1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

10月6日 己卯
  将軍家俄に鶴岡別当法印の雪下坊に入御す。女房輿を用いらる。武藤左衛門の尉景頼
  御劔を持つ。相模右近大夫将監・武蔵の守・尾張の前司・少輔左近大夫・上野大蔵権
  の少輔已下十余輩御共に候す。また難波少将等追って参上す。御鞠会有りと。秉燭の
  後還御す。松明を取ると。

[葉黄記]
  蓮華王院修理の事、関東知行の庄々八ヶ所領状す。
 

10月21日 甲午
  永福寺修理の間の事、條々その沙汰有り。清左衛門の尉満定奉行すと。
 

10月24日 丁酉
  従五位下行大炊の助藤原朝臣親秀法師(法名寂秀)卒す(年五十四)。豊前の前司能
  直の男なり。
 

10月25日 戊戌
  嶋津豊後左衛門の尉忠綱、高麗の山鳥二翼を以て将軍家に献る。その色白くして雪の
  如し。その躰吾国の鳥に相似ず。幕府の賞翫ただこの事なり。
 

10月27日 庚子
  山城の国悪徒蜂起の由、六波羅より注進状到来するの間、その沙汰を経らる。これを
  相鎮めんが為、本所一円の庄園等に於いて、地頭を新補せしむべきかの由意見に及ぶ。
  先ず奏聞を経らるべしと。