丑 天晴
  今日入道正五位下行武蔵の守平朝臣経時卒す(法名安楽、年三十三)。禅室卒去の事、
  即ち飛脚を差し京都に申せらる。行程三箇日たるべしと。

[百錬抄]
  関東前の武蔵の守経時所労、遂に以て死去すと。仍って京中三十ヶ日触穢の由、後日
  定めらるるなり。
 

閏4月2日 庚寅
  禅室佐々目山麓に葬り奉ると。
 

閏4月4日 壬辰 晴 [葉黄記]
  関東の経時入道、去る一日酉の時逝去す(去年六月より病を受け、去る月出家、病の
  躰種々風聞有りと雖も、実説を知らず)。今朝飛脚到来すと。予参院す。仰せに依っ
  て書状を以て重時朝臣を訪い仰せられをはんぬ。予為康法師を以て使いとしてこれを
  遣わす。
 

閏4月6日 甲午 晴 [葉黄記]
  山門の間の沙汰なり。終日奔走す。昨日酉の刻山門西塔の衆徒合戦すと。事の起こり
  は、鞍馬の堂衆内陣に於いて仏を供養す。また裏無しを着す事、検校十楽院僧正これ
  を聴す。学侶この事を訴えるに沙汰無し。仍って本山に触れ訴う。本山の衆徒沙汰を
  致すと雖も、猶成敗無し。その沙汰を止めんが為、十楽院並びに祐性僧都の門人等合
  戦す。すでに青蓮院・梨本両門徒の騒動たるなり。今朝制止の院宣を両門徒・十楽院
  僧正の許に下されをはんぬ。また武家に仰せられをはんぬ。
 

閏4月8日 丙申
  六波羅以下御訪いの使者参向す。彼の卒去の事、去る四日申の刻飛脚京着するの間、
  洛中に披露すと。
 

閏4月9日 丁酉 晴 [葉黄記]
  山門の事、今朝重時・行継・泰経を以て子細を申す。各々奏聞しをはんぬ。この外條
  々の事を申す。重事なり。不肖の身恐れ有り。憚り有り。ただ天鑑に任す。
 

閏4月11日 己亥 晴 [葉黄記]
  重時使者を以て山門の事を申す。成茂沙汰し同じく子細を申す。入道殿下に参り、子
  細を申しをはんぬ。
 

閏4月12日 庚子 雨降る [葉黄記]
  武家の使者また参る。山門の沙汰なり。
 

閏4月13日 辛丑 晴 [葉黄記]
  山門の沙汰猶院よりこれを申し合わさる。内々武家に仰せ合わさるるなり。
 

閏4月17日 乙巳 晴 [葉黄記]
  鞍馬寺堂衆の過差停止すべき事、院宣を十楽院僧正に下されをはんぬ。頻りに子細を
  本山に申すと雖も、建仁の前事爭か忘るべきや。入道殿御春日詣で。関東の事、穢気
  猶京都に引き来たるかの由その儀有り。延引しをはんぬ。日来不穢の由沙汰有り。
 

閏4月18日 丙午
  亥の刻俄に鎌倉中物騒す。介冑士衢に満つと。暁更に及び静謐す。旁々巷説等有りと。
 

閏4月20日 戊申
  近国の御家人等馳参すること幾千万を知らず。連日騒動し静謐せずと。
 

閏4月24日 壬子 晴 [葉黄記]
  横川の衆徒蜂起の事、子細を仰せ合わさる。頭の弁(姉小路顕朝)の沙汰不調の故、
  この事出来すか。尤も不便。この事横川夜討ち有るか。覺猷堅者、財物を盗みをはん
  ぬ。彼の婦類梨本門人昌国なり。而るに無実を陳じ申すの間、宮より陳状を召し進せ
  らる。(略)件の状を以て衆徒に下さるるの間、すでに不許の由を存じ蜂起す。
 

閏4月28日 丙辰 晴、夜に入り雨 [葉黄記]
  重時の許に向かう。院の御使に依ってなり。横川の事子細を仰せらる。次いで東山殿
  (九條道家)に参る。東大寺造営の勧進上人未定の間、定親法務に仰せ付けらるべき
  の事、関東に申せらるべきの由御定有り。その事これを伝え申す。