1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

7月1日 辛丑 甚雨暴風
  人屋顛倒し、稼穀損亡す。古老云く、二十年以来此の如き大風無しと。
 

7月5日 乙巳
  来月の鶴岡八幡宮放生会御参宮の随兵以下供奉人催せらる。
 

7月14日 甲寅
  放生会に供奉すべきの旨、佐渡の前司基綱に仰せらるるの処障りを申す。指せる故障
  に非ざるの由これを聞こし食し及ぶに依って、重ねてこれを催せらると雖も、猶先の
  如しと。また今日廻廊に参るべきの人々を催せらる。その中備後の前司障りを申すと。
 

7月17日 丁巳
  相州の御第に於いて御祈祷等を始行せらると。
 

7月20日 庚申
  供奉人等の事重ねて催促有り。日来連々子細を申す人々、
  布衣
   右馬権の頭   尾張の前司  駿河の四郎  新田の太郎  後藤佐渡の前司
   小山出羽の前司 下野の七郎  大須賀次郎左衛門の尉  土肥三郎左衛門の尉
   伊豆太郎左衛門の尉      加地七郎左衛門の尉   加籐左衛門三郎
   常陸次郎兵衛の尉(聊か心に懸かる事有るの由これを申す)
  随兵
   陸奥の六郎(七郎をして勤仕せしむべきの由申す)
   千葉の介(故障)